part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5 オスマン帝国のはじまり
part6 ヨーロッパの反撃
part7 北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8 ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教

オランダ東インド会社



204: 2014/07/25(金)23:35:48 ID:utULEuDmC
1596年、ジャワ島のバンテン港に突然オランダ艦隊が入港した。


当時、オランダはハプスブルク朝スペイン帝国からの延々続く独立戦争の真っ最中であった。

ポルトガルもスペインも似たようなものであるし、東洋には富が唸っていた。

オランダ政府は「オランダ東インド会社」なるものを設立し、東南アジア横取り作戦を開始したのだ。


さっそくオランダはそこらじゅうのポルトガル商館を襲撃してまわった。

願わくば喧嘩は身内でだけ片づけてほしいものである。

ポルトガルの海上帝国なんてものは所詮見かけ倒しなので、オランダの横取り作戦はサクサク進行。


1618年、オランダ東インド会社の第4代東インド総督として、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが着任。

なにゆえ単なる一会社が「総督」だの「艦隊」だのを抱えているのかというツッコミは気にしない。

ヤン・ピーテル(以下略)はポルトガルにとってのアルブケルケと同様、オランダ海上帝国の父ともいうべき人物だった。

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ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
photo credit 


彼はそれまでのように海上をうろうろしてポルトガルにせこせこと嫌がらせをする戦略を改め、

各地に要塞を建設して確実に交易を支配することにした。


というわけで着任の翌1619年、彼はさっそく艦隊を率いてジャワ島西部のジャカルタを占領し、
ここにバタヴィア城を建設した。

これ以後、このバタヴィアがオランダによる東南アジア支配の中枢となる。


1629年にはジャワ島最強のマタラム王国を破り、同年スマトラ西北端のアチェ王国にも圧勝。

1639年には北の大国日本がポルトガル船の来航を禁止したうえでオランダに独占交易を認めたので、
バタヴィア総督府では大宴会が開かれた。

そして1641年には長らくポルトガルの拠点だったマラッカをついに陥落させ、東南アジア海域の経済覇権を確立。

東南アジア横取り作戦、大成功であった。

205: 2014/07/25(金)23:55:26 ID:utULEuDmC
ところが、残念ながらオランダは横取り作戦に夢中になるあまり、金の卵をぶっ壊しまくっていた。


そこらじゅうの港市を襲撃してはぶっ壊し、そこらじゅうの国々に戦争吹っかけまくり、
商売敵を片っ端から蹴散らしまくった結果、オランダが横取り完成した時点の東南アジアは
国際交易がすっかり閑古鳥になっていたのである。

これじゃあ何のために東南アジア横取りしたのかわからんやんけ。


というわけでオランダ東インド会社は発想転換して、これより内陸征服作戦を開始する。

商売で金儲けするのではなく、税金で金儲けすることにしたのである。


ただしオランダ東インド会社は企業である。艦隊を持とうが総督がいようが企業である。
最小限度のコストで最大限の利益をあげる。

占領した土地の住民に、彼らは会社にとって最も儲かるものを栽培させた。

なんといっても本国の株主たちに配当金を払わなければならんのだ。現地従業員など二の次である。

モルッカ諸島では会社が抑えられなかった香木は全部伐採させ、ジャワでは藍だの木綿だのコーヒーだの
儲かりそうなものを片っ端から持ち込んだ。


とはいえ東南アジアの島々はあまりにも数が多すぎる。

オランダの征服作戦はいつになっても終わりが見えなかった。

とくに東南アジア最古のイスラーム国家であるスマトラ島のアチェの抵抗は長く激しく、
オランダがアチェを完全に征服したのは、なんと20世紀に入ってからである。

ご苦労なことである。


イギリス東インド会社


206: 2014/07/26(土)00:11:46 ID:WkL5zhGd5
ところで、実はポルトガルから東南アジアを横取りしようとしたのはオランダだけではなかった。

イングランドという競争相手がいたのである。


イングランドは1600年、「イギリス東インド会社」なるものを設立。

これまた艦隊だの総督だのを抱える謎会社である。

謎会社は1601年に東南アジアに艦隊を派遣。モルッカ諸島の香辛料を狙ってオランダと大いに競争する。

ところが1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島で、オランダ東インド会社が雇っていた
七蔵とかいう日本人傭兵がやたらと城壁の高さだの厚さだのを調べまくっていることを
不審に思った当局が七蔵さんを軽く鉄製器具でナデナデしてみたところ、

