part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5 オスマン帝国のはじまり


ヨーロッパの反撃


ImperioOtomano1683
オスマン帝国の最大領土(1683年)
photo credit 


95: 2014/07/20(日)20:00:59 ID:dkU8dQkVy
最初に細かく書きすぎると、途中で濃度を薄められないのが問題で、
実は近代はそこまで詳しくないという


さて、オスマン帝国の続き。


セリム1世の後を継いだのはスレイマン1世。後の世では大帝と讃えられる。
といって、彼が何をしたかというのはちょっと難しい。

法典を整備して、十数回遠征したけど、ハンガリー征服以外はセリム以上に目立って領土を広げたわけではない。

地図上では彼の時代にオスマン帝国領は北アフリカをアルジェリアまで大拡大しているんだけど、
これは、このあたりの豪族や海賊が自分から帰順してきただけであり。


スレイマン大帝の事業でいちばん有名なのは第一次ウィーン遠征。

オスマン帝国はハンガリー征服後、中央ヨーロッパの大国ハプスブルク帝国と接触した。

その首都であり、西ヨーロッパの入り口というべき要衝、オーストリアのウィーンは
オスマン帝国の人々にとって「赤い林檎の国」といわれる憧れの場所だった。


なんで赤い林檎なのかは知らん。


スレイマンはウィーンを包囲するも、イスタンブルからここまで来るのに時間がかかりすぎ、
冬が迫ったので雪が降る前に撤退。

オスマン帝国の拡大の限界となった。


それとは別にスレイマンは艦隊をフランスのマルセイユや東南アジアのスマトラまで派遣したり、
中央アジアのブハラに援軍を送ったり、ドイツの宗教改革運動に介入したりしている。


スレイマンが何をしたのかというのは難しいけど、彼の時代のオスマンがまさに全盛期で、その影響力がユーラシア大陸の多くの地域まで及んだのは間違いない。

96: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)20:10:27 ID:5zbyFEnlI
カーヌーニー

101: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)23:25:13 ID:5zbyFEnlI
スレイマンの功績は中央集権化をほぼ完成させたことだね
スレイマン以降スルタンは形骸化し、宮廷出身の軍人政治家が政治の実権を握りそれを官僚機構が支えた

108: 2014/07/21(月)19:09:59 ID:sHNWsPuFe
>>101
補足どうも。

>>96の「カーヌーニー」、つまり立法者を意味する異称の通り、
スレイマンの時代に中央政府の機構はほぼ整った。 

当時のオスマン帝国の政府と軍隊はおそろしく統制さえていて、

ヨーロッパ人の記録だと 「衛兵があまりに身動きしないので置物かと思った」とか書いてある。 


政治面でも大臣たちの御前会議で物事がサクサク進むようになって、

スルタンは中二階の格子越しに 姿を見せずに会議を見下ろしているだけでよかった。 

そのうち「見下ろしてなくてもバレないじゃん?」とスルタンが気づいてしまったのが、 
オスマン皇帝無能化の第一歩だった。

102: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)01:14:54 ID:KME5prTcb
オスマントルコで面白いのは、政治の実権を握っていたのがイスラム教徒のトルコ人ではなく、
被征服地のキリスト教徒の子弟たちだったこと

彼らは、徴用された被征服地のキリスト教徒の農民の子だったり捕虜となった旧支配者の子で、
「スルタンの奴隷」と呼ばれた

イスラムに改修させられたのち徹底したエリート教育を授けられて、
スルタン直属の常備軍(イェ二チェリ)を担ったりスルタンの側近として宮廷に入った

大宰相、宰相たちはみなこの「スルタンの奴隷」出身

故郷が征服されたと思ったら、帝国内部で立身出世の道が拓けるんだから人生はわからんもんだね

でも徴用される条件が、身体壮健、頭脳明晰、眉目秀麗だってさ

108: 2014/07/21(月)19:09:59 ID:sHNWsPuFe
>>102
それがこの国の面白いところで、だから中央政権の構成者たちは自分たちを「トルコ人」ではなく 
独自の「オスマン人」という民族だと認識していたらしい。 

スレイマン大帝晩年の大宰相ソコルル・メフメト・パシャもこのデウシルメ制度で徴用されたんだけど、

彼の実弟は徴用対象にならず、故郷で出征してやがて地元の大主教にまでなっている。

110: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)19:19:05 ID:9OyErfyVr
イスラムの世界や歴史に明るい人からすると、
「アラビアの夜の種族」って小説はやっぱり嘘くせぇいい加減だなって
感じなのかなあ。著書は確か古川日出男?って名前だったかな?

