part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征

イェ二チェリの腐敗


248: 2014/07/28(月)22:58:15 ID:iq5GEPu2z
ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任したころ、オスマン帝国本国では、セリム3世の改革に対する不満がますます広がっていた。


セリム3世が新設した西洋式軍隊は「ニザーム・ジェディード」と呼ばれる。

トルコ語で「新制軍」。まあ芸のない命名ではある。

1805年、セリム3世はニザーム・ジェディードを増員するため、バルカン半島各地で兵士を集めることを発表した。

これを聞いて色めき立ったのはバルカン地方のアーヤーン、例の徴税請負人から進化した「ご領主様」たちである。


貴重な領地の人手が訳のわからん新制軍とやらに持ってかれる。

いや、よく考えてみれば皇帝直属の軍が強くなったら、自分たちが抱えている領地も取り上げられちまうんじゃね?

というわけでアーヤーンたちは皇帝を脅迫した。

「陛下、つまらん真似をなさったら我々みんなでイスタンブルに押しかけますぜ」

というわけで、バルカン半島での兵士徴募は中止。皇帝は脅迫に屈した。


この一件で、セリム3世もニザーム・ジェディットも舐められた。

まもなくイスタンブルの郊外で、イェニチェリ兵士がニザーム・ジェディットの将校を殺害する事件が起きる。

腰が引けた皇帝はニザーム・ジェディットに兵舎に引き上げるように命じたが、

ビビるどころか勢いづいたイェニチェリはそのままイスタンブルに進撃開始。こりゃもう反乱である。

セリム3世は完全降伏のていでニザーム・ジェディット解散を宣言したが、今更その程度で事は終わらない。

ここで、イスラーム法学者たちの最高権威である「シェイヒュル・イスラーム」が登場する。

要は最高裁長官みたいなものである。


「皇帝セリムの改革はことごとくイスラーム法に違反する。皇帝は廃位されるべし」


これで決着がついた。

セリム3世は帝位から引きずりおろされ、改革はすべてご破算。

ニザーム・ジェディットは解散し、各国の大使館も閉鎖される。

セリム3世の支持者たちはブルガリアの改革派アーヤーン、「アレムダール・パシャ」のもとに集まり、
皇帝救出のために出陣した。

しかしイェニチェリたちはこれを知ると救出軍が到着する直前に、哀れ廃帝セリムを殺害してしまった。

249: 2014/07/28(月)22:59:57 ID:iq5GEPu2z
うっかりして途中で「ジェディード」が「ジェディット」に変わってしまった。
まあよくあることw

以後「ジェディット」で。

251: 2014/07/28(月)23:17:47 ID:iq5GEPu2z
帝都に入ったアレムダール・パシャたちは、お救い申し上げるつもりだったセリム3世が血の海の中に倒れ伏しているのを発見してガックリきたが、このまま帰っても意味がない。


アレムダール・パシャはイェニチェリたちに擁立されていたムスタファ3世を廃位させ、その弟のマフムトを新帝に擁立した。


皇帝マフムト2世、このとき23歳。


セリム3世を引きずりおろしたムスタファの弟というのはちと気に入らんが、マフムト自身はまだ若くて頭も柔らかいだろうから、今のうちに洗脳じゃなかった教育すればきっとセリム3世の志を継いでくれるであろうよ。

アレムダール・パシャは自ら大宰相に就任し、中断された改革を再開する。

まず、帝国全土のアーヤーンたちにイスタンブル上京を命令。

面倒くさかったのであろう。

命令を無視するアーヤーンも大勢いたが、それでも三分の二ぐらいは上京してきた。

そこでアレムダール・パシャは中央政府の高官たちと地方アーヤーンたちの大会議を開催し、

アーヤーンたちが皇帝と大宰相に忠誠を誓うこと、公正に徴税して中央に送付すること、

そして新しい軍隊への徴兵に協力することを誓約させた。


そこはかとなく西洋諸国が導入しはじめていた議会政治的な気配を漂わせる新機軸である。


だが、セリム3世同様、アレムダールの改革も時代を先取りしすぎていた。

帝国人民の99パーセントは改革なんて反対に決まっているのだ。


わずか4か月後。

アレムダール・パシャが手勢をブルガリアの領地に帰した隙にイェニチェリたちが蜂起した。

乱入するイェニチェリたちに追われた大宰相は火薬庫に逃げ込み、

追いかけてきた何百人ものイェニチェリを道連れに壮絶な自爆を遂げた。



時代の荒波に翻弄される皇帝マフムト2世は何を思うのか。

セリム3世、兄ムスタファ3世、そして自らを帝位につけた大宰相アレムダール・パシャ。

相次ぐ浮沈を間近に見つめていた青年皇帝は、じっと黙して己の心のうちを覗かせなかった。

254: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:26:28 ID:7qrVmZSvy
イェ二チェリの腐敗はちょっとシャレにならんな


