前回:1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part1 【イスラム教の始まり〜正統カリフ時代】

ウマイヤ朝の大統一


Omayyad_mosque
ダマスカスのウマイヤド・モスク
現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である
photo credit


30: 2014/07/20(日)00:09:44 ID:JNmKIlnNz

アリー殺害によって正統カリフ時代は終わり、イスラーム世界は大きく動揺した。

敵が勝手に自滅したシリア総督ムアーウィヤはついにカリフを自称し、
シリアのダマスカスを拠点にイスラーム世界を再統合した。


ムアーウィヤはイスラーム史上初めてカリフの座る玉座や謁見の間を用意し
一般人と自分を隔離した。

ここにきてカリフは単なる「教団指導者」から「皇帝」に近い存在になったのだ。


ムアーウィヤは自分の息子ヤズィードを後継者に決めて、世襲の王朝を開いた。
「ウマイヤ朝アラブ帝国」の誕生だ。

正統カリフたちはみんな自分で後継者を指名せず、死後の互選に任せた。

自分の息子を優遇することもなかった。

当然ながら「教団の私物化だ!」と批判する人々も多いだろう。


臨終の際にムアーウィヤはヤズィードを呼んで、こう遺言した。

「いいか、アリーにはフサインという息子が生き残っている。
 フサインには決して手を出すな。もしフサインを殺したりしたら大変なことになる」

ところがヤズィードは遺言を守らなかった。


ウマイヤ朝に反対する人々は多い。

イラクのクーファという町の人々は、アリーの遺児ヤズィードを旗頭に反乱を起こそうとして、メッカにいたフサインを招いた。

フサインは権力争いを嫌って何度も謝絶したが、とうとう断り切れずに旅立った。

ヤズィードは慌てて3000人の軍隊を派遣してユーフラテス川の畔でフサインたちを包囲した。

フサインと従者は合わせて72名。
目の前に川があるのに周囲を3000人に囲まれ、絶望のデスゲーム。


飢えと渇きの1週間が過ぎたあと、一瞬の虐殺が展開され、ムハンマドの孫は殺された。


これが「カルバラーの悲劇」と言われる事件。

これをもって、アリー支持者のシーア派と、その他多数派のスンナ派の対立は決定的になる。

シーア派はウマイヤ朝の権威を否定し、ムハンマドとアリー、フサインの子孫こそが真の指導者だと主張し、その後何度も反乱を起こすようになる。

31: 2014/07/20(日)00:26:41 ID:JNmKIlnNz
680年からはアラビア半島を舞台に「第二次内乱」が発生した。

初代正統カリフ、アブー・バクルの孫が「自分こそマジカリフ」と主張し、
イスラーム世界の南半分を制圧。


これに対して、ウマイヤ朝は「ハッジャージュ」という冷酷無比な将軍を送り込む。

ハッジャージュは敵軍の本拠地メッカを包囲し、遠慮会釈なしにガンガン投石した。

聖都はボロボロに破壊され、カアバ神殿も瓦礫になるも反乱は平定された。

ついでハッジャージュはシーア派の拠点、イラクのクーファに乗り込んだ。

黒い覆面で顔を隠し、礼拝の真っ最中に突然モスクに登場。

ズカズカと説教壇に上り、あっけにとられる群衆を前に演説をぶった。


「ターバンの下に血が流れる。我こそはそれを実現する者である!」

ハッジャージュが覆面をはぎ取った瞬間、兵士たちが雪崩れ込んで、
モスクに集まっていた群衆6万人を皆殺しにしたという。


ハッジャージュはウマイヤ朝のカリフに絶賛され、帝国東半分の全権を任された。

そこで彼は「大征服」をさらに進めることにして、腹心の部下二人に命じた。

「クタイバは中央アジアに進め。カーシムはインドに進め。
 どちらかより早く中国に到達した者を中国全土の総督にする」

ちなみに二人ともそこそこの成功はおさめるものの、
カリフが代わると強すぎる力を持ったハッジャージュは危険視されて処刑され、
クタイバとカーシムも巻き添えをくらって終わる。

