part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝

ティムールの中央アジアでの台頭



77: 2014/07/20(日)16:27:22 ID:dkU8dQkVy
14世紀になるとモンゴル帝国は分裂を重ね、イラン高原なんぞ群小豪族と宗教団体が入り乱れる戦国乱世となった。

そんななか、中央アジアで突然、歴史の流れを力づくで逆行させる一大英雄が出現した。



彼の名はティムール。

モンゴル系の小貴族の子で、子供のころは羊泥棒なんぞをやっていたらしい。

捕まって足を散々殴られたせいで生涯片足が使えなくなったともいう。


だがしかし、青年になったティムールは中央アジアに東西から様々な野心家たちが攻め込む中で、
次第に頭角を現し、1360年には中央アジア最大の都市、サマルカンドに入城した。

ティムールは全人類の歴史上で、戦場での指揮能力だけで見れば最強の軍人だったと思われる。

彼はこれから東西南北に息つく間もなく遠征し、たった一人でモンゴル帝国の西半分、ユーラシアの三分の一を再統一してしまう。

峻険な山岳地帯も、灼熱の砂漠も、氷雪の荒野も、荒波の蒼海も彼を阻むことはできなかった。

ティムールは、北はシベリア、南はインド、西は地中海までを征服し、抵抗するすべての都市を破壊し、
抵抗したすべての人間を殺し、至る所で頭蓋骨のピラミッドを建設し、そしてあらゆる職人をサマルカンドに連れ帰った。


世界中の美しいものを破壊し、美しいものを作る人間をサマルカンドに集めて、サマルカンドにその美を再現させた。

そういうわけで、現在のウズベキスタンに位置する古都サマルカンドは「中央アジアの真珠」と言われる美都となった。


ちなみにティムールにはいろいろな逸話がある。


たとえば、彼はチェスの達人だった。戦いの前夜には深夜までひとりチェス盤に向き合って、駒を動かしながら作戦を練ったという。

息子が生まれたときにチェスの勝負をしていて、王と城の駒を取ったところだったので、
「シャー・ルフ」(王・城)なんていうDQNネームをつけている。

文字は読めなかったけど何か国語をも理解し、歴史物語を語らせるのが好きだった。

シリアのダマスカスを包囲したとき、ちょうど城内にいた北アフリカの大歴史家イブン・ハルドゥーンを呼び出し、
延々北アフリカの地理について説明させたあと、古代バビロニアのネブカドネザル王が
どの民族だったかという無意味にアカデミックな議論を吹っかけたらしい。


敵に対しては血も涙もない人物だったけれど、部下はとても大切にしたらしい。

毎回サマルカンドを出陣するときに、城門の脇に兵士一人ひとりに石を投げさせた。

兵士たちが次々に出陣するにつれて、城門の脇には石の山ができた。

軍が凱旋すると、今度は兵士たちに石をひとつひとつ拾わせる。

それでも、戦いで死んでいった者たちの数だけの小さな石の山が最後に残る。
ティムールはそれを見て慟哭したと伝えられている。


そんなティムールはえらく年寄になるまで飽きもせず征服戦争を続け、70歳も過ぎてから「次は中国遠征」と号令。

何十万もの馬や羊や山羊を駆り集め、何年もの遠征の準備を整えて真冬に出陣したは良いものの、

寒さのあまり酒を飲みすぎて心臓発作を起こし、行軍中に急死。


ティムールの死とともに一代で築かれた大帝国は崩壊し、歴史の流れはもとに戻る。

元通り、モンゴル帝国の崩壊と分裂というプロセスが再開する。


アナトリアで生まれる新たな勢力

※アナトリア:トルコのアジア側の地域。小アジアともいわれる。

Sipahi3
初期オスマン帝国の騎兵
photo credit 


78: 2014/07/20(日)16:42:30 ID:dkU8dQkVy
さてこの頃、イスラーム世界の最辺境で新しい勢力が生まれようとしていた。


11世紀後半、セルジューク朝のアルプ・アルスランが東ローマ帝国を破って以来、
アナトリアにテュルク族が続々と移住し始めた話をしたと思う。

当然ながら彼らはムスリムで、セルジューク朝の分裂とともにアナトリア各地にいくつもの小国が成立した。


そんな状況のところ、13世紀の中ごろに遥か東方から「エルトゥルル」という老族長が、
一握りの家畜と一族を連れて流れ着き、「ルーム・セルジューク朝」という地方政権に保護を求めた。

