part1  イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2 ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3 各地で生まれる地方政権
part4 モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5 オスマン帝国のはじまり
part6 ヨーロッパの反撃
part7 北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8 ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9 アジアを狙う欧州諸国

ロシアの野望


230: 2014/07/27(日)21:42:42 ID:x0dRjz4tl
墺土戦争とアフシャール戦役で連敗して以後、長らくヒキコモリ主義を優先してきたオスマン帝国は、
1768年に久しぶりに本格戦争に巻き込まれる。

運悪く、黒海北方のポーランド領ウクライナで起こった民衆反乱に巻き込まれたのであった。


ピョートル大帝から半世紀以上を経て、ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代になっていた。

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エカチェリーナ2世
photo credit 


衰亡期に入ったオスマン帝国軍は黒海西岸を順当に敗走し続けた。


1768年に「キュチュク・カイナルジ条約」という例のごとく発音困難な条約が締結された。

その結果、長らくオスマンの従属国だった黒海北岸のイスラーム国家、クリミア・ハン国が独立もといロシアの属国化。

そしてワラキア・モルダビア二国もロシアの保護領となった結果、オスマン帝国は現在のルーマニア全土を喪失し、ドナウ川以北がすべてロシアの影響圏となった。



ちなみにクリミア・ハン国というのは、14世紀に分裂解体したジュチ・ウルスの最後の名残にあたる。

首都はクリミア半島南部のバフチサライ。

狭隘な地峡で本土ウクライナと隔てられたクリミア半島は、守るに易く攻めるに難い。

イヴァン雷帝の頃までは、クリミア・ハン国の騎兵はしばしば北上してロシアの町々を急襲し、
時に首都モスクワをすら焼き払ったものだった。

その後もクリミア・ハン国は南の海の向こうにあるオスマン帝国による無言の支援を受けて北のかたロシアに降ることなく、ロシアはクリミア騎兵の脅威を恐れて、長らく「ハンへの貢納」をすら続けていた。


オスマン帝国の庇護を失ったクリミア・ハン国はわずか9年後、ロシアに強制的に併合される。

自国を奪われたクリミア最後のハンは遠くエーゲ海の岸辺で生涯を終え、チンギス・ハン直系子孫の王国は地上から永遠に消滅することとなる。

231: 2014/07/27(日)22:05:17 ID:x0dRjz4tl
だが、キュチュク・カイナルジ条約にはそれ以上に重要な条項があった。

「ロシア皇帝はオスマン帝国領内に居住する正教徒の保護権を持つ」

「オスマン皇帝はクリミア半島に居住するムスリムに対する精神的な権威を持つ」

という2項目である。



ロシア帝国もオスマン帝国も領内に複数の宗教を抱える多民族帝国だったが、
どの宗教の信徒であっても死後はいざ知らず、
さしあたり揺り籠から墓場までの期間の間は現に暮らしている国の支配者に忠誠を誓うのが常識だった。

オスマン帝国ではムスリム以外の住民は「ミレット」という単位に組織され、
基本的には裁判その他の自治が許されていたが、税金はたっぷり徴収された。

ロシア帝国ではムスリムやユダヤ人、ごく僅か存在した仏教徒は二級市民扱いだった。


支配者が異教徒で何かと不利を被ったとしても、それは仕方ないことだった。

所詮、神から遠く離れた地上では力が正義。負けた先祖が悪いのだ。


だが、キュチュク・カイナルジ条約の2つの条項は、全く別の可能性を開いて見せた。

ロシア帝国はこれ以後、オスマン帝国領内でキリスト教の東方正教に属する人々が
当局によって「迫害を受けている」と見なされる場合は、合法的にオスマン帝国に介入する権利を得た。

一方オスマン帝国についても、クリミア限定のはずの「精神的権威」という条文がこれ以後どんどん拡大解釈され、やがて居住する国を問わず、全世界のムスリムに対してオスマン皇帝の権威が及ぶという理論が一人歩きするようになる。

それはまるで、かつての「カリフ」が復活したかのようだった。


「国家」という枠と「宗教」という枠が微妙に食い違いはじめる。

まことに面倒で厄介な時代が来たものだった。

233: 2014/07/27(日)22:17:41 ID:x0dRjz4tl
北方の大国ロシア。

ロシアには二つの夢があった。


一つは一年中凍らない海を手に入れること。

北極海に面するアルハンゲリスク、バルト海に面するサンクトペテルブルク。

ロシア帝国の2つの外港はいずれも一年の半分が冷たい氷に閉ざされ、完全に麻痺する。

青に緑に煌めく地中海へ! 真珠豊かなペルシア湾へ!