中国とイスラーム世界の衝突はもう少し先になる。


この頃、西側でも大征服は一段と進む。

エジプトから西へ西へと進んだウマイヤ朝軍は709年についに大西洋に達した。

指揮官はモロッコ西端まで来ると、海に馬を乗りいれて、
「アッラーよ、これより先にもはや征服すべき土地はないのですか!」と絶叫したらしい。

まだあった。

その頃、モロッコの北のイベリア半島(スペイン・ポルトガル)にあったキリスト教の西ゴート王国では国王ロドリーゴが、国境の要塞を守るフリアン伯爵の娘に一目ぼれして、彼女をレ○プしてしまった。

伯爵は激怒して、復讐のためにウマイヤ朝軍を呼び込んだ。

711年にウマイヤ朝の将軍ターリクはイベリア半島に上陸し、わずか7年でイベリア半島全土を制圧した。


イベリア半島最北端の山岳地帯に辛うじて西ゴートの残党が逃げ込んで、
ここから「7年で奪われたものを700年かけて取り戻す」国土回復戦争が始まることになる。

43: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:57:19 ID:yqA6b7pRg
>>31
一人の伯爵が歴史を変えたんだな



アッバース朝の時代へ


Abbasid_Caliphate_most_extant
アッバース朝の版図(深緑はまもなく離反し、緑が850年以降の領土として留まる)
photo credit 

32:  2014/07/20(日)00:41:00 ID:JNmKIlnNz
繰り返すが、ウマイヤ朝に反対する人々は多い。

大征服は景気よく進んだものの、内政はうまくいかなかった。


アラブの部族同士の対立、先祖代々の信者と新参信者の対立、
戒律をガン無視して酒は飲むは絵は描かせるわ(イスラームは絵画禁止)の
ウマイヤ朝カリフたちに対する感情的な反発。


そんな状況の中、世界の歴史でも稀にみる規模の陰謀劇が始まる。


730年頃、今のヨルダンの近くの砂漠の中に、ムハンマドの叔父の
「アッバース」の子孫たちが隠れ住んでいた。

彼らはウマイヤ朝への不満の高まりを見て、「もしかすると俺らにチャンスが」と直感。

各地に密使を派遣して反乱を煽動することにした。

そんな密使の中に「アブー・ムスリム」という、謎に満ちた人物がいた。


彼のことは本当に分からない。

まず「アブー・ムスリム」は本名ではない。あだ名みたいなもの。
出身地も分からない。前半生も分からないし、民族すら分からない。

とにかくアブー・ムスリムはアッバース一族に命じられ、身一つで中央アジアに潜入した。

そこで彼は、ありとあらゆる反体制勢力を舌先三寸でまとめ上げた。

どの勢力にもいい顔をして、自分の背後にいるアッバース一族の存在は完全に秘密にして、ただ「皆が満足する者をカリフにしよう」と玉虫色の未来を描いてみせた。


なんとも不思議なことに、それだけでありとあらゆる反体制派が彼のもとに集結し、たちまち世界を揺るがす大反乱となってイラン、イラクを席巻し、
ついにウマイヤ朝を崩壊させてしまった。


ちなみにこの混乱のなかで、肝心のアッバース一族も巻き添えをくらって殺されてしまう。

アブー・ムスリムは、辛うじて生き残ったアブー・アル・アッバースという人物を探し出し、突然「皆さん大事な話があります。この人がカリフになります」と宣言した。

それまでアブー・ムスリムに従っていたありとあらゆる反体制派たちは
「なんだそりゃ、聞いてねえ!!」と驚愕したが、なんとなく場の勢いで新カリフが確定。

世にいう「アッバース革命」であり、「アッバース朝イスラーム帝国」の誕生である。

750年のことだった。

33: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:42:42 ID:5YcWasvHq
高校の授業二十回分くらいはあるだろうからなあ。現代までだと

34: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:43:52 ID:rY8T87n2j
面白くなってきた

40:  2014/07/20(日)00:51:34 ID:JNmKIlnNz
ところで、その頃、大陸のはるか東の方でもう一つの巨大な帝国が繁栄していた。
「唐」である。

