part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5 オスマン帝国のはじまり
part6 ヨーロッパの反撃
part7 北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退

ムガル帝国の衰退



173: 2014/07/24(木)01:19:41 ID:HTne1Yfsr
18世紀後半、オスマン帝国は緩やかに衰退し続け、その東ではイラン高原が動乱のさなかにあった。

ところで、1707年にムガル帝国のアウラングゼーブが没した後のインド亜大陸の情勢はどうであったか。



アウラングゼーブの負の遺産はあまりにも巨大だった。

そもそも、彼はあまりにも長生きし過ぎていた。なにしろ享年88歳である。

その死後帝位を継いだバハードゥル・シャー1世は、その時点で65歳である。

寿命尽きるまでにどれほどのことができるやら、暗澹たるものだった。


西北インドのシーク教徒が反乱を起こした。

国庫が破産した。

二つの宜しからぬ治績を残して老皇帝が崩御したあと、
ムガル帝国の実質的な支配権は
皇帝の手を離れ、宮廷の高官たちの手に渡った。

宮廷内では高官たちの権力争いが常態化した。

以後の歴代皇帝は有象無象なので固有名詞を出す必要もないと思われる。

何人か、それなりに目端が利いて有能な政治家も出たのだが、前向きなことは何もしない皇帝たちも有能な大臣の足を引っ張ることだけは積極的だった。

内政は麻痺した。
賄賂と陰謀が横行した。

閲兵式では同じ兵士が何度も同じ場所を行進し、
軍馬はその筋の業者から自称騎兵にその都度貸し出された。

1724年、ときの帝国宰相ニザームが覚醒した。

「こんなところでグダグダ過ごしているのは人生の無駄遣いやな」

宰相は一族郎党を引き連れて職場を放棄し、はるか南のハイデラバードに去っていった。

「今日からここで新しい国作るわ」

たちまち真似する者が続出した結果、ベンガル、アワド、パンジャーブなどに相次いで太守領が成立。

自称ムガル皇帝の忠実な臣下にして地方長官、実質は独立国家の君主である。



いたるところで領主たち、ヒンドゥー諸侯が反旗を翻した。

南インドのマラータ族が北進を開始した。

そしてそんな中、1738年にあの男、ナーディル・シャーが来襲した。

174: 2014/07/24(木)01:41:59 ID:HTne1Yfsr
「デリーはこの世に選ばれし都たれり
 そこに住まうは選ばれし人たれり
 天はデリーを奪い、荒れ果てさせたれど
 我こそはその荒みし町の住人なり」

この時代を代表する詩人、ミールはこう記した。



アフシャール朝ペルシアのナーディル・シャーは
グダグダのムガル帝国正規軍を鎧袖一触で壊滅させ
デリーに入城するや住民の無差別大虐殺を行い、推定7億ルピーの富を略奪した。

この侵略は病み衰えたムガル帝国にとって、止めの一撃になった。


帝国の権威は地に堕ちた。

財政は破綻し、貴族たちはもはや強欲というよりも生存のために争い合った。


デカン高原から北上したマラータ王国が一時インドを圧するかに見えたが、

同時にアフガニスタンから

自称「真珠の中の真珠」が来寇し、マラータ王国を敗走させる。

とはいえ、アフマド・シャー・ドゥッラーニーもインドの新しい覇者になるほどの力はない。

ラホールのシーク教徒たちが彼を妨害し、アフガニスタンへの撤退を強いた。


さしあたり、強い国家はどこにもなかった。


夢醒めて、大ムガル帝国はデリー近辺を保持する一王国と化した。

帝国から独立した各地の太守領でも、おおむねの傾向としては、内乱が頻発し腐敗が横行していた。


次なる亜大陸の覇権はいかなる勢力の手に帰すのか。

最後に勝利を収めたのは、舞台の外から乱入してきた大英帝国だった。

175: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)02:59:01 ID:l8fMFQMDZ
まさに千夜一夜物語だな