どうやらモンゴル軍の中央アジア侵攻から、命からがら逃げ落ちて来たらしい。


ルーム・セルジューク朝はエルトゥルルに領土の最西端、異教キリスト教の東ローマ帝国と接する地域に小さな領地を与えた。
エルトゥルルは生涯を族長というより羊飼いの長老レベルの人物として過ごした。


エルトゥルルの息子のオスマンはもう少し勢力を拡大した。

時は乱世になりつつあった。

辺境の地では宗教の違いはあまり問題にならない。

その土地ではキリスト教徒もムスリムも混じり合い、気兼ねなく近所づきあいをし、助け合って暮らしていた。

オスマンは冬は平地の町で暮らし、夏に高原に放牧しに行くときは麓のキリスト教の修道院に荷物と女子供を預けたという。


オスマンは夢があった。
彼が知っている世界の中でいちばん大きくて一番輝かしい町、「ブルサ」という丘の上の田舎町を、いつか自分のものにしたい。

オスマンは生涯をかけてこの夢を追い、何年もかけてブルサを包囲し、ブルサ陥落直前に世を去った。

彼が死んだとき、蔵には粗末な衣服と皿と匙、数枚の金貨程度しか残っていなかったという。


このオスマンから、やがて三つの大陸に600年間君臨する「オスマン帝国」が始まる。

80: 2014/07/20(日)16:57:27 ID:dkU8dQkVy
その頃、ルーム・セルジューク朝はもとより、千年続いた東ローマ帝国も滅亡を迎えようとしていた。

東ローマ帝国末期の相次ぐ帝位継承争いのなかで、アナトリアのテュルク系ムスリムたちはしばしば傭兵として使われた。

オスマン一族もその動きに乗って領土を拡大する。


東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡に面する。

海峡の西はヨーロッパ、東はアジア、しかし海峡の幅は泳いで渡れるほどに狭い。

その狭い海峡を隔ててコンスタンティノープルを指呼の間に臨むスクタリがオスマン家の手に落ちた。


ついで帝位継承戦争の援軍として海峡を渡り、ヨーロッパ大陸に進出。勢いに乗って要衝アドリアノープルを占領。

ブルガリアを破り、セルビアを破り、キリスト教徒の騎士たちをも自軍に組み込み、いつしかオスマン家はちょっとした地域政権になっていた。

1389年、コソヴォの戦いでバルカン半島のキリスト教諸侯連合軍を撃破。

ところがその陣中で、時のスルタン、ムラト1世が刺殺される。

その場に居合わせた王子バヤズィトは直ちに即位し、その後破竹の快進撃を開始した。


バヤズィトは疾風迅雷、神速の用兵を得意とし「雷光王」とあだ名される。

彼の指揮のもとで、オスマン家はバルカン半島の大半、アナトリアの大半を制覇した。

ところが、ここで「第二の魔王」ティムールが登場する。


アナトリア中部のアンカラでオスマン軍とティムール軍が激突。

さしもの雷光王も「第二の魔王」の敵ではなく、大敗を喫する。

バヤズィト自身も捕虜となり、オスマン国家は一時滅亡してしまった。



しかしティムールは遠隔のアナトリアにはあまり興味もなかったうえ、
いずれにせよ間もなく酒の飲みすぎで死亡する。


オスマン家の王子たちは体制を建て直し、国家を再建する。

そして1453年、オスマンの第7代スルタン、わずか21歳のメフメト2世は16万もの大軍を動員し、
一千年間にわたって陥落することがなかった東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領した。

「ローマ帝国」はついに滅亡し、コンスタンティノープルに入城したメフメトは町を「イスタンブル」と改名。

ローマ皇帝の継承者と称した。


オスマン国家は「オスマン帝国」となったのだ。

81: 2014/07/20(日)17:01:48 ID:dkU8dQkVy
ちなみにコンスタンテティノープルの城壁はとてつもなく頑丈で、大砲を連射しても破れなかった。
最後に都が陥落した原因は、