111: 2014/07/21(月)19:27:27 ID:sHNWsPuFe
>>110
ファンタジーとしてはとても面白いし、渋いネタ使ってると思う。

113: 2014/07/21(月)19:37:45 ID:sHNWsPuFe
この時代からは、ユーラシア大陸最西端に成長した「ヨーロッパ」という文明が、
イスラーム世界の前に強大なライバルとして登場することになる。


ローマ帝国崩壊後、古代地中海世界の統一はやぶれ、地中海の北側と南・東側は異なる歴史を歩むことになった。

地中海の南と東は7世紀以降、イスラーム世界に組み込まれ、繁栄した。


北側の文明は衰微した。

激しい民族移動、広大な未開の森林、貧弱な土壌。

地中海の北側はユーラシア大陸のなかでも最も後進的な地域の一つとして、なかば孤立する。

しかし千年の時が過ぎるうちに、徐々に農業生産力が向上し、商業が興隆し、
キリスト教を共通の価値観とする「ヨーロッパ」という文明が芽生える。


イスラーム世界は、なぜか地中海の北側にはほとんど関心を持たずに来たらしい。

あまりに貧しく未開であるとともに、この地域が強く排他的な文化を築いていたからかもしれない。


しかし、そんなヨーロッパとイスラーム世界が直接接触する地域もいくつかあった。

ひとつは東ローマ(ビザンツ帝国)、ひとつは「十字軍」によって占拠されたシリア沿岸、そしてひとつは地中海中央のシチリア島、そしてひとつはイベリア半島。

115: 2014/07/21(月)19:48:38 ID:sHNWsPuFe
711年、イベリア半島にウマイヤ朝の遠征軍が上陸し、アッバース革命後には後ウマイヤ朝がこの地で成立する。
イスラーム世界では、イベリア半島のことを「アンダルス」と呼んだ。


「アッラーが世界を創造したとき、アンダルスは穏やかな気候、豊かな大地、美しい女性など、
 多くの恵みを願った。アッラーはそれらをすべて与えたが、それではあまりにもアンダルスへの
 恵みが多すぎると思い直し、ただ一つ、「平和」だけを取り上げた」という伝説がある。


アンダルスは大いに栄えたが、後ウマイヤ朝の滅亡後、ここは「タイファ」と呼ばれるイスラーム系の太守たちと、北から国土回復を目指すキリスト教諸国との長い戦いの舞台になる。

大きく見れば711年から1492年まで続いたこの戦争を、キリスト教側は
「レコンキスタ」(国土再征服戦争)と呼んだ。


キリスト教側は集合離散を繰り返すうちに、やがて「ナバラ」、「レオン」、「アラゴン」、「カスティーリャ」「ポルトガル」という5つの王国にまとまっていく。


11世紀以降、タイファ諸国はアフリカ大陸から援軍として、
強大なムラーヴィト朝とムワッヒド朝を相次いで呼び込んだ。


窮地に立たされたキリスト教諸国は、「十字軍」の名のもとに大連合軍を組んでこれに挑む。

そして1212年、「ラス・ナバース・デ・トロサの戦い」に圧倒的な勝利をおさめ、
ムワッヒド朝をイベリア半島から撃退することに成功した。

117: 2014/07/21(月)19:59:43 ID:sHNWsPuFe
これ以降は潮目が変わり、はっきりとキリスト教諸国が優位に立つ。

そして15世紀後半になると、数多くのタイファ諸国は淘汰され、
ただ半島南端にグラナダを都とする「ナスル朝」だけが残った。


ナスル朝は何世代もかけて、グラナダに想像を絶するほどに典雅な宮殿を造営した。

夕暮れに赤く染まる丘の上の宮殿は、アラビア語で「赤」を意味する「アルハンブラ宮殿」と呼ばれる。

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スペイン、グラナダにあるアルハンブラ宮殿
photo credit 