178: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)11:22:20 ID:flz6W6Xld
世界史受験生はこのスレをよく読むべし


東南アジアでのイスラム教


186: 2014/07/24(木)23:13:38 ID:1eNn3de5Z
大きく過去へさかのぼる。



近代ヨーロッパの世界制覇が開始されるよりもはるか昔から、

ユーラシア大陸の南に広がるインド洋は交易の海だった。

そもそもイスラームが生まれたアラビア半島もインド洋交易圏の一端に位置し、
預言者ムハンマド自身も元は交易商人であった。

ゆえにイスラームは富の追求も異邦への旅も大いに奨励する。

西暦8世紀、アッバース朝イスラーム帝国が西ユーラシアの大統一を達成した頃から
アラブやペルシアの商人たちが盛んに海に乗り出した。

彼らのある者はアフリカ大陸東岸を南下し、ある者は南インドへ、さらにその東へと向かった。


10世紀末に成立した「シナ・インド物語」は、中近東から南シナ海に至る旅程を詳細に記述する。

東へ向かう航路は南インドのいくつもの港を経由し、東南アジアの島々の間を抜けて、
ついには中華帝国の不動の外港、広州港に到達する。

「シーン」は絹と陶磁器の故国にして、世界で最も富裕な帝国。
「カーンフー」は東の富が蝟集するところ。

唐末には広州に20万人のアラブ商人が居住し、唐王朝の滅亡後に広東を支配した南漢国も
そんなアラブの商人たちの血をどこかで交えているという説もある。

187: 2014/07/24(木)23:34:21 ID:1eNn3de5Z
13世紀後半、モンゴル帝国第5代皇帝クビライは「世界を征服する」ことに全力を傾けた先帝モンケとは似て非なる、「世界を支配する」ことに情熱を注いだ。


実利を重視するモンゴル人のなかでもひときわ実際的なこの皇帝は、

倫理と統治を結び付ける儒教官僚に飽き足らず、

知識と技術と富を追求するムスリム官僚を重用した。


モンゴル帝国最盛期、東西を問わず最上層の支配者たちはペルシア語を共通言語とした。

大量のイスラーム教徒がクビライのもとで司法や行政を管掌した。

かくて東ユーラシアへのイスラーム浸透はさらに促進される。


とりわけ西方に通じる陸上交易路の起点たる甘粛・陝西、海上交易ルートの起点たる福建・広東には、

西方から来た異民族だけでなく、イスラームに改宗する漢人も少なからず、

彼らは後に「回族」と呼ばれることになる。


また、クビライは帝国の共通貨幣と定めた銀の産地、雲南の統治を
サイイド・アジャッルというムスリム官僚に委ねたが、
彼は類まれな名長官であり、大いに善政を敷いた。

雲南に多くのモンゴル軍が駐留したこともあり、雲南にもイスラームが定着することになった。

188: 2014/07/24(木)23:54:03 ID:1eNn3de5Z
14世紀に入り、例のごとく天災と失政のフルコンボで完全に愛想を尽かされたモンゴル帝国は
漢族によって故郷モンゴル高原に追い払われ、代わって大明帝国なる新王朝が誕生する。


ところが明の第3代皇帝、永楽帝は否定したはずのモンゴル帝国の壮大さに内心魅せられていたのか、
7度にわたって大艦隊をインド洋に派遣し、南海諸国の入貢を促す。


その頃の中国でマラッカ海峡より西の海を知悉している者は当然ながらムスリムばかりである。

艦隊総司令官に任じられたのも、雲南出身のムスリムである鄭和という宦官だった。


鄭和は敬虔なムスリムとして「天方国」、もといメッカ巡礼を悲願としていたようである。

総司令官はたびたびペルシア湾のホルムズまで遠征し、目と鼻の先に聖地を望んでいたのだが、

宮仕えをする人間が「職務中」に私用に時間を割くことはできないので、残念ながらついに聖地巡礼を果たすことなくこの世を去った。

その代わりというわけではないが、鄭和は東南アジアのイスラーム化にかなりの貢献をしたらしい。

 
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鄭和艦隊の進路
photo credit 

189: 名無しさん@おーぷん 2014/07/25(金)00:00:29 ID:8ONvuPWtx
鄭和きたこれ!

