part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー

オスマン帝国の改革


MahmutII
マフムト2世
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269: 2014/07/29(火)22:40:50 ID:OFl5C8ll0
マムルークたちが姿を消したので、イェニチェリたちにもそろそろご退場願おう。


少し時代を巻き戻す。


アレムダール・パシャに擁立されたオスマン帝国皇帝マフムト2世は、アレムダールが倒れた直後

実の兄である廃帝ムスタファの命を絶った。

非情で非道な措置だったが、これによってオスマン家の帝位継承権者は皇帝マフムトただ一人となる。

オスマン帝国の存続を前提とする限り、誰もマフムトを殺せない。

この手を打ったうえで、彼はひたすら雌伏した。



マフムト2世は聡明だった。

セリム3世は正しい。帝国は衰えつつあり、否応なしに西方の異教徒たちの流儀を取り入れる以外、もはやこの帝国を守る方法はない。


巧妙に巧妙に、マフムトは一人思案をめぐらし人事を操り、宮廷の要職を徐々に改革派で固めていった。

目立たないところから少しずつ、軍の近代化を進め始めた。

そしてアーヤーンたちを討伐。

地方で気ままに振る舞う領主たちの土地を没収し、再び国庫に組み込む。

こうして機は次第に熟していく。

270: 2014/07/29(火)22:42:48 ID:OFl5C8ll0
雌伏18年、1826年春。

マフムト2世は剣を抜いた。新制軍の設立を宣言したのである。


セリムの改革再びというわけか。

イェニチェリたちはまたしても蜂起したが、20年近くも前からこの日のために あらゆるところに手をまわしてきたマフムト2世の敵ではなかった。


6月14日。

マフムトは長年鍛えてきた砲兵隊に動員をかけ、全イェニチェリの殲滅を命じた。

帝都イスタンブルで激烈な市街戦が展開され、翌日に至ってイェニチェリ軍団はついに壊滅した。



そして6月16日。

マフムト2世は宣言通り、「ムハンマド常勝軍」なる新制軍の設立を宣言した。

イェニチェリを打倒して勢いづいた皇帝は、それまでとは別人のように次々と命令を下す。

大宰相は総理大臣、御前会議は閣議、シェイヒュル・イスラームは宗教長官に改名する。

大学を創設せよ。大使館を再開せよ。郵便制度を創設せよ。文官武官は西洋服を取り入れよ。


この日この時から、オスマン帝国は怒涛のような「近代化」を開始した。

依然として不満が渦を巻くとはいえ、マフムト2世という強力な専制君主のもと、帝国の改革はもはや止まらない。

いや、皇帝マフムトの死後もその後継者たちによって近代化はさらに推進される。

ギュルハネ勅令、タンジマート改革、ミドハド憲法。

それは滅びゆく帝国の最後の賭け、最後の足掻き、最後の苦闘となるだろう。


ナショナリズムという疫病


271: 2014/07/29(火)23:00:38 ID:OFl5C8ll0
だが、時はすでに遅きに失した。

帝国は西方から来た姿なき猛毒に深く蝕まれつつあった。



かつてフランス革命が勃発したとき、オスマン帝国の支配者たちははるか西国の異教徒たちの王を殺し闇雲な対外戦争を繰り広げる狂熱を「フランク人の疫病」と呼んだものだった。


ところがいつしかその「疫病」はヨーロッパのいたるところに蔓延し、ついに帝国をも冒しはじめた。


オスマン帝国は前近代のすべての帝国と同じように、多民族と他宗教が当たり前のように共存する国家だった。

ムスリムを中心としつつも、異教徒にも相応の権利が与えられ、その信仰と自治が尊重されていた。

帝国の中枢には多様な出自の人々が参画し、対等な立場で国家を運営していた。

ところが、そんな旧来の心温まる社会は急速に崩れ始める。



すべてはこの「疫病」のせいだった。



疫病を運んできたのは、帝国から見れば実に迷惑なロマンチスト野郎たちだった。

多民族の世界帝国、オスマン。

この国は深く思い知るだろう。

ロマンチックは敵だと。

273: 2014/07/29(火)23:33:07 ID:OFl5C8ll0
第一のロマンチストは「アレクサンドル・イプシランディ」。

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アレクサンドル・イプシランディ
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こいつは北からやってきた。

