イスラム教のはじまり


Mohammed_receiving_revelation_from_the_angel_Gabriel
天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド
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1: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)22:27:14 ID:HSsggiXZ8
近代まで人類のほとんどはユーラシア大陸に住んでいて、
そのユーラシア大陸の中央部をまとめたのがイスラーム文明だった。
ヨーロッパも中国も、インドも北アジアの遊牧民もイスラームと接触した。

そのわりに中学高校の世界史でも、世間一般の認識でも、
イスラーム世界の歴史についてはよく理解されていないように思う。

そんなイスラーム世界の歴史についてダラダラ語ってみようと思う。

笑い系か真面目系か、どういうスタンスで語るか、いまいち決められてない。

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説

4: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)22:29:05 ID:LK2Ye02QG
どの辺の時代から語るん。

9: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)22:38:07 ID:GPGDZX2ED
高校の世界史の資料集はやたらイスラムに対する擁護が多かったな

10: 2014/07/19(土)22:38:27 ID:HSsggiXZ8
おーぷんってほんと簡単にスレ立つんだな。
今んとこ誰も見てないだろうけど、ダラダラ書いていこう。
(ブロットも決めてないから流れ任せで)


まずはイスラームが成立した時代の状況から。

イスラームという宗教は、西暦622年頃にアラビア半島西部の
メッカに住んでいた商人ムハンマドが創始したとされている。

実はその少し前から、ユーラシア大陸の西半分では、
当時のレベルで「世界大戦」と言える規模の大戦争が続いていた。

一方の雄はゾロアスター教を国教とし、インダス川から地中海までの支配を目指すササン朝ペルシア。

もう一方の雄は、これに対抗して古代ローマ帝国の復興、地中海再統一を目指す東ローマ帝国。


アラビア半島は両大国の中間にあったけど、灼熱の砂漠が広がっているので直接戦場にはならない。

その代り、両大国はアラビア周辺の小国を煽って代理戦争をやらせた。

ササン朝ペルシアはアラビア半島東部のオマーンに侵攻し、
南部のイエメンにあった小国群を従属させて、東ローマと東洋を結ぶ紅海航路を遮断しようとした。

それに対して東ローマ帝国はアフリカ島北部のエチオピアを煽って、アラビア半島に侵攻させた。

エチオピアの将軍アブラハはイエメンに渡り、そこからアラビア半島西岸を攻め上った。

ところが、途中のメッカまで来たときに、突然疫病が流行って兵士がバタバタ倒れたので退却した。


メッカの人々はアブラハの軍が見たこともない巨大な動物、象を連れているのを見て驚いた。

そこでアブラハがやって来た年は「象の年」として語り伝えられた。

この年に、メッカの商人アブドゥッラーの子としてムハンマドという子供が生まれた。

西暦570年のことと言われている。

35: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:44:36 ID:yqA6b7pRg
>>10
ローマ好きの自分にとってイスラムの番狂わせ感は異常

15: 2014/07/19(土)22:47:23 ID:HSsggiXZ8

ムハンマドは可哀想な子供で、父親は生まれる前に、
母親も生まれて数か月後に死んでしまったので、
爺さんと叔父さんに育ててもらった。

青年になったムハンマドはハディージャという女商人に仕えることになった。

真面目で顔も性格も良かったのでハディージャに非常に気に入られ、ついに婿になる。

この時ムハンマドは25歳、ハディージャは40歳ぐらいだったらしい。

そんな年の差にもかかわらずムハンマドはハディージャをとても大切にした。


610年頃。
結婚生活15年目、40歳を迎えたムハンマドは人生の意味などについていろいろ悩みを生じたらしく、
メッカの近くの岩山の洞窟で瞑想にふけることが多くなった。

仕事をサボっていたのかどうかは知らない。



そんなある日、彼はふと「読め!」という叫び声を聞いて目を上げた。

すると地平線上に巨大な巨大な人影が立っている。東西南北、どの方向にも巨大な人影が立っている。

巨大な人影は「天使ジブリール」(ガブリエル)と名乗り、「神の啓示を読め!」と命令する。

ムハンマドは暑さのあまり頭がやられたかと慌てて家に飛びかえり、
ハディージャ(65)の膝に縋り付いて震えた。

17: 2014/07/19(土)22:53:55 ID:HSsggiXZ8
ところがハディージャ(65)は何故かムハンマドを信じて、「貴方は神に選ばれたのです」と励ました。

