1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part1 【イスラム教の始まり〜正統カリフ時代】
1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part2 【ウマイヤ朝〜アッバース朝】
1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part3 【各地で生まれる地方政権】

モンゴル帝国の侵略

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モンゴル帝国の最大領域
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60:  2014/07/20(日)02:54:03 ID:JNmKIlnNz
13世紀。

ウイグル崩壊以来、3世紀ものあいだ分裂し続けていたモンゴル高原は、
1206年に統一された。


統一者は「チンギス・ハン」を名乗る。世界を震え上がらせる魔王である。


魔王は西をさし示した。

そこにはホラズムがあった。

ホラズム軍は魔王の軍隊に接触した途端に溶け去った。

国王アッラー・アッディーンは国を捨てて逃走し、魔王の番犬、ジェベとスブタイがこれを追撃した。

二人の番犬は王を見失うも「行けるところまで行ってみようぞ」と結論し、
カスピ海の周りをぐるりと一周し、まったく無関係のグルジアだのロシアだのを荒らしまわって帰った。

魔王が死亡して安心するのもつかの間、魔王の子や孫もやっぱり魔王だった。

二代目魔王のオゴデイは北中国から東欧までを征服。

三代目魔王のトゥルイは何もしなかったが、四代目魔王のモンケは非常に危険だった。


「世界征服」


世界の歴史上、本気でこれを企図した希少な存在がモンケである。

彼は弟の魔将軍クビライを中国南部、魔将軍フレグをイラン・イラクへ送り出した。

フレグはイランを一瞬で踏み荒らし、バグダードに残っていたアッバース朝をあっさり滅ぼした。

ちなみにこの時、ムスリムの学者たちは「カリフを殺せば世界が滅びます」と脅したが、
キリスト教徒の学者たちは「んなわけないですしwww」と主張したので、後日優遇されたらしい。

魔将軍フレグはそのままシリアに進み、さらにエジプトを窺おうとした。

ところがその時、はるか東の彼方で魔王モンケが急死。

魔将軍フレグは魔風の速さで東へ帰国した。

70:  2014/07/20(日)15:14:13 ID:dkU8dQkVy
ダラダラダラと語ってきてしまったので、ここまでの大きな流れを整理してみたい。


まず、7世紀にササン朝ペルシアと東ローマ帝国が大戦争を続けているさなか、
突然アラビア半島で「イスラーム」という宗教が誕生し、「正統カリフ」たちの指導のもとで
アラブ族たちが「大征服」を開始する。ササン朝はあっさり崩壊し、東ローマも領土の半分を失う。


アラブ族たちは内乱を経て「ウマイヤ朝」を立てる。

ウマイヤ朝はさらに拡大し、東は中央アジア、西はイベリア(スペイン)にまで達する。

言い忘れていたけど、中世イスラーム世界の地理認識ではイラク・シリアあたりを中央として、
それより東のイラン・中央アジアを「マシュリク」(東方)、
北アフリカ・イベリアを「マグレブ」(西方)と呼んでいた。


ウマイヤ朝ができて100年ぐらいすると、中央アジアで反乱が起こって「アッバース朝」が誕生する。

このアッバース朝は、アラブ人中心のウマイヤ朝とは違ってペルシア人を重用した。

これ以後、イスラームを生み出したアラブ族は、とくにマシュリクではどちらかというと二線級の存在になる。


ところがアッバース朝は広大すぎる領土を統制しきれず、各地で地方政権が成立。

イベリア(アンダルス)の後ウマイヤ朝、北アフリカ(イフリーキヤ)のファーティマ朝は「カリフ」の称号すら名乗った。


東方では9世紀頃からテュルク系遊牧民が流入開始。

最初は傭兵として、のちには征服者としてイスラーム世界の東半分を制覇する。

12世紀頃までには、マシュリクは武人であるテュルク人と文官であるペルシア人が君臨する世界になった。

エジプトより西のマグレブでは依然アラブ系が主流。

ちなみにこの頃までに、イスラームという宗教はウマイヤ朝やアッバース朝の領土をさらに越えて拡大している。

「イスラーム」というのは聖職者がなく、一般的なイメージに反して異教徒を改宗させることにはあまり熱心ではない。

しかしアッバース朝のもたらした平和のもとでインド洋全域に乗り出した交易商人たちや、砂漠や草原を行く隊商たちは
訪れた各地の人々に「イスラーム」という宗教の存在を印象づけた。