思えば帝国の厄介ごとは昔から北から来ることが多かった。最近は西から来ることも多いけど。


1821年。

ロシア国境から白馬に乗って颯爽と姿を現したイプシランディは、そこらじゅうにチラシをばら撒いた。

「ギリシア人よ思い出せ、諸君の誇りと信仰を思い出せ。圧制を続ける帝国に反逆の狼煙をあげよ・・・」


その頃、混乱を続ける帝国にうんざりしていたバルカン半島のギリシア正教徒たちは、いつかどっかからイケメンで有能な王様が現れて世の中を良くしてくんねえかなあ、などと日々妄想していた。

イプシランディはさほどイケメンでも有能でもなかったが、一部正教徒には彼こそが明日の希望に見えたらしい。


「そういえばここ何百年か忘れてたけど、俺らもともと正教徒で、昔は東ローマ帝国っていう
 立派な国も持っていたような気がするんだが」

ギリシア独立戦争、勃発。



第二のロマンチストは「ジョージ・ゴードン・バイロン」。

こいつは海の向こうからやって来た。

こいつは本職の詩人であった。それも大変な天才詩人であった。


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ジョージ・ゴードン・バイロン
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天才詩人は1824年、ギリシア独立戦争に義勇軍として参戦した。

なにゆえかといえば、詩人は古代ギリシアおたくであった。

古代ギリシアと現ギリシアはビフォーアフター的別存在であるのだが、詩人はあまり気にしなかった。

詩人が熱情的にギリシア独立運動を歌い上げたので、ヨーロッパからわんさか義勇軍がやってきた。


この後の経緯についてはすでに語っている通り。

西欧列強がギリシア支援にまわり、オスマン帝国はまたしても国土ダイエットに成功するのだ。

274: 2014/07/29(火)23:36:13 ID:OFl5C8ll0
疫病は「ナショナリズム」と呼ばれる。

この疫病にかかった者は多民族ごちゃまぜの帝国を整理整頓して 自分と親戚とそのまた親戚だけから成る独立国を建設することを人生の使命だと確信するようになる。


オスマン帝国にとってこれほど相性の悪い疫病はなかった。

そもそもオスマン帝国には中心になる民族がない。トルコ人がオスマン国家を動かしていたのははるか建国の昔。

いまでは皇帝も大宰相も血が混ざりすぎてどの民族だかよくわからんし、政府の高官も軍の将兵も同じこと。


帝国各地で次から次に民族国家が生まれていけば、帝国中枢から串の歯が抜けるように人が消えていくだろう。

最後に誰が残るのか。

誰も残らないのか。やがて帝国は融けてしまうのではないか。

その答えが分かるまで残るは半世紀余り。


ロマンチストたちの時代は始まったばかりだった。

これから後、多くのロマンチストたちがオスマン帝国各地で歌って踊って剣を取り、いずれ彼らの中でも最大級の威力を誇るエンヴェル・パシャだのトーマス・ロレンスだのによって帝国は完全にぶっ壊されることになるだろう。


イスラームへの疑問


288: 2014/07/31(木)20:43:58 ID:7HOUPYN3c
19世紀の三分の一が過ぎようとする頃、西欧主導による世界の一体化はますます速度を速めつつある。

この時代を生きる多くの者には、その全貌こそ把握できてはいなかったが、地域を問わずイスラーム世界が 未曾有の危機にあるという認識は広く共有されていた。


その危機というのは、単なる政治や経済のレベルだけの問題ではない。


預言者ムハンマド(またはその後ろにいるアッラーと天使ジブリール)はガチで有能だったので、教団がどんな問題に直面してもその都度見事な解決策を啓示して見せた。


その後イスラーム世界がアラビアの砂漠を越えて広大な世界に広がると、さすがに想定外の難問が次々に登場するが、

そこは賢明なイスラーム法学者の皆さんが、預言者の言行と初期の信者たちの言行記録と首っ引きで
縦横無尽な類推解釈や拡大解釈の限りを尽くして、

およそどこの土地でも人間が直面する大抵の問題はイスラームという宗教の枠の中で対応できる仕組みを作り上げた。


その結果、イスラームは単なる宗教の枠を超えて、政治・経済・司法・軍事・科学・芸術など社会のありとあらゆる規範の中心になった。

その規範でもってイスラームはユーラシア大陸の半分を覆うほどに広がった。

こんだけ凄いことになるんだからイスラームは真理なんだろうと、みんな思っていたわけだ。


ところが、近頃は雲行きがなんだか怪しい。

メッカに集まる巡礼たちの誰に聞いても、広大なイスラーム世界のいたるところは危機にあり、西欧の異教徒どもが次々に勝利を収めつつあるようだ。


要するにさ。


イスラームってオワコンなんじゃね?

