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ビルマの侵攻により廃墟と化したアユタヤ市街
photo credit 

1: 世界@名無史さん 02/05/25 18:51
なかったのでたてました。

6: 世界@名無史さん 02/05/26 21:23
アユタヤー王国について知りたいのでageてみます。

7: 世界@名無史さん 02/05/26 21:29
数百年間、膠着状態にあった戦線に異常発生!

諸王の王を名乗るアンコール朝を属国化し、我が世の春を謳歌していたアユタヤ朝に、 ビルマ軍が侵攻する!

皆殺しにされるアユタヤ王家、徹底的に破壊される王都アユタヤとともに、シャムは まさにビルマの支配下に入ろうとしていた。

しかし、ビルマ軍によるアユタヤ殲滅のさなか、ただ1人シャム軍の一隊を率いて難 を逃れた将軍がいた。

その将軍の名は、タークシン。

当時まだ街の様相をなしていなかったバンコクに転進したタークシンは、機を図ってビルマ軍が占領するアユタヤに奇襲攻撃をしかけた!

9: 世界@名無史さん 02/05/26 22:03
タークシンの奇襲は成功!

アユタヤ殲滅によって油断していたビルマ軍は総崩れとなって、国境まで退却を余儀なくされた。

凱旋将軍としてアユタヤに入場したタークシン将軍だったが、彼はそこで愕然とした。

東洋のロンドンとも歌われた都アユタヤは、ビルマ軍によって完全に破壊し尽くされていたのだ。

焼かれた王宮、崩された仏塔、首を切り落とされた仏像群・・・。

"アユタヤは終わった・・・"

崩壊したアユタヤはもはや対ビルマ軍の拠点として機能しないと判断したタークシン将軍は、アユタヤを捨て、バンコクへ戻り、かの地をあらたなるシャムの本拠地とすることにした。


しかし、国境に退却したビルマ軍は、シャム国内への再侵攻の機会を常にさぐっているのだった・・・

10: 世界@名無史さん 02/05/26 22:22
現在のバンコク、トンブリー地区を拠点としたタークシンは、アユタヤ王家が断然したこともあり、部下たちの圧倒的な支持のもとに王に即位した。


これが世に言う、タークシン朝である。

一度退却したビルマ軍は、その後何度も国境を越えてシャム国内に侵入した。

しかし、タイ史上最高の軍事的天才と後に賞賛されることとなるタークシンは、巧みな用兵で もはやビルマ軍を王都に近づけることはなかった。

何度目かの国境侵犯以降、ビルマ軍はシャムへの進軍を止めるようになった。

度々の進軍が王朝の財政を疲弊させたためだろう。

ビルマ軍を退けたタークシンは、チャオプラヤ側のトンブリー側に、ワット・アルン、即ち暁の寺を建立した。

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暁に浮かぶワット・アルン
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朝焼けの光を浴び、白く輝くワット・ワルンの仏塔を眺めることで、シャム人たちも、国が再び安定期に入ろうとしていることを悟っただろう。

滅亡の淵から、タイ人独立国家を守ったタークシンを、人々は大王と呼ぶようになった。

タークシンがそのまま"正常に"国王として君臨していれば、彼はタイ史上最高の名君と称えられたことだろう。

しかし、歴史は彼に皮肉な最期を用意したのだった・・・


(管理人注)ワット・アルンに関して、タークシンは創建ではなく修復したようです。

11: 世界@名無史さん 02/05/26 22:23
アユタヤってそれで、木にとりこまれている仏像とかあるんだ。
なるほど。

12: 世界@名無史さん 02/05/26 22:47
皮肉なことに、タークシン大王は、混血児であった。

タイ人の独立を守った英雄タークシンであったが、彼の支持層は、華僑とイスラム教商人であった。

彼は自分を支持してくれた、多くの華僑やイスラム教徒たちを宮廷官僚として招聘した。


このことは、アユタヤ朝以来の伝統あるタイ人貴族たちの反発を呼んだという。

ここからは、タイ史の闇に属することになる。


タイ人貴族たちからの反発を受けるようになったタークシン大王は、突如"乱心"を起こしたという。

出家の身でもないのに、
「私は、阿羅漢(悟りを開いた人)の前段階まで達した」
と大言壮語し、国内の高僧を王宮に集め、
「私に例をつくせ!」
と命令したと伝えられている。