キリスト教諸国の統合はさらに進んだ。

ナバラはフランス王国に半ば取り込まれ、カスティーリャはレオンを併合して半島中部を押さえた。

そしてカスティーリャ王国の女王イサベルとアラゴン王国の国王フェルナンドが結婚したことで、イベリア半島の三分の二が事実上ひとつの国になった。


1482年、700年にわたったレコンキスタの最終決戦がはじまった。

北から押し寄せるカスティーリャ・アラゴン連合軍の前にナスル朝の要塞は次々に陥落し、そして1492年1月1日、最後のグラナダ王ボアブディルはグラナダを開城した。

かくてカスティーリャ・アラゴン両国はイベリア半島からイスラーム勢力を一掃し、一体化して「スペイン王国」(エスパーニャ王国)となる。


これはイスラーム世界の歴史上で最初の後退だった。

118: 2014/07/21(月)20:07:50 ID:sHNWsPuFe
イベリア半島を統一したスペインは、同じ年のうちにまったく未知の広大な世界への足掛かりを気づいた。


クリストバル・コロンという甚だ胡散臭い詐欺師のような風体の男が、

歴史的大勝利に浮かれるイサベル女王を煽ててうまいこと資金を引き出し、

「西の海を越えていくとアジアに到達する」という自分だけしか信じていないような妄想を実現すべく

船員たちのクーデターをもものともせずに強引に世界の果てに向かって航海した結果、

なんと世界の果ての向こう側に広大な未知の大地があることが判明したのだ。



象徴的でもある。

それまで「世界史」はユーラシア大陸を中心に動いていた。

これからは大洋こそが世界史の軸になる。

であれば、大陸中央部を占めるイスラーム世界から、大洋の岸辺に位置するヨーロッパに
歴史の主導権が移っていくのも当然だったのかもしれない。



さらにスペインは二世代にわたる婚姻政策の結果、イタリア半島を押さえ、

さらにドイツの神聖ローマ帝国と同族化する。


「ハプスブルク帝国」の誕生である。



イベリアからイタリアに及ぶ領土を得たハプスブルク朝スペイン帝国は、
必然的に地中海の残る領域を支配するオスマン帝国にとって最大の敵対者となる。


その形成が完成したのはスレイマン大帝の頃だった。

119: 2014/07/21(月)20:20:00 ID:sHNWsPuFe
最初の決戦、1538年の「プレヴェザの海戦」は、アルジェリアの大海賊ハイレディンを従えたオスマン帝国の勝利となった。

この時期、スレイマン大帝治下のオスマン帝国は宗教の違いを越えて、スペインを共通の敵とするフランスと同盟している。


しかし二度目の決戦、1571年の「レパントの海戦」はヴェネツィア共和国と結んだスペインの大勝となった。

ただし、これをもってオスマン帝国の衰退が始まったというのは正しくない。

この時点では、レパントの敗戦はオスマン帝国にとって僅かなつまづきに過ぎなかった。



スレイマン大帝死後のオスマン帝国が衰退を開始したといわれることも多いが、それも正しくない。

これからしばらく、オスマン帝国は「全盛状態」を維持する、いわば「国力の高原状態」を続ける。


しかしその時代、帝国の実権を握ったのは皇帝ではなく、後宮の女性たちや大宰相たちだった。

たとえば、スレイマン大帝の死後はもはや皇帝が陣頭に立つことは全くなくなる。

次第に御前会議の場からも皇帝の姿は消え、大帝の晩年に完成した精緻な官僚制が半ば自動的に帝国をスムーズに運営するようになっていく。

当時のヨーロッパ人は、このオスマン帝国の官僚制を驚嘆と憧れの目で見つめていた。

120: 2014/07/21(月)20:30:34 ID:sHNWsPuFe
17世紀には「キョプリュリュ家」という非常に発音しにくい名前の一族が、次々に有能な大宰相を輩出する。

彼らはインフレや民衆反乱、ペルシアの動乱といった危機をうまく乗り越えて、
帝国の政治制度をさらに整備していき、実はオスマン帝国史上で領土が最も広がったのもこの時代だった。


ところが、1676年に大宰相に就任したキョプリュリュ家の一族、カラ・ムスタファ・パシャは、
1683年にハンガリーの反乱を機に、16万の大軍を召集してオーストリアのウィーンを包囲する。
スレイマン大帝の栄光再現を夢見たらしい。