エジプトのムハンマド・アリー

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ムハンマド・アリー
photo credit 

256: 2014/07/28(月)23:37:12 ID:iq5GEPu2z
黄昏の19世紀オスマン帝国。帝都イスタンブルには陰謀が渦巻く。

その都を遠く離れたエジプトの地では、総督ムハンマド・アリーが次の時代を切り開こうとしていた。


1805年にエジプト総督に就任したムハンマド・アリーであるが、ナポレオンの侵入以来のエジプトの混乱は
依然収まる気配を見せていない。

1811年。
ムハンマド・アリーはカイロの城塞に有力マムルークたちを多数呼び寄せた。

理由は、こたびイスタンブルより命じられたアラビア遠征につき、次男の遠征軍指揮官就任式を執り行うため。

のうのうとやってきたマムルークたちが城塞の中に入った直後、城門が轟音とともに落とされる。

何事かと訝るマムルークたち。

そのとき、四方の城壁の上に無数の銃兵が姿を現した。

一段高いバルコニーから物憂げに見下ろす総督ムハンマド・アリー。

彼が手を振り下ろした瞬間、銃兵たちが一斉に射撃を開始した。

世にいう「シタデル(城塞)の虐殺」である。


というわけで、シャジャル・ドッル以来600年間エジプトを実質的に支配してきたマムルークの時代は終わった。

やってみたら意外と簡単じゃん。

257: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:43:39 ID:J2ntjlotV
なんでもやってみるもんだな

259: 2014/07/28(月)23:49:51 ID:iq5GEPu2z
ところでイスタンブルから命じられたアラビア遠征の件。

これは別に嘘ではない。この頃、アラビア半島では半島中部の豪族サウード家が急速に勢力を拡大し、
聖都メッカとメディナを落とし、シリアやイラクにまで猛威を及ぼしていたのだ。

メッカを落とされたのは大変なことだった。

オスマン帝国はセリム1世のエジプト征服のときに、ついでにアラビア半島西岸にも支配を確立し、
「二つの聖都の守護者」として全イスラーム世界に対してドヤ顔を続けてきたのだ。