鍵のかけ忘れ

98: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)20:15:42 ID:5zbyFEnlI
>>81
金閣湾を封鎖されたので、船を丘超えさせたとか

108:  2014/07/21(月)19:09:59 ID:sHNWsPuFe
>>98 
あー、それ書くべきだったね。

コンスタンティノープルの内港である金角湾に面する城壁は低いからと艦隊を無理やり丘越えさせたんだけど 残念ながら決定打にはならなかった。 

現地歩いたことあるけど、丘というより小山に近い高さ&傾斜。 

83: 2014/07/20(日)17:23:48 ID:dkU8dQkVy
メフメト2世は「征服王」と言われるが、実際そこまで戦争がうまかったわけではない。

東ヨーロッパでの勢力拡大には苦労し、モルダビアやワラキア、アルバニアといった小国に最後まで抵抗された。

ちなみに現在のルーマニア南部にあたるワラキア公国を支配していたブラド3世は
オスマン軍の捕虜たちを串刺しにして侵入するオスマン軍を動揺させ、夜襲をかけてメフメト2世の天幕に肉薄した。


のちの「ドラキュラ公」のモデルである。


以上余談。




真に「征服王」というのにふさわしいのは、メフメトの孫のセリム1世だろう。

彼は東のペルシアを破り、シリア・エジプトを征服し、三大陸に広がるオスマン帝国を確立したのだ。

ところでその前に、ティムール帝国崩壊後のペルシア(イラン高原)の情勢を見ておきたい。


イラン高原ではティムール帝国崩壊後、群雄角逐の中で「白羊朝」と「黒羊朝」という二大勢力が台頭していた。

どちらもアゼルバイジャンあたりの遊牧部族で、もちろんイスラームを信じてはいたものの、
昔ながらのシャーマニズムの影響も残っていたのか、白い羊や黒い羊を自部族の象徴としていたらしい。

白羊朝のもとで盛んに蠢動する不穏な教団組織があった。

サフィー・アッディーン・ユースフという修行者が創始したこの教団をサファヴィー教団という。


たびたび白羊朝に弾圧を受けながらも勢力を蓄え、ときに白羊朝と協調して王女を教主の妻に迎えることもあった。

白羊朝が衰えた1499年、わずか12歳だった教主イスマーイールは各地の教徒に檄文を発した。

「今こそ我らの時がきた。決起せよ! 地上の楽園を実現せん!」


天才少年である。

84: 2014/07/20(日)17:24:07 ID:dkU8dQkVy
イスマーイールは天性の詩人であり、世界史上有数の名将であり、おまけに絶世の美少年だった。

でありながら、十代前半。


10代前半でありながら6000人もの教徒を結集したイスマーイールは、美貌と詩才で荒くれ男たちの心を虜にする。

「教主のためなら命をも惜しまじ!」と絶叫する荒くれ男たちの支持を受け、美少年は14歳にしてタブリーズを占領。

この町で「我らはシーア派の国家を建設する」と宣言し、10代のうちにイラン全土を征服した。

パねぇ天才少年である。


1510年、23歳のイスマーイールは中央アジアのメルヴで、南ロシアから大国を築きつつあった
モンゴル系遊牧民のシャイバーニー朝を破り、敵王シャイバーニー・ハーンの髑髏に金箔を貼って酒杯とした。