この七蔵氏、実はイギリスのスパイであったと自白。

オランダはキレて、イギリス人を全員東南アジアから追い出した。



そういうわけで以後のオランダは安心して横取り作戦を継続できたのだが、

東南アジアから追い出されたイギリス東インド会社としても、このまま倒産となっては株主に告訴される。


「東インドがだめなら本家インドはどうかのう」と作戦転換し、

南インドの海岸沿いにコツコツと商館など建てながら真面目に商売を続けること百年あまり。

気がつくとインド内部はゴチャゴチャになっていた。

207: 2014/07/26(土)00:33:09 ID:WkL5zhGd5
謎会社は一つではないし二つでもない。


当時、フランスもまた「フランス東以下略」を設立し、南インドで商売をしていた。

艦隊も傭兵も取り揃えていることは言うまでもない。


ときに南インドのカルナータカ王国で内戦が勃発。

ちょうど近場にフランスとイギリスの謎会社が拠点を置いている。

内戦当事者たちは、この異教徒どもを味方に引き入れて相手を圧倒しようと思いつく。


たかが民間企業のガードマン集団とはいえ、ヨーロッパ人の軍事力は半端ない。

この戦争を機に、たちまち謎会社はインド亜大陸覇権争いのなかに参戦することになった。


1757年、イギリス謎会社のガードマンたちはベンガル太守の継承戦争に参戦した。
敵方にはフランス謎会社も参戦。両軍はカルカッタ北方のプラッシーで衝突した。


イギリス謎会社のガードマン主任はロバート・クライヴ。

彼の部下たちと言えば、ヨーロッパ人1000人足らずと現地人が2000人ちょい。
相手方には6万人のベンガル兵たちが居並んでいた。


ところが、敵軍の80パーセントはイギリス謎会社からたっぷり賄賂をもらっていたのか、
何もしないまま突っ立っていた。そして折しも大豪雨。敵軍の火薬は水浸しになった。

何もしないまま突っ立っている5万人のベンガル兵を脇に見て、イギリス謎会社は突撃敢行。
火薬を封じられた1万人は一方的に追いまくられ、結果謎会社はわずか72人の損害で圧勝を収めた。


ここまで弱かったかインド人・・・

謎会社は覚醒した。

208: 2014/07/26(土)00:51:04 ID:WkL5zhGd5
謎会社はベンガル太守を傀儡化した。

突っ立っていた5万人の指揮官、ミール・ジャアファルをベンガル太守に擁立。

ブクサールにて逆襲してきた前ベンガル太守とアワド太守、
そして何故か顔を見せていたムガル皇帝の連合軍を撃破。

恐れをなしたムガル皇帝は、謎会社に北インド一帯の徴税権を認可した。

正確にいうと「ムガル帝国ベンガル・ビハール・オリッサ財務長官にしてベンガル太守」。
これが謎会社の称号である。ミール・ジャアファルはお払い箱行きとなった。


それにしても、これのどこが民間企業であるのか謎は深まるばかりである。


ところが世の中うまくいかないもので、不動産経営ならぬ領地経営に手を出した謎会社は、利益急落する。

まずもって、「ベンガル太守」などという称号を得た謎会社はロンドンシティ株式市場で一大投機の的となり、煽られまくった結果、株主配当金が急増。

同時並行でマイソール王国だのマラータ王国だのと戦争していたせいで軍費が会社経営を圧迫。

ていうか、そもそも民間企業に2000万人のベンガル人をどうやって統治しろというんかい。

209: 2014/07/26(土)01:14:56 ID:WkL5zhGd5
ここで「ウォーレン・ヘイスティングズ」という大物取締役がイギリス政府から押し込まれた。

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ウォーレン・ヘースティングズ
photo credit 


彼は「やあ紳士淑女の皆さん、リアルに考えましょう。弊社は国家になりました」と現実を認め、
徴税組織だの法制度だのを軍隊だのをどんどん整備した。

それにあたって、なんとも真面目に古代インド以来の風俗習慣だの法慣行だの社会組織だのを
研究しまくって統治に活用しているあたり、なんというか、近代西洋オーラ溢れる。