190: 2014/07/25(金)00:09:16 ID:1oHTKiXil
東南アジアの島々には早くから多くのムスリム商人たちが寄港していた。

当然、それなりにイスラームに改宗する現地人もいただろうし、
仕事に飽きて現地で沈没するムスリム商人も少しはいたであろう。

なにしろ東南アジアは魅力的な土地で、今でもバンコクあたりで沈没する旅人は珍しくない。


が、史料上で東南アジアにイスラーム国家が登場してくるのは13世紀末から、
つまりモンゴル帝国による交易振興が始まってからである。


なんとなれば、基本的にイスラームは異教徒を改宗させることにあまり積極的ではないのだ。

来るものは拒まないが、来ない者を無理に追いかけはしない。


開祖ムハンマドが商人だったせいか妙に実利的で、

「無理に異教徒改宗させるよりそのまま放っといて保護税ふんだくった方が得じゃね?」とか、

「異教徒の土地で無理に戒律守って腹空かすよか、融通きかせて豚肉食っちまえば?」とか、

意外とそんなスタンスだったりするのだ。


だがしかし、モンゴル帝国の成立で来航するムスリム商人の数自体が飛躍的に増えれば、

現地人サイドとしても「とりあえずアッラーフ・アクバル~とか唱えとけば入港税増えるんじゃね?」という

これまた実利的な発想に至るのもむべなるかな。


アラブ人もペルシア人もマレー人も商人なり。
共通言語はカネである。


でもって、鄭和である。

鄭和艦隊はインド洋各地から強引に大量の朝貢使節を中国まで連れて来た。

来てみればなかなかに豊かな土地でもあるし、大国なのでうまく煽てれば何かと得かも知れない。

インド洋各地の支配者たちがそう思ったところで、今度は明朝側が政策を180度転換して鎖国した。


「まあしょうがないか、北の大国が放置プレー始めてフリーダムになった東南アジアで商売するか」と、
こうなるわけである。


俄然、東南アジア島嶼部のイスラーム化が始まった。

192: 2014/07/25(金)00:35:31 ID:1oHTKiXil
ところで、これまで思想史的なことはほとんど省略してきたのだが、

アッバース朝が衰退する頃からイスラーム世界では「スーフィズム」という思想が大流行した。

これを一言で説明するのは難しいのだが、まあ「修行して凄い状態目指そうぜ」ということである。


中にははまりすぎて、街中で突如「我は神なり! 我は神なり!」と絶叫して
タコ殴り殺害された思想家なんぞもいるのだが、それはちょっと例外。


有名どころだと、ひたすらクルクル回転しまくって 恍惚状態のうちに神と一体化しましょうというメフレヴィー教団なんていうのもあって、オスマン帝国で大流行している。
 

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スーフィズムの回旋舞踊
photo credit 


まあ何にせよ、スーフィズムの登場によって「イスラーム」という宗教は、

いろいろな意味で、それまでよりも拡大速度を高めたようである。


スーフィズムの修行者たちは何しろ真剣に「宗教」をやっているので、
基本的に異教徒改宗に消極的なイスラーム世界にあって、
比較的熱心にイスラーム思想を宣伝したがる。


異教徒から見れば、豚肉を食べず酒を飲まず毎日礼拝するとかいうよりも、

ひたすらグルグル回転したり、超能力で空に浮かんでみたり、ナゾの煙を吸引してみたり、

修行者の墓に巡礼して健康祈願したりするほうが、分かりやすいし入り込みやすい。


というわけで、テュルク族だのジャワ人だのマレー人だのはスーフィズム経由で
イスラーム世界に入ったので、オーソドックスなアラブ的イスラームのイメージとはいろいろずれている傾向がある。