イスマーイールは幼いころから自分を神の化身と「本気で」信じていたらしく、いろいろと歪んでいるのである。



この天才美青年と、拡大を続けるオスマン帝国のセリム1世が、1514年にアナトリア東部で激突する。

この時、オスマン軍は大量の鉄砲と大砲を動員し、柵を巡らしてサファヴィー軍を待ち受けた。
イスマーイールはオスマン軍に向けて全軍突撃を指令する。

そのとき、地獄の蓋が開いた。

地響き立てて疾走するペルシア騎兵に向けて、オスマン軍の圧倒的な火力が放射され、戦場は虐殺の巷と化した。

サファヴィー軍は建国以来初めて敗北した。それもどうしようもなく決定的な敗北だった。


かくて青年イスマーイールは初めて理解した。

どうやら自分は神の化身ではなく、ただの人間であったらしいと。



天才青年は人生で最初のの挫折を味わい、それを乗り越えることができずに酒に溺れ、37歳で世を去る。

オスマン軍はタブリーズを占拠したものの、それ以上東へ進軍することはできず、転身してシリア、エジプトに進軍。

かつてモンゴル軍を破ったマムルーク朝の騎馬軍団も新時代の火薬兵器の敵ではなかった。

こうしてセリム1世は、ヨーロッパからアジア・アフリカにまたがる大帝国を建設する。

インドで繁栄したムガル帝国

1024px-Taj_Mahal,_Agra,_India_edit3
インド、アーグラにあるタージ・マハル
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが王妃のために立てた霊廟
photo credit 


85: 2014/07/20(日)18:38:04 ID:dkU8dQkVy
その頃のこと、中央アジアで解体していくティムール帝国の王族の一人にバーブルという人物がいた。

彼は珍しく「バーブル・ナーマ」という自伝を書き残している。

あるとき風が吹いて一部の原稿が飛んでいってしまったらしいが、それでもとても有益な史料になっている。


さて、バーブルは若いころから中央アジア最大の都市サマルカンドを手に入れようと、同族間の争いを繰り返した。

三度手に入れて三度失い、悟った。

「ムリなもんはムリ」


そのとき、ふと思いついたのが、先祖のティムールが遠征したというインド、山の彼方の豊かな国のことだった。


その頃インドはデリーに首都を置くロディー朝の末期だった。

バーブルは1万程度の軍隊を率いてインドに侵入し、パーニーパットという場所でロディー朝の大軍と遭遇した。

敵軍は小山のような象を大量に動員していた。

バーブルは時代の流行に従って、鉄砲でこれに対抗。象たちは混乱して自軍に突っ込んで自滅。


バーブルは快勝してデリーに乗り込み、北インドの支配者となった。

彼らはティムールの子孫であり、さかのぼればチンギス・ハンの子孫になる。

インドの人々はバーブル一派をモンゴル、訛って「ムガル」と呼んだ。ムガル帝国である。



バーブルは自伝で、インドへの不満を延々と書き記している。

酷熱の気候、長雨と疫病、不潔さ、食べ物、すべてが気に入らなかった。

彼はいつも高燥な中央アジア、サマルカンドのメロンを夢見ていた。


ある時、バーブルの最愛の息子フマーユーンが熱病にかかった。

やはり忌々しいのはインドの気候である。

バーブルは「私の生命を捧げるので息子を救ってください」とアッラーに祈った。

祈りは聞き入れられ、フマーユーンは回復し、建国者バーブルは病死した。


まあ看病中に感染しただけだとも思うが。



フマーユーンはさほど有能ではなかったようで、シェール・シャーという人物に一時王権を奪われて中央アジアに逃げ帰っている。


そこで
ペルシアから来たサファヴィー朝に支援を求め、シーア派への改宗を条件に援軍を得た。

折しもインドではシェール・シャーが大砲の暴発で死亡。

野菜売りから成り上がったヘームーという武将がデリーを押さえるが、こちらはフマーユーンに追い払われた。


デリーを回復したフマーユーンであるが、翌年、書庫の階段で足を滑らせて転落死。息子アクバルが第三代皇帝として即位する。



アクバルはインドに暮らす様々な民族や彼らの宗教を尊重し、融和の姿勢を前面に出した。

異教徒からの徴税を停止し、ヒンドゥー諸王の娘たちを妻とする。

インドではムガル帝国のもとで、イスラームとヒンドゥーの融合した独自の文化が繁栄した。

86: 2014/07/20(日)18:48:28 ID:dkU8dQkVy
アクバルの次に皇帝になったのはジャハーンギール。

ペルシア語で「世界を掌握する者」という意味の名前だが、実際には彼はそんなに覇気のある人物ではなかった。


即位前の彼は反抗的で、二回謀反を起こして二回許されるも、二回目には父アクバルに平手打ちをされたという。

謀反を起こしながら平手打ちで済むとは寛大な話である。

即位後には、ある商人の未亡人(29)に一目惚れし、4年間も求愛を続けてめでたく彼女(33)を手にした。


ジャハーンギールは彼女に「ヌール・ジャハーン」(世界の光)という名前を与え、
彼女が非常に有能だったので、彼女とその一族に国政をすべて任せて毎日昼寝して暮らしたという。