そこでムハンマド(40)もだんだん自信を持って、天使が告げる言葉を周囲の人々に述べ伝えるようになった。


その頃アラビア、というか西アジア全体で自称預言者はいくらでもいたとはいえ、
やはり周りから見れば気が触れたとしか見えないので、最初のころは誰も相手にしてくれなかった。

最初の信者になったハディージャを除くと、かろうじて親友中の親友アブー・バクルと従兄弟のアリーだけが信じてくれた。


ときには遠くの町に行って説教もしたけど、相手にされないばかりか石を投げられた。



とはいえ石の上にも三年、石を投げられても三年で、じわじわと彼の言葉に耳を傾ける者も出てくる。

メッカの長老たちはムハンマドを「若者を煽動する危険人物」とみなして暗殺計画を立てた。

それを察知したムハンマドは夜陰に紛れて、支持者のいる北方の町、メディナに逃走した。

なお、暗殺者たちをかわすためにムハンマドの寝床にはアリーが代わりに横になり、
襲ってきた刺客たちを軽く撃退してからムハンマドの借金を全部代わりに返済して、後から師匠を追っかけて行った。
ハディージャはこの時点で亡くなっていた。

これが西暦622年。イスラーム暦の元年になる。

21: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)23:09:31 ID:Jgo5oRIGY
>>17
ハディージャ(65) www
その頃はメディナじゃなくてヤスリブだけどね、どうでもいい方向なら別にいいけど

38: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:46:19 ID:yqA6b7pRg
>>17
アリーかっこよすぎ

18: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)23:02:58 ID:FumV4g6Sj
なんかファンタジー小説のあらすじ見てるみたいだな

19: 2014/07/19(土)23:03:43 ID:HSsggiXZ8

メディナに逃走したムハンマドは、その頃メディナで対立していた二つの部族の争いを「公平な第三者」として巧みに仲裁し、いつの間にかメディナの指導者になった。
ここから預言者ムハンマドの政治家・軍人モードが発動しはじめる。


まずはメッカの隊商妨害。

メッカと北方シリアをつなぐ隊商ルートを何度も襲撃してメッカの経済力をすり減らす。

襲ってきたメッカの正規軍を迎え撃って見事に撃退。

近隣の遊牧民たちを次々に服従させ、やがてムハンマドの威令はアラビア半島全土に轟くようになる。
その過程では盟友アブー・バクルやアリーも大いに協力した。


そして632年。
苦節10年を経てついにムハンマドはメッカに再入城する。かつて自分を追放した町に、今度は征服者として。


メッカの中心、無数の偶像が祭られたカアバ神殿に入ったムハンマドは弓を構え、
「真理が来た! 真理が来た! 今や暗黒は去った!」と叫びながら、次々に偶像を射倒した。

最後に、神殿中央におかれた真っ黒な隕石だけが残った。

ムハンマドはこれを神アッラーの象徴として永遠に残すことにした。


アラビア全土から様々な部族がメッカに代表を送り、ムハンマドに忠誠を誓った。

ムハンマドは北方でなおも「世界大戦」を続ける東ローマ帝国とササン朝ペルシアにも使節を送り、イスラームへの改宗を勧めた。

ところがササン朝ペルシアに行った使節は「砂漠の蛮族が何をほざくか」と鼻で笑われ、頭に砂をかけられて舞い戻って来た。


それを聞いたムハンマドは喜んでこう言ったという。

「ペルシア王は我らに返礼として土を贈った。ペルシアの国土が我らの物となる証拠である」


それから2年度、ムハンマドは重病となって、晩年に迎えた幼な妻アーイシャの膝で死んだ。
634年のことだった。


ムハンマドの死後


22: 2014/07/19(土)23:12:40 ID:HSsggiXZ8
ところがムハンマドが死ぬと大問題が起こった。

まず、後継者をどうするか。

ムハンマドの生前はどんな問題が起こっても、彼が「神の言葉」で教団を導いた。
ところが彼が世を去った今、「神の言葉」を聞くことができる人物はいない。

ムハンマドには息子もいなかった。ファーティマという娘がおり、その婿が従兄弟のアリーだったが、アリーは「私はまだ若く、教祖の後継者にはなれない」と遠慮した。

話し合いの結果、ムハンマドの親友だったアブー・バクルが中心となって、合議で教団を運営していくことになった。



もう一つの問題はいっそう深刻だった。

アラビア半島の諸部族はムハンマドという特異なカリスマと軍事的才能を持つ預言者に従っていたのであり、ムハンマドが死んだとたんに「ほな知らんわ」と一斉に離反してしまったのだ。