タイ人は仏教を厚く信仰している。

たとえ国王であろうとも、高僧に礼を尽くさせることは認められない。

ある高僧が王命を拒否したことを契機に、タークシンは集めた高僧5000人を鞭打ちの刑に処したと
いう。


タークシン王の右腕であったプッタヨートファチュラーロークがクーデターを起こしたのは、この時だった。

彼は、タークシン王を幽閉した後、「乱心」を理由に彼を処刑、自らが王位についた。

彼こそが、今日ラーマ1世と言われる、現タイ王朝であるチャクリー朝の創始者である。

ラーマ1世即位の後、王朝は純タイ色を強めたという・・・

希代の英雄タークシンは、「乱心」を理由に部下に処刑されて、その生涯を終えた。

しかし、彼は本当に乱心したのだろうか?

タークシンの乱心、それは、混血児を王としていただくことを拒否した純タイ人有力者たちの謀略でなかったかという気もしてくる。

しかし、真相は闇の中だ。


今日、タイには王室不敬罪が存在し、王室を批判することは禁止されている。

13: 世界@名無史さん 02/05/26 22:50
中国とタイの混血?

62: 世界@名無史さん 02/05/30 00:08
>>13
>中国とタイの混血?

タークシンは、父親が中国系で、母親がタイ人だったって。

対ビルマのタイ解放戦争の軍資金は、華僑ネットワークから来ていたものらしい

16: 世界@名無史さん 02/05/26 23:00
【訂正】

タークシンがバンコクを拠点にした時、すでにバンコクは要塞でした。

しかも既にビルマ軍に占領されていて、タークシンはそれを手持ちの軍で奪回したらしい。


17: 世界@名無史さん 02/05/26 23:03
タイの歴史を振り返る時、その出発点をどこにするか迷う。

タイの大地の歴史から始めるのか、それとも現在のタイを支配しているタイ人から始めるのか。


1.タイ、その大地

ここではまずタイの大地から始めよう。

タイの大地は、インドシナ半島のうち、チャオプラヤ川の流域を中心とした大平原地帯だ。

国土自体をチャオプラヤ川が作ったデルタだと考えることも出来る。

チャオプヤラ川は、インドシナ半島の付け根にに源流を持ち、南シナ海に注ぐ、メコン川、イワラジ川に次ぐ、東南アジアの大河だ。

タイ人の歴史は、このチャオプヤラ川の流れる順路にそって南下していく歴史であったとも言える。

18: 世界@名無史さん 02/05/26 23:04
2.タイ人以前のタイの歴史(1)

ついで、タイ人以前のタイの歴史について説明することにしよう。

注意しなければならないのは、9世紀ぐらいになるまで、現在のタイにタイ人がいなかったことだ。

タイ人は元来中国南部に住んでいた少数民族であり、9世紀までのタイの国土の歴史はタイ人以外の民族によって営まれた。

チャオプラヤ川の地域に文化と呼べるものが生まれたのは、紀元前1000年頃である。

『ドンソン文化』と呼ばれる稲作・青銅器文明だ。このドンソン文化が中国文化、インド文化の影響を受けて成立したのが各東南アジア文明だとされている。


最初に出来た王朝らしきものは、ドラーババティー朝である。

6世紀~10世紀にかけてチャオプラヤ川流域に栄えた、民族的にはクメール人に非常に近いモン人による仏教国であった。


遺跡と呼べるものは今日のタイにはほとんど残されていないが、極めて美しい造詣の仏像群は残されており、タイ各地の美術館で見ることが出来る。

私自身は、バンコクのワット・プラケオ内の博物館でドラーババティー時代の仏像を目にしたが、ガン
ダーラ時代の仏像に近い、ギリシア彫刻のごとき造形美を見て取り、感嘆せずにはいられなかった。