時は西暦751年。
アッバース革命の翌年、唐の将軍「高仙芝」は標高5000メートルのパミール高原を突破し、ウズベキスタンのタシケントを急襲した。


タシケント王はアッバース朝、正確には中央アジアの実質的な支配者だった
アブー・ムスリムに助けを求めた。


そこでアブー・ムスリムは腹心の部下を派遣し、タラス河畔で唐軍と戦わせる。

唐軍は夜更けの戦いで裏切りが出て総崩れとなり、
高仙芝自身も棍棒を振り回して命からがら逃走した。

この時捕虜になった唐軍兵士の中に製紙職人がいて、
漢代に発明された「紙」というものが初めて大陸西方に伝わることになる。

さて、そんなアブー・ムスリムもお約束の通り、
二代目カリフのマンスールに危険視されて殺される。

アブー・ムスリムは「わ、わたしを生かしておけば必ずあなたの敵を滅ぼします!!」と
命乞いするが、マンスールは「おまえ以上に危険な敵がどこにいる」と言い捨てたという。


その通りですね。


マンスールは、今やユーラシア大陸の半分にまで広がった帝国を支配するのに
ふさわしい土地を探し回り、やがてイラクの中央分の「バグダード」という場所に
新しい都を建設する。

バグダードの中心部は円形の城壁に囲まれ、最盛期には100万人もの人々が住む。

ここに世界中の富と情報が集まり、カリフは密偵や郵便制度を使って、
都にいながらにして世界中のことを知っていたという。

ちなみにアッバース朝というのは非常に専制的で、カリフ絶対主義だった。

カリフの横にはいつも死刑執行人が控えており、カリフの命令一下、
誰の首をも即座に切り落としたという。

42: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:54:56 ID:UL4M0uuyv
タラス河畔!!
タラス河畔!!

44:  2014/07/20(日)01:08:18 ID:JNmKIlnNz
アッバース朝の最盛期は第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの時代。

彼は「アラビアンナイト」に何度も登場するので有名。

ドラ○もんの映画に登場したことさえあるので、多分日本で一番有名なアッバース朝カリフ。


しかし、史実のハールーン・アッラシードは大した名君とは言えない。

治世前半には宰相一族の操り人形に過ぎなかったし、その宰相のジャアファル
(アラビアンナイトの物語ではハールーンと一緒によくお忍びやってる)が
自分の妹に色目を使ったのにキレて突然宰相一族粛清したはいいものの、
ちょうどそのころから各地で反乱祭りとなり、ハールーン自身、イランの反乱鎮圧中に病死する。


ハールーンの子のマアムーンは大変学問好きで、バグダードに「知恵の館」という施設を作った。

これは図書館と研究所と大学と翻訳センターを兼ねていて、ギリシア・ローマやペルシア・インドなど、
イスラームがそれまで接触・征服したあらゆる地域の古典や学問研究の成果を結集し、
アラビア語に翻訳して後世に伝えるという役割を果たした。

今残っている古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの哲学書なんかも、
ほとんどはこの頃アラビア語に訳されたものだったりする。

ギリシア本土やヨーロッパでは文献が散逸してしまったのだ。


しかし政治的には(ry


モロッコのイドリース朝、チュニジアのアグラブ朝、イラン東部のターヒル朝。
帝国は広大すぎた。
辺境で次々に地方政権が台頭し、名目上はアッバース朝の主権を認めるものの、実際には好き放題に自治をするようになる。

たとえていえば、戦国初期の室町幕府に近い。


マアムーンの死後、ムタワッキルというカリフは王朝をたてなおそうと、
「マムルーク」を導入した。


これは中央アジアにいたトルコ系の遊牧民の青少年を奴隷として大量に購入し、
みっちりと軍事訓練を施し、カリフへの忠誠心を植え付けて直属軍にしようという試みだった。

しかし結果として、その後の政治はマムルークたちの思うがままとなり、
歴代カリフは完全にマムルークたちの神輿と化す。


その頃、イラク南部では「ザンジュ」と呼ばれた黒人奴隷の大反乱が起こったり、
「カルマト派」という過激派がメッカを襲撃してカアバ神殿の黒い隕石を強奪したりと実になんとも滅茶苦茶な政治情勢となっていった。
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