とくに西アジアに比べてあまり文明の進んでいない地域(ほとんどどこでもそうだけど)では、「イスラーム」は文明の象徴として受容される傾向にあった。


13世紀、モンゴル帝国が成立するころまでに、「イスラーム」はサハラ砂漠の南のニジェール流域、
東アフリカの沿岸部、北インドと南インドの沿岸地域、内陸ユーラシアの大草原、南シベリア、
そして中国南部の沿岸地域にまで伝播していた。

71:  2014/07/20(日)15:27:27 ID:dkU8dQkVy
飛ばしていたところについて追加で説明すると、まずインドの状況。

テュルク系傭兵が建てたガズナ朝のマフムードは13回もインドに遠征したけれど、
これはあくまで一過性の掠奪遠征に過ぎなかった。

しかしインドの豊かさを知った中央アジアのテュルク人たちは、これ以後本格的なインド進出を目指す。


ガズナ朝に取って代わったゴール朝はデリーまで進出。

ゴール朝が衰えると、配下のマムルーク、つまり軍事奴隷が独立して「奴隷王朝」を築く。

この奴隷王朝に始まる5つの王朝を「デリー・スルタン朝」と呼び、デリーを中心に北インドを征服していった。



もう一つはアフリカ。


サハラ砂漠の南の熱帯地方には、早くからガーナ王国という大国があった。

この地方は砂金や岩塩が豊富で、イスラームが北アフリカを征服すると、多くの商人が来るようになった。

ガーナ王国や、その後に成立したマリ王国の支配者たちは徐々にイスラームを受け入れ、
学者を保護し、学院を立てて本格的なイスラーム国家に変化していく。


時は流れて11世紀。

後ウマイヤ朝とファーティマ朝が衰退してマグレブ(西方)が混沌としはじめる頃。

サハラ砂漠西部のセネガルで「イスラーム神秘主義」という宗教運動が広まり、
武装教団のようなものが結成される。

(ファーティマ朝以来、マグレブではしょっちゅうこの手の武装教団が登場する)


彼らは「アル・ムラーヴィト」と自称し、サハラ砂漠の南北を蹂躙し、
北アフリカの沿岸部を制圧し、さらにイベリア半島に乗り込んでキリスト教徒と激闘を繰り広げた。


それからほどなく、今度は「アル・ムワッヒド」という武装教団が出現。

これも全く同じようにサハラ砂漠の南北を蹂躙し、北アフリカの沿岸部を制圧し、
イベリア半島に乗り込んでキリスト教徒と激闘を繰り広げた。


でもこのあたりの歴史については、東方との関わりも少ないのでこのくらいでいいかと思う。


エジプトのマムルーク朝


72:  2014/07/20(日)15:47:11 ID:dkU8dQkVy
さて、モンゴル帝国のフレグが西アジア征服を開始したとき、エジプトに一人の英雄が現れる。


彼の名はバイバルス。出身は南ロシア。

モンゴル軍がロシア・東ヨーロッパに遠征したときに少年だったバイバルスは捕虜となって、奴隷商人に売り飛ばされた。

もともと片目だったのでなかなか買い手がつかなかったが、やがてエジプトを支配するアイユーブ朝(十字軍と戦ったサラディンが建てた国)のスルタン親衛隊に取り立てられる。