邪魔な異教徒どもを駆逐して暖かな南の海に到達することを、冷たい冬のなかでロシアはいつも夢見ていたのだ。




そしてもう一つ。

ロシアはイヴァン雷帝の時代から自国を「第三のローマ」だと考えていた。

第一のローマ、古代ローマ帝国は蛮族に滅ぼされた。

第二のローマ、東ローマ(ビザンツ)帝国は異端の跳梁の結果、ついに異教徒トルコ人に征服された。

いまや真のキリスト教、「正教」の教えはロシアだけに残された。

ロシアは異教オスマン帝国の圧制のもとで苦しむ正教の同胞たちを救いだし、いつの日かトルコ人どもに占領された東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを回復するのだ!!

234: 名無しさん@おーぷん 2014/07/27(日)22:18:39 ID:kXM3wImox
もうこんな時代まで

235: 2014/07/27(日)22:29:45 ID:x0dRjz4tl
激しく厨二病的な匂いを漂わせる主張ではあるが、力は正義である。
繰り返す。力は正義である。
(大切なことなので二度言った)


さしあたり、クリミア半島の獲得と、もうひとつイスタンブル直下のダーダネルス・ボスポラス海峡自由通行権も押さえておいたので、第一目標はまあまあ達成できたとしよう。


じゃ、二つ目である。厨二病とかいったら怒る(byロシア)


エカチェリーナ2世は「ギリシア計画」なるイスタンブル征服大作戦をひそかに発動し、オーストリアと秘密協定を結んだ。

「バルカン半島山分けしようぜ、じゃなかった、いたしませう」(エカチェリーナは女性)

その頃、オスマン帝国側でも世論が激昂していた。

異教徒どもへの言い訳しようがない大敗北に大譲渡、ありえねえというわけである。

なにしろオスマン帝国は半世紀のあいだ現実逃避のヒキコモリ政策をやっていたわけで、今更ながらショックも大きい。

まして目と鼻の先のボスポラス海峡を毎日ロシアの軍艦だの商船だのが我が物顔で往来しているので。



1787年、最初に宣戦布告をしたのはオスマン帝国側だった。

どうせ負けるのに自分から始めなくてもいいような気がするが、そうしたところで遅かれ早かれロシア側から宣戦布告されていただろうから、結果は同じことであろう。


「前回は何かの間違いだ!」と確信するオスマン帝国愛国者各位の願望にも関わらず、
今度もオスマン軍は連戦連敗した。

もうスレイマン大帝の時代じゃないのである。偉い人たちにはわからんのだね。


ところが1791年、突然戦争は中止された。

いくつか理由があるが、ロシアもオーストリアもへたれな異教大国などをイジメている余裕がなくなったというのが大きい。

西方でフランス革命が始まっていた。


求められる改革


236: 2014/07/27(日)22:53:21 ID:x0dRjz4tl
何やら異教徒どもの国で暴動が起こって、当地のスルタンが廃位されたあげく処刑されたらしい。

でもって周りの異教徒どもの国々では、暴動が自国に波及しないように大同盟を組んで戦争開始したらしい。

異教徒どもの国々で異変が起こっているのは大変結構なこと。

我が国がこの異教徒どもの内輪もめに関わる必要などない。

アッラーよ、願わくばこの「フランク人(ヨーロッパ人)の疫病」をさらにさらに蔓延させたまえ。

オスマン家の崇高なる国家は永遠にして、アッラーは偉大なり!!