ところが9月13日、突如ウィーン北東のカーレンベルク山から、当時欧州最強をうたわれた
ポーランドの「有翼騎兵軍団」が怒涛のように突撃を開始。

不意を突かれたオスマン軍は総崩れとなり、「第二次ウィーン包囲」は大敗北に終わった。

強権を揮った大宰相も結局のところ皇帝の下僕でしかない。

カラ・ムスタファ・パシャは帰途に絞首刑となった。


これ以後、オーストリアのハプスブルク帝国を中心に、中央ヨーロッパ諸国による
猛反撃が始まる。「大トルコ戦争」である。

16年間にわたる激戦の末、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約により、
オスマン帝国はハンガリー全土を失った。

これこそ、オスマン帝国の長い下り坂の始まりであった。


ちなみにウィーンを包囲していたオスマン軍は陣営の撤収をする余裕もなく敗走していったのだが、
戦後にオスマン軍の陣地を検分していたオーストリア人たちは、ある天幕で謎の黒い塊を発見する。

これがヨーロッパに「コーヒー」が広まるきっかけであった。


もうひとつ。

オスマン軍が敗走していったウィーンでは、奇跡の勝利を祝ってとあるパン屋が
オスマン軍の軍旗をかたどった三日月形のパンを売り出した。

「クロワッサン」の起源である。



イランの王朝


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イラン、エスファハーンにあるイマーム広場
photo credit 


121: 2014/07/21(月)23:05:00 ID:sHNWsPuFe
三大帝国の残るひとつ、サファヴィー朝ペルシアは最も存続期間が短く、この頃には滅亡を前にしていた。


1514年、初代シャー(国王)のイスマーイールが東部アナトリアのチャルディラーンで
オスマン帝国のセリム1世に致命的な大敗北を喫して若くして世を去ると、
「キジルバシ」(紅帽の徒)と呼ばれた騎兵軍団が実権を握るようになった。

第2代シャーのタフマースプ1世が死ぬと完全な無政府状態と化し、オスマン帝国やシャイバーニー朝が盛んに侵入した。


この危機のさなか、冷酷非情な王子アッバースが立つ。

彼は即位するとキジルバシ軍団を強制的に解体し、

オスマン帝国の親衛隊イェニチェリを参考に

グルジアやアルメニアのキリスト教徒を徴用した「奴隷軍団」や、銃兵・砲兵を整備する。


これでもってアッバースは国土回復のために奔走し、
東西の敵国を退けるとともに、
オスマン帝国の背後に位置する西欧諸国との同盟も模索した。

この頃、ロバート・シャーリーというイングランド人の商人がアッバースに軍事顧問として仕えている。


アッバースは旧都タブリーズを捨てて、イラン高原の中央に位置するイスファハーンに遷都した。

イスファハーンは繁栄を極め、「世界の半分に匹敵する」とまでいわれるようになる。

こうした功績から、アッバースはオスマン帝国のスレイマン1世のように「大帝」と称されている。


しかしアッバース大帝がなまじシャー(国王)の権力を絶対化してしまったために、
彼の死後に無能・無気力・アル中・ヤク中なシャーが相次ぐと、サファヴィー朝は急速に衰退する。

オスマン帝国がハンガリーを失ったのと同じ頃から、サファヴィー朝では部族反乱が頻発するようになる。

とくに東方の山岳民族、アフガン人の首領ミール・ヴァイスの反乱には手が付けられなかった。


1722年、ミール・ヴァイスの息子マフムードが率いるアフガン人が来襲した。

彼らはあまりにも貧しかったので軍馬を持たず、牛に乗って攻めてきたらしいw

しかし、サファヴィー朝はそんな連中にすら抵抗する力が残っていなかった。

イスファハーンは開城し、サファヴィー朝ペルシアは事実上滅亡した。

123: 2014/07/21(月)23:17:57 ID:sHNWsPuFe
イスファハーンを占領したアフガン人はペルシア全土の支配を目指すも、各地で抵抗が続いた。