中国文献には、『堕羅鉢底』として紹介されている。

19: 世界@名無史さん 02/05/26 23:06
3.タイ人以前のタイの歴史(2)

ドラーババティー朝が衰退を向かえる10世紀、東の隣国カンボジアではクメール王国が全盛期を迎えていた。

クメール人たちは元来チャオプラヤ川でなくさらに東のインドシナ半島一の大河メコン川流域を版図としていたが、

この時代には勢力を拡大し、ドラーババティー朝と入れ替わるようにして、チャオプラヤ川流域に勢力を拡大していった。

そして12世紀には、メコン川ーチャオプラヤ川両流域からマレー半島までの大版図を獲得するに至るのだった。


そして、現在のタイの支配者タイ人たちが中国雲南省から南下を始めたのは、このクメール全盛期であった。

21: 世界@名無史さん 02/05/26 23:11
4.タイ人を支配した民族クメール人の歴史(1)

チャオプラヤ川流域のクメール化とそこへのタイ人の南下。

その動きを見る前に、タイ人の文化に大きな影響を与えたクメール人たちの歴史を整理したい。

現在は没落し国家の体をなしていないカンボジアのクメール民族であるが、1世紀~15世紀までの1500年の長きに渡り、東南アジアで圧倒的な存在でありつづけたことを知らなければ、その後のタイ人の王朝スコータイやアユタヤの理解は浅くなる。

クメール人の最も古い記録は1世紀まで遡る。

これは東南アジアでは随一の古さである。

中国文献の中で、南海の交易国として記載されている扶南である。

場所は、インドシナ半島第一の大河メコン川の下流域であった。

この地域はインドからの文物を中国に中継する際の交通の要所であり、特にインドからの影響を強く受け、当時から仏教やヒンドゥー教の影響を強く受けていた。

ローマ帝国五賢帝の一人、マルクス=アウレリウス=アントニヌス時代のローマ金貨が扶南の港の遺跡から出土していることは有名である。

こうした東西の壮大な海上貿易の中に、クメール人の都市国家扶南は組み込まれていたのだ。

22: 世界@名無史さん 02/05/26 23:12
5.タイ人を支配した民族クメール人の歴史(2)

その後、6世紀に至ると、内陸の農業生産力が著しく向上し、その生産力を背景として真臘と名乗るクメール人国家が誕生し、扶南を吸収してしまう。

扶南と同じくインド文明の影響を強く受けた王国であったが、内紛が絶えず、南北に分裂。

9世紀からは、アンコール朝として再統合された。

改めて言うまでもないだろうが、このアンコール朝こそがクメール人の全盛期であった。

クメール王ジャヤバルマン二世は、世界最大のヒンドゥー教遺跡アンコール・ワットを建立し、支配領域をいっきにチャオプラヤ川流域まで広げ、インドシナ半島全域を支配下に治めたのであった。


