1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part1 【イスラム教の始まり〜正統カリフ時代】
1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part2 【ウマイヤ朝〜アッバース朝】


イベリア半島で栄える後ウマイヤ朝


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後ウマイヤ朝の首都スペイン・コルドバにあるメスキータ
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47:  2014/07/20(日)01:26:50 ID:JNmKIlnNz
ところで、そんなアッバース朝中央をよそに、はるか西方で栄える国があった。

750年のアッバース革命のときに、シリアにいたウマイヤ朝の王族は皆殺しにされる。

そのとき、たった一人の青年が身一つで脱出し、装身具を売り払って逃走資金にし、川を泳ぎ山を越えて危地を掻い潜り、アッバース朝の目の届かない遥か西方に逃れた。

彼の名はアブドゥル・ラフマーン。母親が北アフリカのベルベル族で、金髪に青い目をしていたという。

ベルベル族の土地にたどり着いた彼は、海の向こうに豊かな国があると聞いて、イベリア半島に乗り込んだ。


帝国中心からあまりにも遠く離れ、未開の異教徒が跳梁する
「ヨーロッパ」と隣り合うイベリア半島。


この土地でアブドゥル・ラフマーンはみるみる頭角を現し、
次々に都市を占領し、アッバース朝の支配の及ばない独自の王国を築き上げた。

時のカリフ、マンスールはこれを奪還しようとするが、
アブドゥル・ラフマーンはアッバース朝軍を撃破したばかりか、
その指揮官の首を塩漬けにしてマンスールに送り付けた。

マンスールは
「このように恐ろしい男と自分との間に大海をおいたアッラーに讃えあれ」
と叫ぶとともに、

「ただ一人三大陸を巡り、徒手空拳で王国を築く。
 彼こそはクライシュ族(ムハンマド一族)の鷹である」と称賛した、と言われている。


アブドゥル・ラフマーンの築いた国は「後ウマイヤ朝」と呼ばれ、
その後200年以上に渡ってイベリア半島を支配する。


ローマ帝国崩壊後に文明の衰微した北方ヨーロッパとは対照的に、
無数の図書館や学校、浴場や庭園に満ち溢れ、
キリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒が平和に共存する豊かな国だったという。