という疑惑が浮上しはじめたのである。

289: 2014/07/31(木)21:00:30 ID:7HOUPYN3c
一方、「イスラームはオワコンじゃないよ、おまえがオワコンなんだよ」派も登場した。

彼らによると、現状の危機は「真の教え」がないがしろにされ、ムスリムたちが堕落したためであり、

預言者ムハンマドや正統カリフたちの時代の正しいイスラームを復興することができれば

異教徒どもなどチリ紙のように飛んでいくであろうというのである。


たとえばスーフィズムってのはなんだ。

コーランのどこを読んでも、クルクル回転しまくって恍惚状態になれとか、怪しい煙を吸えとか、いわんや空中浮揚する方法とか一言も書いてないではないか。


それどころかスーフィー信者どもは「聖者崇拝」とか称して修行者たちの墓に巡礼したりしているが
おまえら、イスラームが一神教だっていう大前提忘れてんのか。

こんだけ堕落しまくってれば、そりゃ神の怒りと試練が下るのも当然だろと。

スーフィズム以前にシーア派だっておかしい。

アリーだのフサインだのとその子孫たちをやたらに持ち上げて、同じように巡礼だのなんだのやってるし、

「アリーの子孫は絶対正義」とか「アリーの子孫が世の中治めるべき」とか、それ偶像崇拝とちゃうんかと。


もっといえば、預言者ムハンマドはただの人間なんだから、ムハンマドを崇敬するのだっていかんだろと。


この頃からのイスラーム世界では、この「イスラームはオワコン派」と「イスラームはオワコンじゃないよ派」、

そして両派の中間のどっかに答えがあるだろうと考える中道派の激しい議論と対立が展開される。

そしてその対立は今なお収まる気配がまったくない。


「イスラームはオワコンじゃないよ派」は、まだ西欧列強の拡大が本格化していない18世紀にすでに激しく盛り上がり、イスラームの原点復帰を唱えて各地で荒れ狂っていた。


そのなかで最も派手で影響力も凄まじかったのが、アラビア半島のワッハーブ派だった。

290: 2014/07/31(木)21:20:56 ID:7HOUPYN3c
アラビア半島というのはイスラーム発祥の地だが、なにぶんにもほとんど砂しかない。

砂の下に膨大な地下水層と莫大な黒くて粘っこい代物が埋まっていることが発覚したのはつい最近だ。

そういうわけで、預言者死去から百年も経たないうちにアラビアは元通りの辺境モードに回帰した。


それから幾百年。

中東に興亡した諸大国はアラビア半島西岸のメッカとメディナを押さえることは相当重視したし、

沿岸のイエメンやオマーンにはそれなりの中小国家も栄えたが、

半島中央の砂漠では、ベドウィン族がラクダと剣を友として、彼ら以外の誰にも興味のない戦いの歳月を過ごしていた。


そんななか、1703年にアラビア半島のど真ん中で「アブドゥル・ワッハーブ」なる人物が誕生した。

その頃、アラビアの砂漠では例のごとく聖者崇拝や、聖木の崇拝が盛んだった。


聖木崇拝というのはイスラーム以前のアラビアにもあったらしい。

砂しかない世界のなかで樹木はオアシスの象徴だから、拝みたくなるのも人情であろう。

だが、アブドゥル・ワッハーブは違った。

彼は何故かは知らないが、断固として「イスラームは一神教だ!」と演説してまわり、近所一帯から総スカンを食らって旅に出た。

旅に出たワッハーブは各地で宗教学を学んだ結果、さらに頑固に、じゃなかった堅固な理論家となって帰国。

弟子たちを集めて聖木を切り倒し、聖者廟を打ちこわしてまわった。

当然彼は周りに敵視され、ついには命すら狙われるようになる。

あれ、どこかで見たような展開。

291: 名無しさん@おーぷん 2014/07/31(木)21:26:39 ID:fPg8zHWpH
そこまで復古するかw

292: 2014/07/31(木)21:27:44 ID:7HOUPYN3c
王道パターンというべきか。

捨てる神あれば拾う神ありで(なんていう比喩表現をワッハーブが聞いたら激怒するだろう)