現在ではタイ国内に位置するピマーイは、このアンコール朝の第二の都市として、アンコール・ワットの半分ほどの大きさのヒンドゥー教寺院が建立された。

これが今日のピマーイ遺跡である。多くのタイ人遺跡が幾星霜の間に崩壊しているのに対し、このピマーイ遺跡はタイ国内の最も古い遺跡であるのに最も保存状態がいい。

クメール人の建築技術の高度さが伺われる。

23: 世界@名無史さん 02/05/26 23:13
【5.5.タイ人を支配した民族クメール人の歴史(2)の付け足し】

クメール人の偉大さは、支配版図の広さと建築技術だけではない。

彼らはインドのパーリ語を手本にクメール文字を創作した。

これは後にタイ文字の母体となるなどして、インドシナ半島の各民族に大きな影響を与えたのだった。

24: 世界@名無史さん 02/05/26 23:16
6.タイ人の南下

いよいよタイ「人」の歴史について述べることにしよう。

タイ人は本来、現在の中国の雲南省の付近に住む少数民族であった。

稲作発祥の地とも言われる(最近は否定される傾向が強いが・・・)この地域で古くからウルチ米の稲作を行っていたらしい。

もとから漢民族の少ない土地であり、文字ももたず、最も原始的な稲作で生活を行っていたタイ人であったが、8世紀頃からの唐の衰退と共に事情が変わっていった。

中国国内は混乱し、各地に国が乱立する中で、漢民族は逆に周辺に拡大し、辺境の少数民族を圧迫したのである。

タイも例外ではなく、漢民族が雲南省に南下してきたことで、その多くが雲南省を追われ、難民として東南アジアに移動を開始した。

(雲南省に踏みとどまり、中国文明の影響を受けながら「大理」という独立国を建国したタイ人たちもいたが、これは後にフビライ・ハンに滅ぼされる)


インドシナ半島に移動したタイ人たちを待っていたのが、クメール人の支配だった。

文字をもたず、組織ももたない難民同然のタイ人たちに、クメール人の勢力に抵抗する力があろうはずもなかった。

タイ人は先進民族クメール人の支配下に組み込まれていったのだった。

27: 世界@名無史さん 02/05/26 23:36
7.タイ人の独立:スコータイ朝の成立

交易に適したメコン川の下流域をクメールに押さえられたタイ人は内陸で、クメール人の指導のもと農業にいそしむ他なく、10世紀から12世紀までの間、クメールの支配下に屈していた。

その構図に変化が生じたのが、13世紀だった。


1257年、チャオプラヤ川上流のスコータイ地方のタイ人たちが農業生産力を背景に、クメール人のスコータイ太守に反乱を起こした。

反乱は成功し、インドシナ半島内初のタイ人による独立王朝スコータイ朝が成立したのだ。


スコータイ朝は、初めはスコータイ付近のこじんまりとした王朝であったが、ラーマ・カムヘン王の登場とともに、版図は急速に拡大した。

チャオプラヤ川流域のクメール人勢力を滅ぼし、アンコール朝に対しても遠征を行いメコン川の中流域までを支配下に入れてしまった。

タイ人は、インドシナ半島において初めて存在感をしめたのだ。


独立の意気は文化にも波及する。

ラーマ・カムヘン王は、文化的にもクメール支配から脱することを目指し、クメール文字を参考とし、民族独自の文字、タイ文字が作り出した。


スコータイには、王の業績を称える石の碑文が作られ、そこには

「ラーマ・カムヘン大王の御世、田には米が満ち、川には魚が満ちた」

と王国の繁栄 の様子が記されている。

ラーマ・カムヘン王は、今日も、「大王」と呼ばれタイ人たちから厚い尊敬を受けつづけている。

28: 世界@名無史さん 02/05/26 23:40
8.内陸都市スコータイの衰退、臨海都市アユタヤの勃興

スコータイ朝の繁栄は、その首都スコータイの広大な宮殿跡、寺院跡からも伺える。

寺院はヒンドゥー色の極めて薄い上座部仏教寺院であり、仏教を中心とする国作りが進められたことが伺える。

遊行する仏陀というタイだけのオリジナルの仏像も作られた。

中国を支配していたモンゴル帝国元と通商をすることで、陶磁器作成の技術導入も行われたようである。

200年にも及ぶクメールの支配を跳ね返したこの時代は、独立を叶えたタイ人にとって最も活気に満ちた時代だったのだろう。


しかし、スコータイの栄華も長くは続かなかった。

内陸都市スコータイは農業に適してはいたものの、東南アジアの通商に不可欠な海から遠かったのだ。

14世紀になる頃にはスコータイ版図内、チャオプラヤ川下流の臨海都市アユタヤが通商の交易で力を増すようになっていた。

ほどなく、このアユタヤが、スコータイからその繁栄を奪い去りはじめるのだった。

(当時のアユタヤは、現在よりも海に近かったそうです)

29: 世界@名無史さん 02/05/26 23:41
9.アユタヤ朝の成立

スコータイ朝は交易を行ったとはいえ、1世紀以来の最大の交易の要所、すなわちメコン川下流域をクメールに押さえられたままであり、海上貿易の利益をクメールから根こそぎ奪うことは出来なかった。