後ウマイヤ朝の後期になると、アッバース朝の衰退を見て、
王は「カリフ」を称する。


末期のカリフ、アル・ハカム2世は生涯に20万冊の書物を読んだとすら言われている。

しかしカリフがあまりにも読書に熱中しているうちに、権力は彼の手から滑り落ちていった。

宰相が実権を奪ったのはまあいい。彼はとても有能だった。

ところが、宰相の息子がいけなかった。まったくの無能で人望の欠片もない。

極め付けは、祖父がキリスト教徒のナバラ国王だったために金髪をしていたことだった。

「異教徒みたいな奴だ」とブーイングを浴びながら、カリフの位を狙って
無茶なクーデターを起こしたので、反対派が沸き起こり、混乱のなかで後ウマイヤ朝自体が崩壊。


以後のイベリア半島は、国土回復を目指すキリスト教諸国と分裂したイスラーム諸国がくんずほぐれつの泥仕合を繰り広げることになる。



 北アフリカのファーティマ朝


48:  2014/07/20(日)01:36:09 ID:JNmKIlnNz
北アフリカにも新興の勢力が出た。

ムハンマドの娘ファーティマ、そしてその婿であるアリーの末裔を称する
「ファーティマ朝」だ。

ファーティマ朝の起源は、「胡散臭い武装教団」そのものだったが、
10世紀初めに北アフリカ最大の都市チュニスを占領してから爆発的に勢力を拡大。

たちまちエジプトまでを占領し、アッバース朝に残された領土の半分を奪った。

ファーティマ朝はその名前からも察せる通り、シーア派の王朝だった。

それまで日陰の存在だったシーア派が、ついに大国を支配するようになったのだ。


同じ頃、東側でも強力な新興勢力が出た。

イラン北部、カスピ海のほとりに住むダイラム人が建てたブワイフ朝だ。

ダイラム人は早くから精強な歩兵として知られていて、傭兵として暮らしを立てる者が多かった。

そんな傭兵隊長たちのなかに、「ブワイフ」という男から生まれた三人の兄弟がいた。
彼らは協力して自分たちの国を作り、イランを支配した。

権力が確立すれば権威がほしくなる。

945年、三兄弟の一人、ムイッズは大軍を率いてバグダードに「上洛」し、
怯えるカリフから「大アミール」という称号をもぎ取った。

これ以後しばらく、アッバース朝カリフは内にあってはマムルークの神輿、
外にあってはブワイフ朝の傀儡となる。


 セルジューク朝の台頭


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セルジューク帝国の最大版図, 1092
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49:  2014/07/20(日)01:49:58 ID:JNmKIlnNz
さて、それより少し前に大陸の遥か東方で大変動が始まっていた。


アッバース革命の翌年、中国の「唐」とアッバース朝がタラス河畔で交戦したが、
これは唐がもっとも西に伸びた瞬間だった。


ところがそれから僅か4年後の755年、唐の本国で異変が起こる。

現在の北京周辺を任されていた将軍、安禄山が反乱を起こすのだ。

帝国副都の洛陽、そして首都長安はたちまち陥落し、皇帝玄宗は四川に逃れた。

唐はこの反乱を自力で鎮定することが不可能で、遊牧民のウイグル族に支援を求めた。

ウイグルの援助で辛うじて安禄山の乱は鎮定されたが、隙を狙ってチベットの吐蕃が挙兵。
長安を一瞬ながら占領し、シルクロードの喉元である河西に進出し、唐と中央アジアの連絡を絶った。

これ以後、唐の国力は大きく低下し、ウイグルと吐蕃が東ユーラシアの覇者となる。


ところが840年にモンゴル高原を大寒波が襲い、大量の家畜が凍死。

ウイグル帝国は見事に崩壊し、モンゴル高原の遊牧民は四方に散っていった。


こうして、この大陸の歴史上で何度目かの「民族大移動」がはじまる。

西に動いたウイグル族に背中を押されたテュルク族は、アラル海周辺、
現在のウズベキスタンを中心とする肥沃な農耕地帯に侵入し始めた。


これを受けて、このあたりの地方政権はテュルク族を傭兵として盛んに起用する。
そのうちに、主人の政権を乗っ取ってテュルク族自身が政権を運営するようになる。

こうしてウイグル帝国崩壊から約100年後、940年にアフガニスタンで「ガズナ朝」が生まれる。

ガズナ朝が最も栄えたのは第5代マフムードの時代だった。
彼は恐るべき征服者で、13回にわたってインドに遠征。

向かうところ敵なく、ヒンドゥー教の寺院を破壊掠奪してまわった。

グジャラートではマフムードの兵士たちが神像を叩き壊したところ、
中から何百年ものあいだ巡礼者たちが寄付した膨大な金銀財宝があふれ出し、
それを戦利品として持ち帰ったために7年間も税を取る必要が無くなったという。

しかしマフムードが世を去る頃、テュルク族の中でも最も強力な部族が姿を見せつつあった。


50:  2014/07/20(日)01:56:46 ID:JNmKIlnNz
1040年、「ダンダンカーンの戦い」という変な名前の戦いで、
ガズナ朝はこの新興勢力、「セルジューク族」に大敗した。


セルジュークはその頃登場したテュルクの一部族で、
その後みるみる勢力を拡大する。


そして1055年、セルジュークの族長トゥグリル・ベクは
イラン全土を制圧し、ブワイフ朝を蹴散らしてバグダードに「上洛」する。

いわば桶狭間で大国今川を破り、三好一族を蹴散らして上洛した織田信長のごとし。


トゥグリル・ベクはバグダードでアッバース朝カリフに謁見もとい恫喝して娘を嫁に迎え、
「東洋と西洋のスルタン」という厨二病気味な称号を獲得した。

ちなみに「スルタン」とはアラビア語で「支配者」のこと。

ところが、1063年にトゥグリル・ベクは「鼻血が一向に止まらない」という奇病で死亡する。

51: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)02:04:08 ID:UL4M0uuyv
ついにセルジュークまで来たか