ある時、冬に狼が遠吠えするのを聞いて、「山の狼が寒がっているから誰か服を持っていってやれ」と命じた逸話が残る。



ジャハーンギールの次はシャー・ジャハーン。

「世界の王」を意味する名前だが、彼も似たり寄ったりのヒモ男であった。

最初は娘を政治顧問にし、次には王妃のムムターズ・マハルに政治を任せ、やはり昼寝をして日々を送る。

ムムターズ・マハルが死んだとき、嘆きに嘆いて彼が作らせたのが、かの霊廟「タージ・マハル」である。

87: 2014/07/20(日)19:02:25 ID:dkU8dQkVy
アクバル以降、二人のジャハーンはどちらも成り行き任せの性分でもあり、

アクバルの融和政策を弄ることはなかった。


ところが第5代として即位したアウラングゼーブは父や祖父よりはるかに有能で覇気のある君主だった。

彼は父、シャー・ジャハーンが重病になったとき、いち早く兵をあげ、各地の兄弟たちを尽く打ち破って殺す。


そのとき、父シャー・ジャハーンが奇跡的に重病から回復したという知らせが入った。

今更回復されても困るので、アウラングゼーブは打ち破った兄の生首を父の食卓に送り付ける。

当時デリーに居合わせたイタリア人の記録によれば、シャー・ジャハーンはこれを目にして絶叫し、
頭をテーブルに打ち付けて失神したという。


アウラングゼーブは失神した父を強制退位させて帝位につき、
父が死ぬまで「兄ばかり大事にして俺のことは見向きもせんで許せんわ」とネチネチと手紙を書き送ったという。


このようにしつこく執念深い性格のアウラングゼーブは、同時に狂信的なムスリムで、
インド全土を制覇し、イスラームを徹底することを目指していた。


帝国に従属していたヒンドゥー諸侯たちからの徴税を再開し、異教徒を圧迫し、
反抗する者は圧倒的な力で押しつぶした。


全土制圧のために南インドに大軍を送り、埒が明かないと見るや自ら都を捨てて前線に移る。
ちなみに、インドの人口構成上、その軍隊のほとんどがヒンドゥー教徒だったという事実は深く追求すべきではないだろう。


1681年以降、アウラングゼーブは死に至るまで26年間も陣頭指揮を執り続け、二度と都に帰らなかった。

その甲斐あって一瞬ムガル帝国はインド亜大陸全土を統一したものの、たちまち各地で反乱が発生。

険しいデカン高原で無数のゲリラをもぐら叩きのように叩いてまわるなかでアウラングゼーブの後半生は過ぎていった。


1707年、アウラングゼーブは88歳という高齢で妄執の生涯を終える。
死の直前、彼は「余は愚かであった」と心底の後悔を書き残しているが、すでに遅かった。


アウラングゼーブが都を遠く離れた辺境の陣営で死去したとき、ムガル帝国はすでに崩壊していた。

88: 2014/07/20(日)19:41:37 ID:dkU8dQkVy
ちょっとまとめると、

ウマイヤ朝の大統一(7~8世紀)
アッバース朝の大統一(8~9世紀)
混乱状態(9~10世紀)
テュルク族の西進(10~12世紀)
モンゴル帝国vsマムルーク朝(13世紀)
ティムール帝国(14世紀)

と来て、15世紀の後半からは

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国

という三大国がイスラーム世界に並立することになる。


書き方としてムガル帝国だけ先に片付けたので、次はオスマンとペルシアの続きか。

もはや見てる人いなさそうだわ。

91: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)19:44:01 ID:Fz8H9R5HA
浪人の俺にかなり役立つ~~www

92: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)19:44:45 ID:XkCJeaMZD
イスラムはごちゃごちゃして苦手(´・ω・`)

次: 1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part6 【ヨーロッパの反撃】