part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5 オスマン帝国のはじまり
part6 ヨーロッパの反撃


 北方の巨人、ロシア



148: 2014/07/22(火)22:34:25 ID:l6OgZMbRm
イスラーム世界の三代帝国が斜陽を迎えるころ、広大なユーラシア大陸の北半に巨大な帝国が誕生しつつあった。

北方の巨人、ロシア。

この帝国の動向は、これより以降のイスラーム世界を語るうえで不可欠となる。


ことの起こりは13世紀中葉、中央ユーラシアをモンゴル帝国の覇権が覆ったこと。


「魔王」チンギス・ハンの孫バトゥはアラル海よりカスピ海、
そして黒海北方に続くカザフステップとウクライナの草原を征服し、
その北に広がる暗い森林に兵を進めた。

そこには当時、ビザンツ帝国の影響のもとでキリスト教の東方正教を奉じ、
「ルーシ」と総称される国々があった。

ルーシ諸国はバトゥの猛襲の前に相次いで屈服し、その後長らくバトゥの子孫たちに従属する。

149: 2014/07/22(火)22:46:23 ID:l6OgZMbRm
バトゥ一族は西北ユーラシアに「ジュチ・ウルス」という巨大な国家を建設した。

いわゆる「キプチャク・ハン国」である。

この国の中核を担うカザフステップと南ロシアの遊牧民たちは、その頃すでにイスラームを受け入れていた。


14世紀後半、ジュチ・ウルスは天災と内紛が続き、徐々に分裂を開始する。


クリミア半島のクリム・ハン国、
その北方の大ノガイと小ノガイ、
ヴォルガ下流域のアストラハン・ハン国、
その北方のカザン・ハン国、
さらにウラル山脈東方の極北に位置するシビル・ハン国など。

そして北西においては、ルーシが従属から解き放たれようとしていた。


モンゴルの支配下で数多いルーシ諸国の筆頭とされたのは、
「モスクワ大公国」という国であった。

この国は代々の大公が奸智に長け、巧みにジュチ・ウルスのハンに取り入り、
ルーシ全土の徴税代行権を得ていたのである。

ジュチ・ウルス混迷のなかでモスクワは周辺諸国を相次ぎ併合し、
急速に浮上する。

そして1380年、「クリコヴォの戦い」の勝利によって事実上の独立を達成。


さらに1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、最後の皇帝の姪を妃に迎え、
正教諸国の盟主、「第三のローマ」を自認する。

151: 2014/07/22(火)23:04:04 ID:l6OgZMbRm
1533年、モスクワの君主に「イヴァン4世」が即位する。

彼は苛烈で矛盾に満ちた性格の持ち主で、溢れんばかりの才能と狂気を併せ持っていた。

異称「雷帝」。事実上「ロシア帝国」の創始者である。


1552年、イヴァン雷帝はジュチ・ウルスの後継国家のなかで最強のカザン・ハン国を征服した。

これによって、新生ロシア帝国の前に、東方の大草原と極北シベリアへの門戸が開かれた。

ついで1556年にはヴォルガ下流、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国を征服。
これによってロシアはペルシアへの道を手に入れた。


ジュチ・ウルスの後継国家を次々に征服したロシアは、
キリスト教の一派ロシア正教を根幹とする国家でありつつも、
旧ジュチ・ウルスのテュルク系ムスリムたち、
いわゆる「タタール」の影響を色濃く受けるようになっていく。