アブー・バクルを中心とするイスラーム教団は生き残りのために、
アラビア半島全体をもう一度征服しなおす羽目になった。

このとき、ハーリドという武将が鬼神のような活躍を繰り広げる。
ハーリドは生前のムハンマドに「アッラーの剣」と讃えられた名将だ。


ムハンマドより年上だったアブー・バクルはわずか2年後に病死。

次にウマルという人物が教団の指導者になった。
その頃、ハーリドらの活躍でアラビアの再統一はほぼ成っていた。

前線で戦っている軍団の動きはメッカにコントロールしきれなくなってきた。

彼らはその場その場の状況に応じて、あるいは目先の戦利品を目指してどんどん戦線を拡大した。

その結果、際限なく「世界大戦」を続けていた北の大国、ササン朝ペルシアと東ローマ帝国の国境に突然砂漠の蜃気楼の彼方からアラブの遊牧民たちが乱入することになる。

25: 2014/07/19(土)23:25:20 ID:HSsggiXZ8
当時、「世界大戦」は絶頂を迎えていた。

東ローマ皇帝ヘラクレイオスはアルメニア・突厥・ハザールといった
周辺国と大連合軍を組んでササン朝ペルシアの本国イラクに侵入し、
首都のクテシフォンを包囲して、灌漑施設を破壊しまくった。

そのせいでメソポタミア文明以来の農業基盤はガタガタになった。


一方、ササン朝ペルシアのホスロー2世は同じタイミングで
東ローマ帝国領のシリア・エジプトを襲撃し、
皇帝不在の首都コンスタンティノープルを急襲した。


大帝国の皇帝二人が最前線に出て、まったく同時に
互いの首都に王手をかけるというカオスな状況。

東ローマ皇帝ヘラクレイオスは慌ててシリア・エジプトからペルシア軍を叩き出し、なんとか講和が成立したものの、この激闘で両国とも軍事的・財政的に疲弊しきった。


そこに突然第三勢力が湧いて出たからたまらない。
あれよあれよという間に、アラブ・イスラーム軍は南イラクを占領し、シリアに進撃した。

このとき前線の総指揮官だったのが例の名将ハーリド。

ハーリドがシリアに侵攻すると、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは
「俺が人生の半分かけて取り戻したものを奪われてなるか」と迎撃に出るが、見事一蹴される。

このときヘラクレイオスは、「シリアよさらば、敵にとってなんと美しい国なのか」と嘆いた。

帰途、彼は落胆のあまり精神を病み、水を見るのが怖いという謎の病気にかかった。

首都コンスタンティノープルに入るときにどうしても海を渡らないといけないので、
四方を板で囲った船を造らせて何とか都に入ることができたという。


ところが、勝者の側にも悲劇が見舞っていた。


勝利の立役者ハーリドは、メッカで教団を指導しているウマルと仲が悪かった。

東ローマ軍との決戦前夜、ハーリドのもとにウマルからの命令書が届いた。

静まり返った天幕の中で、ハーリドは一人その文書を開いた。


そこには、「おまえクビwww」と書いてあった。


ハーリドは何も見なかったふりをして、翌日の決戦で見事大勝利した。


敗走する東ローマ軍が地平の彼方に消えて行った後、ハーリドは部下たちを集めて
無言でウマルの命令書を取り出して見せた。

誰もが声を失うなか、ハーリドは表情ひとつかえずに姿を消したという。

39: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:50:34 ID:yqA6b7pRg
>>25
熱い展開が続くな

26: 2014/07/19(土)23:37:46 ID:HSsggiXZ8
言い忘れていたけど、ムハンマド死後に教団を指導することになった
アブー・バクルやウマルは「カリフ」(正確にはハリーファ)と呼ばれる。

アラビア語で「代理人」って意味。



「アラブの大征服」と言われる、世界史を変える戦争は始まったばかりだった。


637年、アラブ軍はササン朝ペルシアの首都クティフォン(バグダッドの近く)を占領した。

王宮の宝物庫には膨大な金銀財宝があったが、アラブの末端の兵士たちは金など見たことがなかったので、大量の金を自分たちにも価値が分かるちょびっとの銀と取り換えて悦に入っていた。