1744年にワッハーブは庇護者を得た。


それはアラビア砂漠で最も強大なベドウィン族長、ディルイーヤを治めるサウード家の当主、アブドゥッラー。

二人は盟約を結んだ。

ワッハーブは正しき教えを説き、サウード家はそれを守護する。

アブドゥッラー、そしてその後継者であるアブドゥルアズィーズは、ワッハーブの説く「正しき教え」のもと砂漠の王としての権威を獲得し、アラビア半島全土に支配を拡大していった。


あれ、やっぱりどっかで見たような展開。



だが、時代が違う。

サウード王家の覇権はすでに解説した通り、ムハンマド・アリーに潰される。


だが、ワッハーブの思想は残った。

ワッハーブ本人がいかに周囲に迫害されようと、イスラーム世界全体を見れば時代がそれを求めていたのだろう。

ワッハーブの思想はイスラーム世界に広く伝わり、「イスラームはオワコンじゃないよ派」もとい
「イスラーム復興運動」の種子となる。


ちなみに滅び去ったサウード王家の子孫も砂漠のどっかで生き残り、やがて王国の復興に成功するのだが、それはもう少し後の時代のこと。

293: 2014/07/31(木)21:49:15 ID:7HOUPYN3c
同じ頃、はるか西アフリカでも同じような動きがあった。


アフリカ大陸の北部はほとんどサハラ砂漠に覆われ、北の地中海沿岸と、南のいわゆる「ブラックアフリカ」を隔てているが

サハラ砂漠南縁には「サヘル」と呼ばれる草原地帯が東西に延びている。

サヘルとは「岸辺」を意味するアラビア語に由来する。砂の大海の岸辺というわけだ。


サヘル西部にはニジェール川という大河が流れており、流域には豊かな金鉱山と岩塩鉱が点在するので、
古くから諸王国が栄え、サハラ砂漠の北から訪れる交易商人たちの影響で次第にイスラーム化していった。

主なものとしては、いつからあったのかよくわからないガーナ帝国、

呪術に長けたマリンケ族の英雄スンジャータ・ケイタが建てたマリ帝国、

そしてやっぱり呪術に長けたスンニ・アリ・ベルが確立したソンガイ帝国。


やたら呪術が頻出するあたり、この地域のイスラーム化のレベルが知れるというものではある。


相次いで興亡した三つの帝国はいずれもニジェール流域を中心に、サヘルの西部を広く支配した。

ところが、1591年にサハラの北側からモロッコ軍が攻め込んできた。


彼らは無謀なサハラ越えで軍のほとんどを失っていたが、この地域では初登場となる火縄銃を携えていたので

ソンガイ帝国は簡単に滅ぼされ、その後の西アフリカは群雄割拠の状態となっていた。


イスラームはそれまでのような国家の庇護を失うが、それはかえってイスラームの拡大につながった。

ムスリム商人たちは大胆にサヘルの東西を往来し、南の密林の奥深く、ベニンやイフェの諸都市にまで旅し、行く先々の民衆にイスラームを伝えて回ったのだ。

やたら呪術っぽいイスラームではあるが。


そんな状況のなかで、ワッハーブより少し遅れて「ウスマン・ダン・フォディオ」という聖戦士が登場する。

294: 2014/07/31(木)22:05:43 ID:7HOUPYN3c
ウスマン・ダン・フォディオは牛を追って各地を旅するフルベ人のスーフィーだった。

ただしクルクル回転したり空中浮揚したりはせず、禁欲的な修行に打ち込み、コーランをじっくりと研究して人々に講義するスーフィーだった。

スーフィズムといってもいろいろあるので、こういうのならワッハーブもきっと満足することだろう。


ウスマンは各地の王たちがムスリムを自称するわりに、やたら異教的な統治を続けていることを批判し、
ついでにフルベ人に課せられている重税の軽減も主張した。

なにしろ説教がうまかったようで、次第に彼の支持者が増え、1804年には信徒たちから「カリフ」に推される。

こんなイスラーム世界の辺境でカリフなどと自称してもという気はするが、

アッバース朝の滅亡以来、イスラーム世界に誰もが公認するカリフはいないので、文句を言われる筋合いはない。


ウスマンは長年「言葉の聖戦」と称して諸国の支配者や民衆にイスラームを説いていたが、世の中は一向に変わらない。

カリフとなった頃、ウスマンはある夜、夢のなかで聖者に「真理の剣」なるものを授けられる夢を見た。

目覚めたウスマンは「言葉の聖戦はオワコン、これからは剣の聖戦」と宣言。

たちまちのうちにニジェール流域からカメルーンにまで達する大帝国、「ソコト帝国」を築くことになった。

これを「ソコトの聖戦」という。

295: 2014/07/31(木)22:16:39 ID:7HOUPYN3c
「ソコトの聖戦」がきっかけになったのか、その後の西アフリカでは津々浦々までイスラームが浸透し
禁欲系スーフィー教団が「聖戦」によってイスラーム国家を建設することが大ブームとなる。