イヴァン雷帝の時代、すでにモスクワの貴族の三割はタタールの血を引いていた。

そのなかにはイスラームの信仰を密かに、あるいは公然と保持し続けるものも少なくなかった。

他ならぬイヴァン自身、母方でジュチ・ウルス支配層の血脈に連なっていたのだ。


東方支配の布石として、イヴァン雷帝は1574年、バトゥの末裔であるタタール貴族
サイン・ブラトに突如譲位をした。

だが翌年、イヴァンは何事もなかったように復位。

サイン・ブラトから再度王権を譲られることで
イヴァンは同時に「チンギス・ハン家の継承者」として東方の遊牧民たちに君臨する権威を獲得した。

こののち、ロシア帝国の皇帝たちは東方の遊牧民たちのあいだで
「チャガン・ハーン」と尊称される。
「西方の王」という意味である。


イヴァン雷帝の死後、ロシア帝国は王朝が断絶し、次々に偽皇帝が出現し、諸外国の侵攻が相次ぐ。

しかし1613年にロマノフ朝が成立。ロシア帝国は蘇り、いっそう力を強めて北方に君臨することとなる。

154: 2014/07/22(火)23:17:17 ID:l6OgZMbRm
1682年、ロマノフ朝ロシア帝国に驚嘆すべき支配者が登場した。

彼の名は「ピョートル1世」。
 
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ピョートル1世
photo credit 


ロシア帝国、そしてヨーロッパとアジアの歴史を大きく変えていく人物である。


その頃、ロシアは大国とはいえ辺境に位置し、文化的にも経済的にも遅れていた。

ピョートルは幼い頃から、勃興しつつあった西方の異端者たち、
カトリックやプロテスタントを奉じる「ヨーロッパ」に魅せられていた。

彼は途轍もなく強引にヨーロッパの文明を導入し、
ロシアを西方の異端の国々と並ぶ名実ともに強大な国家に改造しようとした。



その頃、ヨーロッパ北方の覇権を握っていたのは、
今から見れば意外なことにスウェーデンだった。

17世紀前半のドイツ三十年戦争に介入することでスウェーデンはバルト海の制海権を握り、「バルト帝国」と呼ばれる一大影響圏を作り上げていたのだ。

ピョートルは人生最大の課題として、自国の西に立ちはだかるスウェーデンの壁を打ち破り、魅惑のヨーロッパと直接結びつこうとした。

かくて「大北方戦争」が開幕する。

155: 2014/07/22(火)23:37:22 ID:l6OgZMbRm
当時、スウェーデンの王位にあったのはカール12世。

世に「北国の流星王」と称せられる戦の天才だった。


常に戦陣に立って戦い、直接指揮した戦いでは敗北を知らなった。

そして戦陣のさなかに倒れた。

いわく、「自ら陣頭で戦い、陣頭で死した最後の王」。


カール12世は善戦し連勝したが、1709年、この不敗の王が重傷のために指揮を執ることができなかったとき、ポルタヴァの戦いでスウェーデンは大敗した。

カール12世は本国への道を遮断され、敗走する兵士たちに紛れて南へ奔った。


その行く末には、カルロヴィッツ条約によってハンガリーを失ったとはいえ、
なお強大な力を保持する異教の大国、オスマン帝国があった。


ピョートルはオスマン帝国にカール12世の身柄引き渡しを要求したが、

かねて黒海北岸で勢力を拡大するロシアに対して強い警戒を抱いていたオスマン帝国側は、これを拒否した。

ついにピョートルはオスマン帝国に侵攻。

長い長い「露土戦争」の本格的な開幕である。

後期オスマン帝国にとっての最大の敵国が表舞台に上がったのだった。



1711年、この最初の戦いではオスマン帝国が勝利する。

プルート川で15万のオスマン軍がピョートル自身の率いるロシア軍を包囲し、屈服させたのだ。


ただし亡命者カール12世も間もなくオスマン帝国から放逐される。

帝国は余計な火種を抱え込みたくはなかった。

いまや異教のヨーロッパ諸国の軍事力は、オスマン帝国に底知れない脅威を予感させつつあった。

158: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)02:24:22 ID:jUPxmju8b
普通に面白い
イスラーム勉強してこなかったから新鮮

164: 2014/07/23(水)21:47:04 ID:vyntEzX1B
そもそも何故、欧州諸国の軍事力はとめどなく強大化していったのか。

おそらくその理由のひとつは、モンゴル帝国以降のユーラシア大陸において

ヨーロッパにだけ広域を覆う「帝国」が生まれなかったことにある。


イスラーム世界においてはオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国、
そして東方にあっては大明・大清帝国。

これら「近世世界帝国」の成立によって、必然的にユーラシア大陸における戦争の頻度は減少した。

しかしヨーロッパだけは中小国家の乱立が収まることなく、常に戦火が途絶えなかった。

その果てに、16世紀後半より「西欧軍事革命」といわれる動きがはじまる。


イタリア戦争を戦ったフランス・スペイン、八十年戦争を戦ったオランダ、
ドイツ三十年戦争を戦ったスウェーデン、それら諸国はより強く、より効率的な軍隊と戦争を模索する。