その頃、デカン高原のマイソール王国では、「マイソールの虎」と呼ばれた英傑が対英抗戦を続けていた。

彼の名は「ティプー・スルタン」。
フランスの軍事顧問を雇って統治の近代化を進め、精強無比な国軍を整備した。

「余は羊として一生を過ごすより、ライオンとして一日を生きたい」


オスマン帝国をはじめとするイスラーム諸国、遠く大清帝国、またフランスとも通好し、
ヨーロッパにもなかったロケット兵器を大量導入してイギリス軍に連勝した。


誇り高く視野広く才能あふれ、近世インドの末期を飾る英雄である。

だが、そんな彼も1799年、シュリーランガパトナの戦いでイギリス軍に追い詰められ、
降伏をあくまで拒否して壮絶な戦死を遂げた。


このマイソールの虎の最後の闘いにおいて甚大な被害を受けたイギリス軍のなかに一人の若き大佐がいた。

彼の名はアーサー・ウェルズリー。

やがてこの若者はヨーロッパにおいてもう一人の偉大な英雄と戦い、その没落を決定づけることになるだろう。

210: 2014/07/26(土)01:25:37 ID:WkL5zhGd5
さておき。

1767年から1799年に及んだ四度のマイソール戦争に勝利。
1803年にはマラータ同盟を追ってデリー占領。
1817年、グジャラート獲得。
1840年よりアフガニスタン侵攻開始。
1849年にシーク教国を滅ぼす。


イギリス東インド謎会社は、あくまで民間企業の顔をしたまま16万もの軍隊を抱えて、
ムガル帝国崩壊後のインド諸王国を次々に破りあるいは従属させ、
いまや紛れもなくインド亜大陸全土の覇者となった。


大英帝国のインド征服は、ユーラシア大陸においてかつて見られなかった奇妙な物語である。

214: 2014/07/26(土)01:41:39 ID:WkL5zhGd5
こうして、世界は19世紀を迎えた。

このとき、オスマン帝国は緩やかな衰退の果てに「ヨーロッパの病人」と呼ばれる末期衰亡の秋を迎えつつある。

ペルシアでは暴虐なるアーガー・モハンマドによってガージャール朝が成立するも、その前途はすでに暗い。

インドにあってはムガル帝国はまったく形骸化し(いちおうまだ滅亡はしていない)、
南アジア世界はユーラシアの諸文明においていち早く西洋の直接支配に屈した。

東南アジアでは蘭領東インドの植民地化が完成へ向かう。

中央アジア・・・・・・はまだ解説してないのでネタ晴らししない(←



東方世界にあっては大清帝国最後の大帝、乾隆帝弘暦が1799年に没した。

極東だけは、なお今しばらく夢の名残に生きることを許されるだろう。

40年後、広東に英国の艦隊が姿を見せる日まで。



近代軍事革命、財政軍事国家体制の確立を終え、産業革命前夜を迎えた西欧は、
いまや世界制覇を視野に収めつつある。

急速に地球はひとつに統合されようとしていた。


1500年以上にわたって東の中華世界とともにユーラシア大陸の歴史を牽引してきたイスラーム世界は
これ以後完全なる敗北と悲惨の味を知る。



惑乱と諦念、退廃と覚醒、変革と退行、融和と拒絶。


「現代」が近づく。

217: 2014/07/26(土)01:57:30 ID:WkL5zhGd5
イスラームの第13世紀が開幕・・・・・・あ、>>214の「1500年以上」ってのは引き算間違えてたorz

218: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)06:23:51 ID:4dnCiD2rQ
東南アジアにあった日本人町ってイスラームと交流あったの?

223: 2014/07/26(土)23:13:53 ID:1U3wYIOQ9
>>218
すでにイスラーム化した地域にも日本人町はたくさんあったし、
それ以外でもムスリムは珍しくなかったから、当然接点はあったはず。

ただ、当時の日本人が「イスラーム」という宗教の全体像を把握していたとはおもえない。
仏教の一種程度の認識だったんじゃないかな。

東南アジア側の史料では、ちょっと具体例は覚えてないけど、
豊臣秀吉を「日本のラージャ」とか、徳川家康を「日本のスルタン」とか書いているものもあるよ。

なお、すでに室町時代に「楠葉西忍」というムスリムと思われる商人が日本にいた記録もある。

219: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)09:37:32 ID:ovWWk37nX
「羊として一生を過ごすよりライオンとして一日を生きたい」
一度でもいいから言ってみたいねぇ

Tipu_Sultan_BL
ティプー・スルタン
photo credit 

223: 2014/07/26(土)23:13:53 ID:1U3wYIOQ9
>>219
ティプー・スルタンが最後の戦いで降伏を勧められたときの言葉も有名。

「余は年金を受給するラージャやナワーブの名簿に名を連ね、
不信心者どもの情けにすがって惨めな余生を送ることなど望みはせぬ。
戦のなかに生き、戦のうちに果てることこそが我が望みなり」
 
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