52:  2014/07/20(日)02:04:33 ID:JNmKIlnNz
次に甥のアルプ・アルスランがセルジュークのスルタンとなる。

アルプ・アルスランはニザーム・アルムルクというペルシア人の文官を宰相にして、政治一切を任せた。

もとより当時のテュルク人は戦うことが全てで、おそらく文字の読み書きもできない。

これ以後、「テュルク人が戦い、ペルシア人が政治をする」という分業が定着する。


アルプ・アルスランは名将で、西のアナトリア(現在のトルコ)に遠征し、
東ローマ帝国軍を破って皇帝を捕虜にした。

これ以後、アナトリアに大量のテュルク人が移住し、イスラーム国家「トルコ」の淵源となる。


ところが、それからしばらく後。

中央アジアのサマルカンドを攻撃していたアルプ・アルスランは、
捕えた敵将に「ふんぞり返って威張りくさる女みたいな男めが」と挑発されたのに激昂し、
「そいつの縄を解け! 俺が手ずから射殺してやるわ!!」と命じるも、興奮のあまり矢を外す。

二の矢をつがえる暇もなく敵将が切りかかってきて、あえなく非業の死を遂げたという。


バカである。

54:  2014/07/20(日)02:14:27 ID:JNmKIlnNz
アルプ・アルスランが馬鹿げた死に方をした後、息子のマリク・シャーが即位する。

彼は狩猟が趣味で、政治には全く興味がなかったので、
宰相のニザーム・アルムルクが国政の全権を握ることになった。


ところで、ニザーム・アルムルクにはこんな伝説がある。

彼は若いころ、とある学院で勉学に励んでいた。

その頃、彼には二人の親友がおり、一人はオマル、一人はハサンと言った。

彼らは互いに「いちばん早く出世した者が残り二人を引き立てよう」と約束した。


やがてニザームが宰相となると、約束通り残る二人を招く。

オマルは詩人で学者だったので、天文台の長官となった。

そしてハサンは書記官になったが、彼は実は狂信的なシーア派信徒であり、
シーア派を弾圧するニザームにひそかに敵意を抱いていた。


ある時、王がニザームにある報告書の提出を命じた。

ニザームは「1年かかります」と答えたが、ハサンは「俺なら40日でできますしおすしwwww」と返答。

ハサンは本当に40日で報告書を完成させてしまったので、ニザームは動揺して、
ハサンが発表する直前に原稿をぐちゃぐちゃに入れ替えた。

王の前で発表を開始するもしどろもどろになるハサンに対して、ニザームは「無能wwwww」と嘲笑。

ハサンは憤激して王宮を飛び出し、ひそかに秘密結社を結成。

弟子たちにシーア派の教義と、教敵を暗殺すれば天国へ行けるという洗脳を施し、ニザームを襲撃させた……という。


上記の逸話、検証してみると登場人物たちの年齢差その他からありえないとされているものの、
ニザーム・アルムルクが暗殺されて死んだのは事実。

55:  2014/07/20(日)02:22:58 ID:JNmKIlnNz
さて、セルジューク朝は大帝国を築いたものの、王位継承のルールなどはいたって適当であったので、
マリク・シャーが死んだ頃から、たちまち分裂しまくることになった。


そのなかで一応もっとも有力だったのはマリク・シャーの五男のサンジャル。

彼はどうにか分裂したセルジューク諸国を曲がりなりにもまとめ上げるが、
そんななかで見たことも聞いたこともない敵が東からやって来た。



それより少し前のこと。

ユーラシア大陸の遥か東方では、唐帝国が崩壊したあとに五代十国の戦乱を経て、
北には「遼」、南には「宋」という二大国が成立していた。

そのうち遼のほうが、1125年に新興の「金」に滅ぼされる。


そのとき、まるで後ウマイヤ朝のアブドル・ラフマーンと同じように、
「耶律大石」という王族だけが辛うじて西へ逃走し、やがて態勢を立て直し、
金の力の及ばない西方、中央アジアで新しい国を建設する。