圧倒的な動員兵数、膨大な火力の集中、そして数学的にまで研ぎ澄まされた用兵術。


17世紀を通じて欧州諸国の戦争は飛躍的に大規模になっていく。

ひとつの戦役に動員される兵力は中世の数千規模から数万、数十万に増大する。

そして18世紀を迎えると、この大量動員を実現すべく「財政軍事国家」が誕生する。

高度に組織化された徴税機構に基づく国富の確実な回収。

政府の信用に基づく国債発行と中央銀行によるその購入による大動員の実現。


近世ヨーロッパは戦争に継ぐ戦争のなかで発展し、その蓄積のうえで
近代ヨーロッパの世界制覇が開始される。


イスラーム世界にせよ中華世界にせよ、大動員や個々の軍事技術という点を取れば
必ずしも欧州諸国に劣っていたわけではない。

しかしそれらを一体として運用していく技術、
それを可能にする社会の在り方という面において
旧来の諸帝国はもはや「西方からの衝撃」に抗することが不可能となる。


以上余談。

165: 2014/07/23(水)22:18:43 ID:vyntEzX1B
大北方戦争は結局のところロシアの勝利に終わった。

ピョートル1世はこの戦争を通じて西欧の文化や技術の導入による自国の近代化にひたすら努力し、<ロシアの立ち位置を「辺境の大国」から「欧州列強の一員」にまでのし上げた。

ゆえに彼もまた「大帝」と呼ばれている。


ピョートル大帝はそれだけでスレ一つ立つレベルの人物で、
ちょっと調べるといくらでも面白い逸話が出てくるのだけど、
髭だの歯医者だのは本題に関係ないので省略。


ところで彼は西にだけ目を向けていたわけではなく、
東にもちょっかいを出している。


まずペルシア。

サファヴィー朝の衰亡に乗じてアゼルバイジャンに出兵するも、

例のナーディル・シャーに追い返されている。


そしてもうひとつはシベリア。

すでにイヴァン雷帝の頃からロシアの勢力はシベリアの密林に拡大しはじめていた。

といってもシベリアはあまりに人口が希薄で、まともな国家もない。

征服うんぬんというよりは、ただ勝手に入り込んで勝手に旗を立てていっただけかもしれないが。

そしてピョートル大帝の頃にはロシアの「支配」なるものはついに太平洋の岸辺と清朝中国の境界まで到達していた。


ただ、留意点がある。

ロシアはシベリアの密林を東に驀進したが、密林の南に広がる草原には入り込めなかった。

ヴォルガ川の東にはカザフステップがあり、その先に中央アジアのオアシス地帯がある。

当時、カザフステップにはジュチ・ウルスの分かれであるカザフ・ハン国、
中央アジアにはその同族であるシャイバーニー朝があり、いずれもイスラームを奉じていた。

これからまだしばらくの間、

ロシアは密林と草原の境に「オレンブルク要塞線」といわれる長大な監視網を築いて、柵越しに草原を見張っていることしかできない。


当時、内陸アジア西部の情勢はこんな感じだった。


オスマン帝国の衰退のはじまり 


166: 2014/07/23(水)22:40:47 ID:vyntEzX1B
さてプルート川でピョートル大帝を撃退し、カール12世をポイ捨てした後のオスマン帝国である。


オスマン帝国としては近頃不気味に力を増しつつある西の異教徒どもに積極的に関わる気はなかったのだが、
ロシア撃退でそこそこの自信も回復してきたので、

地中海でうろちょろするヴェネツィア共和国に対して大国の威厳というものを軽く教育してくれようという気になった。


ところがヴェネツィアとの小戦は、

油断なくオスマン帝国の動向を見張っていた列強の警戒心を刺激したらしく、

再びハプスブルク朝オーストリアとの全面対決となってしまった。



この戦争において、オスマン帝国はとある敵将に無双乱舞を食らわされ、

いたるところで敗走する。

その敵将の名は「プリンツ・オイゲン」。

フランスの太陽王ルイ14世の落胤とも噂される不世出の名将であり、

そういえば去る大トルコ戦争でもハンガリーのゼンタで3万人ものトルコ兵を川に追い詰めて溺死された天敵であった。


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プリンツ・オイゲン
photo credit 

今度の戦争ではオイゲンがオーストリア軍の総司令官となり、大宰相を敗死させ、ベオグラードを陥落させた。

167: 2014/07/23(水)22:42:50 ID:vyntEzX1B
華麗なるオイゲン無双の結果、
オスマン帝国は大トルコ戦争で失ったハンガリーを回復することはおろか、