オスマン帝国知識人たちはおおむね上記のような感想を共有したうえで、敗北の原因分析と改善に取り掛かった。


当時のオスマン皇帝はセリム3世だった。

彼はオスマン帝国の偉い人たちのなかで例外的に「クールな現実」が見えていたようで、

停戦翌年に早くもオーストリアに調査団を派遣して西洋諸国の実情を調査するとともに、
帝国内の「その他の偉い人たち」に改革案を提出させた。


改革案のほとんどはトイレットペーパー程度の価値もない戯言であったが、
有益と思われる共通見解がひとつだけあった。


「イェニチェリはあかん」

237: 2014/07/27(日)22:54:05 ID:x0dRjz4tl
オスマン帝国皇帝親衛隊にして、最強の歩兵軍団イェニチェリ。

だがその軍規はとうに失われ、なにか不満があるとシチューの大鍋をひっくり返して

大通りをデモ行進するだけの無駄飯食らいと化して、すでに長い年月が経っていた。


セリムとしては役にも立たないイェニチェリなど即刻解散したかったのだが、既得権益の壁は大きい。

そこでまず、西洋式の新軍隊を創設することにした。


役所も改革が必要だった。

不満があろうがなかろうが一日中机で昼寝してるだけの無駄飯食らいがいたるところに生息しており、
行政機構はなかば麻痺して久しい。

セリム3世はこれら無駄飯食らいを一掃し(同じ既得権益でも腕力がないので楽だった)、
重要案件はすべて新設の「枢密局」で一括決済することにした。


最後に外交面。

セリム3世はオーストリアへの調査団の成果に満足したのか、欧州各国に大使館の設置を決定。

常駐の外交官たちを異国に派遣し、そこで大いに勉強してくるように命じたのだ。



だが、これらの改革はオスマン帝国人民の99パーセントに不評をもって迎えられた。

なんだって異教徒どもを打ち破るために異教徒どもの悪習を真似して帝国の威厳を損ねるのか。

イエニチェリは当然不満だし、イスラーム法学者も不満だし、民衆も改革費用を賄うためとやらで、タバコだのコーヒーだのが増税されたので大変不満であった。


遠からずこれらの反感が火を噴くのでは。

そんな時限爆弾を抱え込んだイスタンブルを、南からの思わぬ急報が震撼させる。


1798年、フランク人のパシャ(将軍)が異教徒の大軍を率いて、エジプトを襲った。


ナポレオンのエジプト遠征


238: 2014/07/27(日)23:09:17 ID:x0dRjz4tl
いまはむかし、ユーラシア大陸の西半に巨大な翼を広げた「ダール・アル・イスラーム」(イスラーム世界)の中心はアッバース朝の首都バグダードであり、

アッバース朝が衰亡した後は北アフリカのナイル下流に位置するアル・カーヒラ、すなわちカイロに移った。


オスマン帝国が東地中海を制し、マムルーク朝を征服してからはイスラーム世界の諸力の重点は帝都イスタンブルに移行したといえよう。


とはいえ、今なおカイロはイスラーム世界屈指の重要都市であり、エジプトは帝国最大の穀倉だった。

そこに異教徒が侵入した。

13世紀、アイユーブ朝末期にフランス王ルイ9世が率いた「十字軍」が侵攻して以来のこと。

そして今度の異教徒どもを率いるのもフランスの将軍。

その名を「ナポレオン・ボナパルト」という。



フランス革命後期の内乱のなかで次第に頭角を現し、イタリア半島に派遣されてオーストリア軍に連戦連勝、

ついに第一回対仏大同盟を崩壊に追い込んで国民的英雄となったナポレオン将軍は、かねて持論の通りフランス最大の敵国であるイギリスと植民地インドとの連携を絶つべく、エジプト遠征を敢行したのである。


なお、この論のなかでエジプトを現に領有するオスマン帝国の立場はまったく考慮されていないどころか、

イギリスはとにかくオスマン帝国に撃退される可能性などまるで顧慮されていないあたり、もの悲しい。

239: 2014/07/27(日)23:25:30 ID:x0dRjz4tl
とはいっても、実際オスマン帝国はすでに欧州列強から対等扱いされるレベルでなくなっていたのが事実。

知らぬはオスマン人ばかりである。

まして対露戦線から遠く離れたエジプトなど、時代の流れに取り残されて久しい。


エジプトはむろんオスマン帝国の支配下にあったが、実際にエジプトを統治していたのは、
その頃でもまだ昔ながらのマムルークだった。

オスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼしたが、エジプト社会に深く食い込んだマムルークという集団自体を解体したわけではない。