1810年代にはニジェール中流でシェイク・アマドゥの聖戦。

1830年代からはエル・ハジ・オマールの聖戦。

彼はサヘル最西端のセネガルから出発したが、しょっぱなでフランスにぶち当たったので東に方向転換し、サヘルの西半分を統一した。

1850年代にはウマール・タルの聖戦。

そして最後に「黒いナポレオン」と呼ばれるサモリ・トゥーレが西部サヘルを席巻する。

戦争の連続と奴隷狩りの横行によって西アフリカは深く疲弊し、結局イギリスとフランスにすべて征服されることになるのだが、

この頃の西アフリカである種のイスラーム復興運動が非常に盛り上がったことは間違いない。

296: 2014/07/31(木)22:28:15 ID:7HOUPYN3c
このサヘルを東へ東へと進んでいくと、やがてワニがうようよ昼寝している絶望の大湿地帯と、大湿地帯の北側に延々広がる砂埃と赤土だらけの不毛の砂漠にたどり着く。

スーダンなう。現在スーダンと呼ばれている地域である。

ここは古代エジプト文明の頃にはヌビアという王国が栄え、その後はエチオピアの影響を受けたり
マムルーク朝の影響を受けたりしながらなんとなくイスラーム化していったのだが、
19世紀に入ると北のエジプトに登場したムハンマド・アリー朝に征服される。


ワニと赤土のスーダンはどこからどう見ても不毛の地なので、おそらくムハンマド・アリーは
単なる軍事訓練の延長程度のつもりでスーダンを征服したのであろう。

とはいえスーダンの砂漠にも誇り高い遊牧民たちが若干暮らしているので、彼らは北からの征服者たちに抵抗を繰り広げた。


やがてその中から「救世主」を名乗ってエジプト、さらにはイギリスをも打ち破る人物が現れるのだが、
これはただの予告編。

297: 2014/07/31(木)23:10:57 ID:7HOUPYN3c
イスラーム世界の東側ではロシア帝国がいよいよ中央ユーラシアに本格的に踏み込もうとしていた。


ジュチ・ウルス解体後、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国などは相次いでロシアに吸い込まれたが

ヴォルガ川より東の広大な草原には「カザフ・ハン国」が栄え、その向こうにある中央アジアのオアシス地帯ではカザフ・ハン国と同族ながら喧嘩別れしたシャイバーニー朝が繁栄していた。

ロシアは本格的な草原に踏み込んでいくのにはためらいがあったので、長いあいだ北から草原をチラチラ眺めているだけだった。



だが、転機が来る。

1723年、はるか東方から仏教徒であるジュンガル族が大侵攻してきたのだ。

カザフの遊牧民たちは慌てふためいて、もうひとつの異教国家であるロシアの助けを求めた。

これ以後、ロシアは徐々に内陸アジアへの南下を開始する。


東に目を向けたロシアは、19世紀に入るとオスマン帝国のみならずペルシアや中央アジア、そして極東にいたる全国境から本格的な南下政策を開始する。

一方、大陸の南岸ではイギリスがロシアの南進に対する警戒を強め、迎撃のために北進する。

「グレート・ゲーム」と呼ばれるこの抗争は、東方イスラーム世界の諸民族が異教徒の帝国に徐々に飲み込まれていく物語でもある。



どうもまとまりがないけど、今夜はここまでで。

299: 名無しさん@おーぷん 2014/07/31(木)23:19:17 ID:J1pJ0SwsZ
おつかれ

「聖戦士」とか「救世主」とか聞くと、なんかソワソワする

272: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)23:16:04 ID:puOVy4XeD
>ムスリムを中心としつつも異教徒にも相応の権利が与えられ、その信仰と自治が尊重されていた

今の日本って宗教的にはどうなんだろ?
寛容なのか、排他的なのか、無関心なのか

275: 2014/07/29(火)23:37:44 ID:OFl5C8ll0
>>272
どれも正しいけど、いちばんは無関心じゃないかな
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