おまけに西のオスマン帝国と北のロシア帝国が介入。


サファヴィー朝の復興を目指す勢力もあり、ペルシアは混沌とした情勢になる。


最終的に勝利を収めたのは「ナーディル・クリー」という一代の英傑だった。

後に「ペルシアのナポレオン」とも、「最後の中世的英雄」ともいわれる、残虐にして勇猛な人物だ。


ナーディルはアフシャール族という小さな遊牧部族の出身で、若いころのことはよくわからない。

奴隷だったという説もある。


イスファハーンの陥落後、アフガン人の追跡から逃れたサファヴィー朝の王族が落ち延びてきた。

ナーディルはこれを利用し、サファヴィー朝復興を唱えてアフガン人を放逐した。

イスファハーンの回復後、彼は摂政の地位に就くが、もともとサファヴィー朝を
真面目に復興させたかったわけではない。


あっさり傀儡のシャーを放り出して、自ら王位について「ナーディル・シャー」を名乗った。

「アフシャール朝ペルシア」の成立となる。


ナーディルを一言で表現すれば「軍事的天才」。

向かうところ敵なく、ロシア、オスマン帝国を撃退してメソポタミアを奪い、
転じてアフガニスタンに攻め込み、勢いにのってインドまで進撃。


アウラングゼーブの圧制を経て弱体化していたムガル帝国の都デリーに突入して、
世界最大のダイヤモンドだのムガル皇帝の玉座だのをかっぱらっていった。
(ちなみにこのダイヤモンドは現在、イギリスの王冠にくっついてる)

ただ、ナーディルは極めて粗暴で冷酷だった。

反乱を起こした者や敵対した者は容赦なく虐殺し、陰謀を企んだ罪で
自分の息子の目を潰して盲目にしたこともある。

常勝不敗の上に残虐非道。

「マジでこいつ、どうにかせんと……」


ナーディルに対する恐怖が広がり、ついに彼は側近の手によって暗殺される。

じゃんじゃん。

125: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)23:28:42 ID:HEnvHA5U6
ちらちらとロシアの影が… 

126:  2014/07/21(月)23:41:13 ID:sHNWsPuFe
>>125
ですな。
北方の雄、当時はピョートル大帝の時代。大国ロシアが目覚めつつある頃合い。
 

126: 2014/07/21(月)23:41:13 ID:sHNWsPuFe
ナーディル・シャーが倒れたあと、再びペルシアは無政府状態になる。

それをある程度まとめたのは、ナーディルの旧臣の「カリーム・ハーン」という人物だった。


彼はイラン南部を統一し、「ザンド朝」という王朝を興す。

アッバース大帝以来の「強くて残虐」パターンの例外で、
現代イラン人の歴史認識的には、わりと心優しい人物だったという評価である。



ちなみにナーディルのもう一人の有力部将として、
アフガン人の「アフマド・シャー・ドゥッラーニー」という武将がいた。

彼はナーディル・シャーが死んでアフシャール朝の時代が終わると見るや、
沈む船から逃げ出すネズミのごとく、手勢を率いてさっさと故郷に帰った。


そしてアフガニスタン南部のカンダハルを占領して、
アフガン諸部族をまとめあげ、
「ドゥッラーニー朝」という王朝を建てる。

「ドゥッラーニー」というのは、当地のパシュトゥーン語で
「真珠の時代」を意味するらしい。

アフマド自身は「真珠の中の真珠」という、意味不明な称号を名乗っている。

アフガニスタンは山国だから真珠の希少価値が高いんすかね?

アフマドの直系子孫がずっと続いたわけではないけど、
ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、
この王朝は1973年まで続いていたりする。
「現代」が視野に入りつつある。
130: 2014/07/21(月)23:59:06 ID:sHNWsPuFe
さて、カリーム・ハーンの建てたザンド朝ではあるが、この王朝も長くは続かなかった。

次なる時代の主役は「アーガー・モハンマド・シャー」。

この男、ナーディル・シャーに倍する残虐非道にして凶悪無比な梟雄と伝えられる。

アーガーはカスピ海南岸の「ガージャール族」という遊牧民の族長の子として生まれた。

が、彼が少年のころ、ガージャール族はアフシャール朝に征服され、彼自身は捕虜として去勢されてしまう。

この恨みが彼の中に世界全般への憎悪を植え込んだとみられる。


カリーム・ハーンの時代が来ると、彼はカリーム・ハーンの宮廷があったシーラーズに連行されたが、
ここではカリーム・ハーンに大変寵愛され、さまざまな学問を授けられたという。