「西遼」または「カラ・キタイ」と呼ばれる、あまりに史料が少なく謎に満ちた国である。


1141年、この耶律大石率いる西遼軍が中央アジアのサマルカンド近郊に出現。

セルジューク朝のサンジャルは戦いを挑むも敗走。
セルジューク諸国の分裂はこれで確定する。

56:  2014/07/20(日)02:30:19 ID:JNmKIlnNz
このようにセルジューク軍の主力が中央アジアに集中している頃、
西側から別の侵略者たちがやってきていた。


発端はセルジューク朝の西方進出で、東ローマ帝国が危機に陥ったことだった。

東ローマ皇帝アレクシオスは、西方の未開な半蛮族連中を傭兵として使おうと思い立ち、ローマ教皇に「異教徒どもが聖地エルサレムを脅かしてる件」と連絡する。


これを見たローマ教皇は、その頃ヨーロッパ側でもいろいろとノリノリの時代だったこともあり
「ここは景気よく聖都奪還の大遠征なんてどうよ」と思い立つ。


かくてヨーロッパ各地の諸侯を集めて
「我らの大地から異教徒どもを一掃すべし」と宣言。
いわゆる「十字軍」の始まりである。


「十字軍」という狂信もとい宗教的情熱に燃えた集団の来襲は
アナトリアやシリア沿岸のセルジューク諸国の全く予期しないところであった。

不意打ちのような感じでシリア沿岸部はキリスト教勢力に占領され、エルサレムも陥落。

これ以後、エルサレム周辺を維持するキリスト教徒と、
彼らを追い出そうとするイスラーム勢力の泥仕合が開始される。

57:  2014/07/20(日)02:36:22 ID:JNmKIlnNz
「十字軍戦争」は150年以上続いた。

第一ラウンドはキリスト教側がひたすら押す。

第二ラウンドではイスラーム側が反撃開始。

クルド人の将軍サラディンがファーティマ朝を滅ぼしてエジプトを掌握し、
シリアに攻め上り、エルサレムを攻略する。


これに対してキリスト教側はドイツ・フランス・イングランドの三王連合軍という
豪勢な布陣で挑むも、まともに戦う気が合ったのはイングランド王リチャードのみ。

リチャードとサラディンの派手で華々しいとはいえ、戦略的にほとんど無意味な対決。

力押しはあかんと悟ったキリスト教側は第三ラウンドとして、搦め手からの攻略を試みる。

シリアの敵前に直接上陸するのではなく、敵の本拠地のエジプトに向かったのだ。
ところが主力のフランス軍がエジプトに上陸したところ、
たちまち敵軍に迎撃され、あっけなく国王が捕虜になる体たらく。

58:  2014/07/20(日)02:41:11 ID:JNmKIlnNz
13世紀になった。


この時点のイスラーム世界は分裂を極めていた。

インドに進出したイスラーム勢力は、北インドのデリー周辺を支配。

アフガニスタンからシリアにかけてはテュルク系の大小諸国。

イラクには最早誰の傀儡かもよく分からないながら、傀儡であることは確かなアッバース朝。

エジプトはアイユーブ朝。

北アフリカにはアラブ系のこれまた大小諸国。

イベリア半島は後ウマイヤ朝の崩壊後、キリスト教諸国とイスラーム諸国の慢性戦争真っ最中。

そんな中、新星が中央アジアに上り始めていた。

その国は「ホラズム・シャー国」。国王はアラー・アッディーン。

彼は周辺の西遼、カラ・ハン国、セルジューク、ゴール朝などを次々に破り、
イラン高原の半分以上を支配しようとしていた。

ところがその時、さらに東から魔王がやってきた。

魔王の名前を「チンギス・ハン」という。

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