防虫用の樟脳は塩と間違えて、神妙な顔をして「文明の味」を堪能したという。


シリアではハーリドが去った後、アムルという武将が頭角を現してきた。

「神の剣」ハーリドとは対照的に、知略で勝負するタイプの名将だ。


彼が聖都エルサレムを陥落させると、カリフのウマルが前線に視察に来た。

その頃のカリフたちはとても質素だったので、ウマルは従者も連れずにロバでやって来て、粗末な皮の服を着たまま地べたに額づいて神に感謝したという。


さて、アムルはウマルをつかまえて、こう進言した。

「なんでもちょっと西の方にエジプトとかいう大変豊かな国があるらしいんですが」

「ああ、じゃあ征服したまえ」とウマルは簡単に許可した。



ところがメッカに帰ったウマルは気が変わってきた。


「エジプトとか、さすがに本国から遠すぎるんじゃね?」


さて、エジプトに向けて進軍を開始したアムルのもとに、
ある夜カリフ・ウマルからの密使がやってきた。

アムルは密使に渡されたウマルの命令書を凝視した。

彼のなかで何かの直感が動いた。

彼は命令書の封を開けずにそのまま進軍を続け、翌日にエジプト国境を越えた。
その夜、彼がウマルの命令書を開封するとこう書いてあった。

「もしお前がこの手紙をエジプトに入る前に開封したなら直ちに引き返せ。
 エジプトに入った後に開封したなら、後は運命をアッラーに任せよ」


彼は運命をアッラーに任せて東ローマ帝国の守備隊を追い払い、エジプトを征服した。

28: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)23:50:32 ID:qQjiYd8Lc
大学でイスラム史専攻してたけど、15年以上経つとすっかり忘れたわw

続けてくれ



シーア派とスンナ派の誕生


29: 2014/07/19(土)23:51:40 ID:HSsggiXZ8
そんなこんなで細かく書いているとキリがないので(遅い)、

箇条書き的にすると、こんな感じで「アラブの大征服」は怒涛のように進む。


632年 ムハンマド死亡(さっき書いた634年ってのは間違い)
635年 ダマスカス占領
636年 ヤルムークの戦い(シリア征服)
637年 クテシフォン占領
639年 エジプト侵攻
642年 ニハーヴァンドの戦い(ササン朝ペルシア崩壊)

そして644年、ウマルはメッカで死亡する。

次にカリフになったのはウスマーンという老人だった。


ウスマーンは信仰心が深かったが、リーダーシップを取るタイプではなかったので、
何も知らない能天気なカリフのお膝元で汚職が横行し、政治が混乱し始めた。

やがて不満を持った兵士たちがウスマーンを襲って殺害する。

イスラームの歴史上最初に、信者がカリフを殺した事件だった。


ウスマーンの殺害者たちはメッカに残っていた有力者たちのなかで、
いちばん筋目が正しいアリーを次のカリフに担ぎ出した。

ムハンマドの従兄弟かつ娘婿で、世界で2番目にイスラームの信者になった例の豪傑だ。


ところが、その頃シリアを支配していたムアーウィヤという総督がこれに反対する。

「カリフを殺した連中が擁立したカリフなんて認められっかよ。俺は忠誠の誓いを拒否すんよ」

こうして「第一次内乱」といわれる内部紛争が始まった。


アリーは今や前線から遠く離れたメッカを離れ、イラクに拠点を移した。

そこで多くの6万人もの兵士を集めて、シリアの総督ムアーウィヤに戦いを挑む。


戦いはアリー優位に展開したが、突然ムアーウィヤ軍の兵士が

槍の穂先に聖典コーランを結び付けて振りかざした。


「お前たち、アッラーのお言葉が書かれた聖典に向かって武器向けるの?
 バカなの? 死ぬの? 地獄行くの?」


ってわけでなし崩し的に停戦に追い込まれたアリー。

「ばかじゃねーの」と憤慨して出ていった過激派は「あんな無能が諸悪の根源」と逆切れし、
礼拝中のアリーを襲って滅多切りにした。カオスである。
(ムアーウィヤの暗殺も計画したが失敗)


以後、アリーの支持者たちは「シーア派」、それ以外は「スンナ派」と呼ばれて
イスラームの二大宗派を形成する。

30: 2014/07/20(日)00:09:44 ID:JNmKIlnNz
さて、ムハンマドが死んでからここまでで、アブー・バクル、
ウマル、ウスマーン、アリーの4人がカリフとして教団を指導した。
彼らの指導のもとで(と言いながら前線の独走がほとんどだけど)
教団の勢力はアラビア半島西部から、東はイラン、西はエジプトまで拡大した。

彼ら4人を、イスラームがシーア派だのスンナ派だのに分裂する前の
古き良き時代のカリフたちとして、後世「正統カリフ」と呼ぶことになる。

次:1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part2 【ウマイヤ朝〜アッバース朝】