だが、カリーム・ハーンが死ぬと、動乱を見越して翌日に彼はシーラーズから逃亡した。


故郷に戻ったアーガーはガージャール族をまとめあげ、イラン高原の覇権争いに加わった。

1794年にはザンド朝を滅ぼし、ケルマーン地方に逃亡したザンド朝の王を追跡する。


そして、この大恩あるカリーム・ハーンの遺児をひっ捕らえるや、
カリーム・ハーンが隠した(とアーガー・モハンマドが妄想した)財宝の在り処を聞き出すために、
頭の上から煮えたぎった油をぶっ掛けたあとに両目を潰すという挙に出ている。

ついでにケルマーン地方の成年男子2万人もセットということで両目を潰されたらしい。

意味不明なレベルで残虐である。


とはいえアーガー・モハンマドは有能ではあった。

グルジアに進軍してロシアの影響力を排除し、ついでにグルジア人数千人を奴隷にする。

そしてイラン全土を平定した1796年に、イラン高原の新しい政治的中心として選び出したエルブルーズ山脈南麓のテヘランにて即位する。

いうまでもなく現代イランの国都である。


アーガー・モハンマド・シャーは世界の歴史上おそらくただ一人、去勢された王朝建設者であった。

そのため当然ながら実子はない。

彼以後のガージャール朝諸王は、彼の甥の子孫である。


さて、アーガー・モハンマド・シャーは即位の翌年、ロシアの南下に対処するため、カフカス地方に遠征した。

その途上、自分の居室で二人の召使が喧嘩をしているのを目撃し、
激怒して召使に死刑を宣告するが、部下のとりなしでその召使を許し、そのまま自分の身の周りの世話を任せた。

残虐にして傍若無人なアーガー・モハンマド・シャーは、弱者の恐怖心というものが想像できなかったのか。

アーガーの気が代わることを恐れた召使は、その夜、眠るアーガーを刺殺した。


もっとも、「ガージャール朝ペルシア」自体はアフシャール朝やザンド朝とは違い、建国者の横死後も続いた。

この王朝は専制的でありながら西洋列強の圧迫には弱腰として、イラン人の歴史的評価は低い。

それでも、ガージャール朝の命運は20世紀まで続くことになる。

ここでもまた、「現代」が視野に。

133: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)09:47:27 ID:RHNKlDWEo

1800年位っていうと日本の元禄時代か
つい最近のことなんか

134: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)10:16:14 ID:MsVVdng7g
元禄は1700年ぐらい
1800となると寛政年間で、伊能忠敬が蝦夷地を探検してる頃だね
ペルシアと同じように、ロシアの南下に備えて

137: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:36:17 ID:UIMvPBJhY
ロシア正教の教会の外観がモスクに似てるのは何か関係あるの?

139: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:43:23 ID:BLW1mipTb
>>137
玉ねぎドームのことかな?

ビザンツ様式の影響と思われ

142: 2014/07/22(火)22:03:31 ID:l6OgZMbRm
>>
>>139が有力説だったと思う。
あとは雪対策もあるかな。
 
建築様式としてはビザンツ建築がイスラーム建築とロシア建築の両方に影響を与えているという感じ。

141: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:45:07 ID:G7DCa6uGF
アラビアンナイトの入門書読んでちょっと興味もった。

142: 2014/07/22(火)22:03:31 ID:l6OgZMbRm
>>141
知っている限り、これまで言及してきた人物たちのうちで、ハールーン・アッラシードと宰相ジャアファル、
ウマイヤ朝のハッジャージュとマムルーク朝のバイバルスはアラビアンナイトに登場するよ。

143: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)22:04:51 ID:SeCYlbpJy
井筒俊彦の著書読んだ?

144: 2014/07/22(火)22:18:12 ID:l6OgZMbRm
>>143
『イスラーム生誕』は高校時代に買って読んだよ。たぶんほかにも読んだ著作あると思うけど思い出せない。
あと、もちろん彼が訳した岩波文庫のコーランも。文体が格好いい。

147: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)22:24:36 ID:xWz9XZeHd
イスラーム史目当てで世界史とってるからありがたい

1は文も上手で読みやすいから、見てるよ
次:1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part7 【北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退】