奴隷軍人、この頃イスラーム世界各地で盛んに使われていた「マムルーク」だ。


バイバルスはおそろしく体力があって、鎧を着たまま筏を引っ張ってナイル川を泳ぎ渡ったり、1日で600キロを駆け抜けたあとに平気でポロの試合に出場したりしたらしい。


そんななか、エジプトにフランスの「十字軍」が来襲する。

そのとき折あしく、スルタンは重病で瀕死の状態だった。

やむなく「シャジャル・ドッル」という王妃が国政をとり、マムルークたちが奮闘してフランス軍を破り、国王を捕虜にした。

ちなみにこの「シャジャル・ドッル」ももともとは奴隷出身だった。


シリアに出陣していた王子が急ぎ帰国して王位につくが、彼は奮闘したシャジャル・ドッルやマムルークたちを蔑ろにした。

不満を持ったマムルークたちは王子を襲って殺害する。

ちなみにこのとき何を思ったか、マムルークたちは閉じ込めていたフランス王を引き出して、彼の目の前でアイユーブ朝の王子を切り捨てたらしい。

フランス王迷惑www

そんなわけでアイユーブ朝は滅亡し、奴隷軍人マムルークたち自身の王国、「マムルーク朝」が成立する。

初代国王はなんとシャジャル・ドッル。
イスラーム史上稀有の女王になった。

74:  2014/07/20(日)15:57:11 ID:dkU8dQkVy
ところがエジプトでは政変が続く。

シャジャル・ドッルは女王であることに不安を感じたのか、有力なマムルークの武将と結婚し、彼に王位を渡す。

粛清が始まり、ライバルになりそうなマムルークたちは軒並み殺されるか追放された。バイバルスもその一人だった。



1258年。
東方から来た魔将フレグはバグダードを占領し、アッバース朝最後の飾り物のカリフを処刑した。

一説では、カリフが財宝を惜しんで守備兵を雇わなかったことを嘲笑して、宝石庫に閉じ込めて餓死させたとか。

陰険である。


圧倒的に強力な魔軍モンゴルの出現を前に、「十字軍戦争」どころではなくなった。

シリア沿岸で延々叩き合いをやっていたキリスト教徒とムスリムは、揃ってモンゴル軍に降伏。

昨日までの宿敵同士が仲良くエジプトへ進軍を開始することになった。


エジプトが落ちれば北アフリカも落ち、地中海も落ち、世界はモンゴルに征服される。

この危機を前に、祖国を追われたバイバルスは手勢を率いて帰還する。

75:  2014/07/20(日)16:07:40 ID:dkU8dQkVy
ところで当時エジプトを支配していたマムルークというのは、基本的にテュルク系の遊牧民。

要はモンゴル軍と同じく、中央ユーラシアの草原出身で、草原の騎馬戦術を知悉している。

おまけにモンゴル兵は「ふつーの遊牧民」が副業で軍人をやっているだけなのに対して、マムルークたちは、いずれ現れるであろうモンゴル軍に備えて、職業軍人として軍事訓練を繰り返していた。


それでも、魔軍モンゴルはこの時点でほぼ常勝不敗だった。たぶんマムルークたちは絶望的な心境だっただろう。


ところが、ここで変事が起きる。

遠く中国に出陣していた魔王モンケが急死、魔将フレグは次期魔王決定戦に備えて急ぎイランへ撤退する。

あとにはたった1万2千のモンゴル軍が残された。

が、「それでも俺らは無敵だし」と大胆にもモンゴル軍は更に南下を続けた。

そして両軍は、南パレスチナの「アイン・ジャールート」で激突する。

このとき先鋒の将軍だったバイバルスは、モンゴル軍が得意とする囮戦術を使って、逆にモンゴル軍を罠に引きずり込んで包囲殲滅した。


無敵モンゴル軍は建国以来半世紀を経て、はじめて、白日の下で、完膚なきまでに惨敗した。

魔法は解けた。モンゴルは魔軍ではなく、単なる人間だったことが証明された。


英雄になったバイバルスは帰りの最中にサクッと邪魔な上司を暗殺して、自分が王位につく。

それ以後バイバルスはものすごい活躍を開始する。


内政を整備しまくり、外交を駆使しまくり、外征しまくって、
ついに「十字軍」を事実上すべて叩き出すことに成功。

その後も繰り返されたモンゴル軍の侵攻もすべて撃退した。

バイバルスはあまりに頻繁に遠征したので、「生涯で地球を七周半した」とも言われている。


これ以後、中央アジアからイランまではモンゴル帝国の勢力圏、
シリア・エジプトはマムルーク朝の勢力圏として、両大国が拮抗する情勢となる。
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