マムルークは世襲ではなく、一代限りの「奴隷軍人」なので、オスマン帝国にエジプトが支配されるようになっても、

すでにマムルークをやっている連中は自分らの後継者として奴隷市場で有能そうな若者を購入しては軍事訓練と教育を施して次世代マムルークとして育成していった。



アレクサンドリア付近に上陸したナポレオンは、さっそくアラビア語で布告を出した。


「諸君に告ぐ! 私は圧制を敷くマムルークからエジプト民衆を解放するために来た。アッラーは偉大なり!」


イスラーム圏を占領しようというなら現地住民の宗教的感情を尊重すべきであろうと、大量の学者を従軍させ、航海中もイスラーム文化の研究を怠らなかったナポレオンである。

こういう発想が出てくるあたり、すでに近代西欧はいろいろと毛色が違う。


マムルークたちは敵軍の実態など何も分からないまま、根拠なき勝利の確信とともに迎撃に出たが、

いわゆる「ピラミッドの戦い」で近代フランス軍の前に完全無欠壊滅致命的大敗北を蒙った。

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ピラミッドの戦い
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わずか3週間でナポレオンはエジプト征服に成功した。


だが、付け焼刃の軍政はさっそく綻びを見せた。

わずか3か月後にはカイロで異教徒支配に対する暴動が発生。


ナポレオンはエジプト統治のために現地知識人を強引にかき集めて「ディーワーン」(評議会)を設置したが、

その一員であった歴史家ジャーバルディーも「異教徒ボナパルト逝ってよし!」と書いている始末である。



エジプト回復のためにオスマン軍が南下を開始。

ナポレオンはシリアに迎撃に出るも、慣れぬ砂漠の戦いに利あらず撤退。

背後ではイギリス艦隊が策動し、本国でも周辺諸国が再度対仏戦争を開始。



「すまんが兵士諸君、祖国が私を必要としているのだ。さらば麗しのオリエントよ」


一夜、ナポレオンは軍のほとんどを現地に放置したままエジプトを脱出した。
ひどすぎるだろ。

240: 2014/07/27(日)23:46:49 ID:x0dRjz4tl
ある朝、目が覚めたら最高指揮官が消えていた。


将兵は唖然として憤然としたが、何はともあれ今日を生き延び明日も生き延び、明後日も生存せねばならぬ。

ナポレオンが残した将軍ドゼーと兵士たちは疫病と暴動に悩まされながら、耐えて耐えて耐えた。

ドゼーは有能だった。

ゲリラ戦を続けるマムルークの首領ムラード・ベイを追跡して上エジプトで降伏させ、

おそらくナポレオンよりも善政を敷いた結果、現地農民たちに「正義のスルタン」という異称を奉られたらしい。

ほんとかね。



しかし2年が限界だった。

フランス軍はイギリスとオスマン帝国に降伏し、あとには混乱したエジプトが残された。



エジプトから不名誉に脱出したナポレオンであるが、彼はやはり世界史上屈指の天才ではあった。

これ以後彼は着々と栄光の階梯をのぼり、全ヨーロッパに覇をとなえる。

二度目の惨憺たる遠征と不名誉な逃走に至るまで。

そして1815年、ベルギー、ワーテルロー。
若き日に南インドのシュリーランガパトナでマイソール王ティプー・スルタンと戦ったウェリントン公アーサー・ウェルズリーが彼の野望に止めを刺すのだが、それはまた別の物語である。



エジプトでは、オスマン帝国中央より派遣された正規軍とアルバニア人からなる非正規部隊、
現地のマムルーク各派が入り乱れて泥沼の内乱を展開した。

その中で最後に勝ち残ったのは、マムルーク各派の内輪もめを煽り、巧みにカイロ市民からの支持を集めたアルバニア非正規部隊の指揮官、「ムハンマド・アリー」だった。

1805年、彼はエジプト総督に就任。こうして新しい時代の主役が登場する。



今夜はここまで。

241: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:04:55 ID:WVaaZ40vE
おつかれ

ナポレオンは混乱とともに厄介なものを帝国内にもたらしたね

242: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:27:31 ID:YuQsZlDoD

この面白さはなんだろう

243: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:32:20 ID:F3nT8YwgH
全盛期のオスマン帝国ってイスラム版アメリカって印象持った
海洋の覇権を握り世界に君臨するアメリカに対し、大陸の覇権により君臨したオスマン
既存の他国と比べ異常に合理的な国家運営システム
雑多な民族の寄り集まり

247: 2014/07/28(月)22:37:50 ID:iq5GEPu2z
>>243
世界帝国は必然的に似たような国制になるんだと思う。
ローマもモンゴルもイギリスも、アメリカと似ている感じがするな。

次:part11 エジプトのムハンマド・アリー