セルビアとボスニア北部、ワラキア西部までオーストリアに持っていかれた。

ヨーロッパ大陸のオスマン領は縮小する一方だった。


異教徒どもとの聖戦なんてろくな結果にならないと理解したオスマン人たちは、

余計な野望はさっぱり捨てて、

しばらくは庭園建設だのチューリップの栽培だのに熱中していた。


世にいう「チューリップ時代」である。



そんなとき、東で衰弱を続けていたサファヴィー朝ペルシアがついに瓦解した。

アジア側なら得手のものだと思ったのか、オスマン帝国は久しぶりにペルシア遠征を断行する。

ところがそこで待ち構えていたのは、かの「ペルシアのナポレオン」である。


この「アフシャール戦役」にすらオスマン帝国は敗北。

だらしない政府と重税とのんきなチューリップブームに怒り心頭に発したイスタンブルの市民たちは

パトロナ・ハリルという元イェニチェリ兵士を先頭に暴動を起こし、

ときの大宰相イブラヒム・パシャを処刑して、スルタン・アフメト3世を廃位したのだった。

168: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)23:01:00 ID:MOmC5vf1B
この頃、イェ二チェリは暴走しがちで、兄貴もイェ二チェリのクーデターで廃位させられたよね

170: 2014/07/23(水)23:06:05 ID:vyntEzX1B
>>168
ムスタファ2世だね。この頃は暴動ばっかり。

169: 2014/07/23(水)23:03:19 ID:vyntEzX1B
いまや「オスマン家の崇高なる帝国」は衰退しつつある。


わずかながら、認めたくはない真実を直視する人々も現れた。

たとえば、この頃から少しずつ、宿敵たる西方の異教徒たちからも学ぶべきことは学ぼうという動きも現れる。

アフメト3世ははじめて西欧に視察大使を派遣したし、

すこし後にはプリンツ・オイゲンの元部下で彼と折り合いが悪くなって出奔してきたクロード・ボンヌヴァルなるフランス軍人を雇って、ヨーロッパ式の軍事改革を試みさせている。


まあ、改革なんてものは最初からうまくいくわけがないので、
どれも保守派に潰されたけど。


確かに帝国は組織疲労を起こしていた。


かつてスレイマン大帝のもとで武名を轟かせたイェニチェリ軍団は、

なにか気に入らないことがあるとシチューの大鍋をひっくり返して
大通りをデモ行進するだけの無駄飯食らいと化していた。

インフレで財政は火の車になっていた。

徴税を民間人に下請けさせたところ、後先考えない請負人たちのせいで農村が荒れ果てた。

徴税請負人たちに責任意識を持たせようと
彼らに個々の管轄地域を設定して終身徴税権を与えてみたら

請負人たちは管轄地域を私物化して、土地のご領主様(真面目な歴史用語では「アーヤーン」)と化した。

いくらご領主様が領地の発展に成功しても、政府は何も得をしないのであった。

そんなこんなで、18世紀のオスマン帝国は緩やかに衰えていったのである。

160: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)10:20:57 ID:Pc7ptANdM
インドネシアにイスラム教が伝搬したのはいつ?

162: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)21:27:56 ID:vyntEzX1B
>>160
インドネシアといっても広いから一概には言えないけど、おおむねモンゴル時代(13世紀)以降。
本格的なイスラーム国家が成立し始めるのは15世紀あたりからだね。

161: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)16:29:13 ID:6L1FzrvXG
エルサレムはなんで聖地なの?

162: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)21:27:56 ID:vyntEzX1B
>>161
そもそもイスラームはユダヤ教やキリスト教の影響のもとに形成されているので、
成立当初からエルサレムが聖地という意識はあった。 

実はムハンマドも最初のうちはメッカではなくてエルサレムに向かって礼拝していたり。

ただ直接には、

「ある夜ムハンマドのもとに天使ジブリール(ガブリエル)が現れて
一瞬にして彼をエルサレムに連れていき、そこから天馬に乗せて七重の天国に昇った。 
そこで過去の多くの預言者や天にあるコーランの原書、アッラー自身と出会った」

という伝承が重要。


つまりエルサレムはイスラームの世界観で、天国に最も近い場所ということになる。 

この時ムハンマドが昇天したとされる丘の上に築かれたのが有名な岩のドーム。

厄介なことにこの丘は、ユダヤ教の聖地である、ダヴィデ王の建設したエルサレム神殿の跡地でもある。

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説


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