成り上がりのサウード家ごときに聖都を強奪されては帝国の威信に関わる。


マムルークを粛清したムハンマド・アリーは苦戦しつつも聖都メッカとメディナを奪還し、
灼熱のアラビア砂漠心臓部に進撃し、サウード王家を滅ぼした。

帝国のドヤ顔は回復された。

だが、その一方でドヤ顔回復に多大な貢献をしたムハンマド・アリーは日増しに独立色を強めていく。

アレムダール・パシャのアーヤーン召集なんて鼻から無視したことは言うまでもない。



アラビア遠征で苦戦したムハンマド・アリーは軍制改革に着手する。

エジプトは嫌というほど近代西欧軍の威力を理解している。

新制エジプト軍はフランス軍に倣って組織され、海軍の整備も進められた。


だんだんみんな、気づいてくる。

たぶん、オスマン帝国正規軍よりこっちの方が強い。

260: 2014/07/29(火)00:07:25 ID:kX236u1xS
1822年。

オスマン帝国領ギリシアで独立運動が起こった。

帝国はエジプト総督ムハンマド・アリーに鎮圧のための出兵を命じた。

自分の抱える新軍隊の価値が分かっているムハンマド・アリーは、この機会を最大限に利用しようとした。


出兵を散々渋り、とうとうイスタンブルから「兵を出してくれればシリア総督に任命する」という言質を引き出してようやく出動。

その一方で、ギリシアを支援するイギリスに勝手に接触し、こんなことを囁いた。


「わしもそろそろ腐れたイスタンブルとは手を切りたいと思っとるんじゃ。
 協力してくれるならギリシア攻めは手抜きしてもよいぞよ」


実際手抜きをし始めたムハンマド・アリー。

打つ手がないイスタンブルは、とうとうオスマン帝国軍の全指揮権をムハンマド・アリーに委任する。


イギリスは喰えないエジプト総督の言うことなど信用していなかった。

フランス、ロシアの海軍と合流し、オスマン帝国・エジプト海軍を迎撃。


いかに軍制改革を進めたエジプト海軍とて、モノホンの近代西欧軍と正面から当たって勝てるわけはなかった。

1827年10月、ナヴァリノの海戦でエジプト海軍は壊滅した。

261: 2014/07/29(火)00:33:46 ID:kX236u1xS
「あのブタ頭の皇帝マフムトと、頓馬な宰相が戦争を滅茶苦茶にしおって!」

ムハンマド・アリーは逆切れしつつオスマン帝国にシリア総督任命を催促した。

「勝とうが負けようが、出兵したらわしをシリア総督にしてくれるんじゃろ」

イスタンブルは却下した。


ここをもってエジプト総督は公然とオスマン帝国に叛旗を翻し、反故にされた約束を実力で実現させるべくシリア侵攻を開始した。1831年のことである。


中近東にあってエジプト軍はやはり強かった。

たちまちシリアを制圧し、北上してオスマン帝国本国たるアナトリアに侵攻。

帝都イスタンブル攻略も目前となった。


オスマン帝国、ついに滅亡か。

異なる時代であれば、ムハンマド・アリーはここで新たな帝国の建設者になっていただろう。


しかし、時はすでにそれを許さなかった。

ムハンマド・アリーは諸国の均衡を崩した。この局面に至って西欧列強が介入を開始した。

英仏がオスマン帝国とエジプトの講和を強制し、以後、この危険なエジプトの君主への監視を強める。

262: 2014/07/29(火)00:34:19 ID:kX236u1xS
イギリスはムハンマド・アリーを掣肘するためにイエメンのアデンを占領し、交易の利権を奪った。

アラビア半島以東への勢力拡大を断固阻止した。

シリアの軍政改革を妨害し、宗教反乱を煽動した。

1838年、再びオスマン帝国とエジプトの間に戦端が開かれ、ムハンマド・アリーはついに帝国からの独立を宣言した。

エジプトはオスマン帝国軍を次々に破り、オスマン海軍はすべてエジプトに降伏した。

だが、ここでついに列強が介入する。


イギリスを中心とする西欧諸国はまずオスマン帝国に対して、列強の承認なしにエジプトに対して一切の妥協をすることを「禁じた」。

もはやオスマン帝国は自由な外交をする力すら失っていた。


そしてエジプトへ。
列強とオスマン帝国の連合軍はシリアに上陸し、圧倒的な力でもって沿岸の諸都市を次々に再占領していった。

梟雄ムハンマド・アリーの眼前で、彼がこれまでに積み上げてきたものはすべて失われようとしていた。


1841年。
エジプトは降伏した。

エジプトとスーダンの総督世襲こそ認められたものの、軍備は大幅に縮小され、高官の人事権を奪われ、
専売制は廃止され、関税自主権も奪われ、治外法権を強制された。


衰退するオスマン帝国に代わって新たな時代を切り開こうとした梟雄は、こうして挫折した。

イスラーム世界の歴史はもはや固有のリズムを刻む力を失った。

圧倒的な外力によって帝国の交代は中途で強制停止され、覇者になりえた者は屈服を強いられたのだった。



今夜はここまで。

264: 2014/07/29(火)00:40:30 ID:kX236u1xS
中世近世のほうがタイムスパンとしては長いのに、近代のほうが書く内容が細かくなるという謎。

265: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)00:47:57 ID:kn03mziOX
おつかれ

ほんとに無理矢理延命させられてる感じだな、オスマン帝国

268: 2014/07/29(火)22:05:14 ID:OFl5C8ll0
>>265
オスマン帝国はムハンマド・アリーの北上で滅亡してもおかしくなかったし、
東の清も太平天国の乱かアロー戦争で滅亡してもおかしくなかったはず。
近代ヨーロッパの覇権はユーラシア大陸の歴史法則すら捻じ曲げる。

266: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)01:16:29 ID:jej2HXHqR

キリスト教っつうか西欧人はろくでもないな
やりたい放題かww

268: 2014/07/29(火)22:05:14 ID:OFl5C8ll0
>>266
彼らも彼らで自分たちの社会の中にいろいろ問題を抱えていたから
何としても自分たちにとっての平和と繁栄を維持したかったんだろうね。
そのこと自体を非難するいわれはないけど、非ヨーロッパ世界を対等な他者として見る認識が
まるでなかったことがイカンのだろね。

近代ヨーロッパ人にとって非ヨーロッパ世界は野蛮かエキゾチックかの両極端でしかなかったようで。
このへん突っ込みだすとエドワード・サイードのオリエンタリズム論がどうこうとかって話になるな。

252: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:19:39 ID:cqkzQoGt0
イスラムじゃなくてイスラームなの?、

253: 2014/07/28(月)23:21:28 ID:iq5GEPu2z
>>252
アラビア語の発音的にはその方が正しいんで、最近はそう表記することが多いよ。
アラビア語は長母音と短母音を区別するから、どっちでも同じってもんではない。
次:part12 【オスマン帝国の改革とイスラームの危機】