マレーやジャワでは今でもイスラーム以前の仏教だのヒンドゥー教だの精霊崇拝だのに由来する儀礼や信仰はそこらじゅうに残っているし、人名も全然アラブ風ではない。



それはさておき、イスラームは東南アジア最西端のスマトラ島のアチェに始まり、
各地の伝統文化の影響でいろいろと歪みまくりながらもマレー半島やインドネシア諸島に広がっていく。

東へ北へと拡大するイスラームの前線が、モルッカ諸島とフィリピン南部まで到達した頃に太平洋の向こうからスペイン人がやって来た。

193: 2014/07/25(金)00:43:27 ID:1oHTKiXil
後から大きく見れば、こうも言える。


イスラームは西から入って、東と北に進んでいった。

放っておけば一番東のニューギニアかオーストラリア、一番北のフィリピンか台湾までイスラーム化しただろう。

ところがその最中に東側からスペイン人が現れて、まだイスラームに染まっていなかったモルッカ以東とフィリピンを先にキリスト教に染め上げた。

そういうわけで、今も東南アジア島嶼部では、マレーシアと西インドネシアがイスラーム、東インドネシア(一部)とフィリピンがキリスト教の世界になっている。



それはさておき。

インド洋の最東端に太平洋からスペイン人がやってきたのこと時を同じくして、

インド洋の最西端にはポルトガル人が登場している。

1488年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは史上初めてアフリカ大陸南端を迂回し、インドのカリカットに到達した。

なんでも東アフリカでは
「爺さんが子供の頃に中国から来た船よりだいぶ小さい」と批評され、

インドでは「貢物がガラクタしかなくてテラワロス」とか言われたらしいが、

それでもとにかく結構なお土産を積んでポルトガルに帰ったので、

それ以後ポルトガルではインド洋進出が一大国家事業になった。

194: 2014/07/25(金)01:05:45 ID:1oHTKiXil
>>193
ガマのインド到達を1498年に訂正。


ここで登場するのが「アフォンソ・デ・アルブケルケ」という人物。
海の大征服者である。

彼は1506年に16隻の艦隊を率いてインド洋に遠征し、
東アフリカからインドに至る沿岸各地に砦を築き、
東南アジアの交易中心であったマラッカ王国を占領した。

こうしてポルトガル人はインド洋の制海権を手にして、
「エスタード・ダ・インディア」と呼ばれる
海上覇権を築き上げる。



ただし留意すべき点がある。

何故これほど易々とポルトガルがインド洋を制圧できたのか。

答えは簡単で、それまで非ヨーロッパ世界に「海を支配する」という概念は基本的に存在しなかったからだ。

ポルトガルの主観では「インド洋の支配」。

それはアジア側から見ると、多少大袈裟にいえば

「近頃あちこちでポルトガル人の海賊が砦を構えて交通料を要求してきてウザい」という状況でしかなかった。


まして、当時内陸に繁栄していた諸帝国は「ポルトガルの海上帝国」の存在などまったく認識していなかったと思われる。


かなり後のことだが、イスラーム世界にも「海の支配」という発想をする勢力が登場したことがある。

19世紀前半、アラビア半島東部のオマーンだ。

当時オマーンの王位にあった「サイイド・サイード」という珍妙な名前の人物が
イギリス製の軍艦を使って東アフリカの沿岸都市を次々に攻略。

一代にしてペルシア湾からタンザニアに及ぶ「オマーン海上帝国」なる代物を築き上げ、大英帝国とインド洋の覇権を二分していたりする。



いずれにせよ、この時代にあっては未だかくのごとし。

近代以前、海と陸は政治的に無縁だった。

けれどヨーロッパは陸の帝国が気づかないうちに着々と海を支配していった。

そして陸の帝国が予想もしていなかったとき、予想もしていなかった場所から突然大陸に侵入する。

かくて大英帝国のインド進出の伏線となる。