そこで、メコン川でなく、チャオプラヤ川の下流域を交易地とするアイデアが生まれた。

その際に白羽の矢が当たったのがアユタヤであった。

今日アユタヤはチャオプラヤ川の河口から船で1時間もかかる場所にあるが、当時は河口がさらに内陸よりであり、海へのアクセスははるかによかったらしい。

一度アユタヤが交易地として繁栄を始めると、落ち目のクメールよりもアユタヤを使う商人が増え、その利権によって、首都スコータイを越える繁栄を謳歌するようになった。


この富を背景に、1350年、アユタヤ朝が建国された。

スコータイ朝には、すでにこの建国宣言に異議を唱える力はなく、戦わずして、覇権はスコータイからアユタヤに 移ったのであった。

32: 世界@名無史さん 02/05/26 23:51
10.タイ最盛期、アユタヤ朝の繁栄

アユタヤ朝はタイ史上、最も反映した王朝だと言える。

アユタヤ朝は、たびたび遠征軍をかつての宗主国クメールに派遣し、その都度勝利したという。

版図はメコン川流域からチャオプラヤ流域、さらにマレー半島まで広がった。

交易都市アユタヤに首都をおいた王朝らしく、多くの国々と交易を行ったことがアユタヤ朝の大きな特徴であった。

江戸時代初期の日本とは頻繁に朱印船貿易を行い、大航海時代でアジアに訪れていたイギリスとも交易を行っている。

イギリス人使節がアユアタを見て「ロンドンのように立派な都市」と称えたことは有名である。


かつての宗主国クメールを破った自信からか、アユタヤには多くのクメール式仏塔が建築された。

タイ人たちの有頂天ぶりを示す行動であろう。

タイ人たちは、まさに我が世の春を謳歌していた。

33: 世界@名無史さん 02/05/26 23:52
11.ビルマとの抗争・アユタヤ朝の滅亡

しかし、クメール人を圧倒し、インドシナ半島に敵なしとなるはずだったアユタヤ朝だったが、版図の拡大が、西の隣国ビルマとの思わぬ抗争を生み出してしまった。

ビルマとの戦争は、アユタヤの歴史400年の間、何度も繰り返された。

王や王妃、王子による対ビルマ戦争の戦い振りが称えられ、多くの伝説が残された。

今日タイの国技とされているムエタイもこの時期に、兵士の訓練方法、白兵戦の戦闘方法として確立され、実際にビルマとの戦争で使われたようである。

(ビルマにもこのムエタイに対抗して作られたという格闘技、ムエカッチューアが存在している)

互いに象を繰り出し、ムエタイとムエカッチューアで白兵戦を戦い抜いた、タイとビルマの抗争は、最後はビルマの勝利に終わる。

1767年、ついにアユタヤはビルマ軍によって攻め落とされ、王族は皆殺しされ、タイ人たちは奴隷として連れ去られた。

この時、ビルマ軍はアユタヤを完全に破壊し尽くした。

同じ仏教国ビルマの兵士によって切り落とされたアユタヤの仏像の頭部は、今もアユアタのいたるところに転がっている。

タイの全盛期アユタヤ朝はこうして首都の陥落という形で幕を閉じたのだった。

34: 世界@名無史さん 02/05/26 23:56
ここから、7の"タークシン大王物語"に続きます。

ラーマ1世以降のチャクリ朝史は、じつは手付かずのままタイへの出発日が来てしまったので、何も書いていません。

そんなわけで、俺の担当部分は終りです。ちゃんちゃん。


45: 世界@名無史さん 02/05/27 23:07
タイの至宝エメラルド仏陀だけど、最初はチェンマイの独立王国にあったんだよね。
それがラオスに移されて、最期はラーマ1世が遠征して強奪し、バンコクの王室寺院に
収めた。

ラオス政府は今でも、エメラルド仏陀を返せ、と主張していたはず

103:   02/07/31 21:49
大戦中のタイはどうだったの?
枢軸国と連合国のどちらについたの?

105: PT 02/07/31 22:38
中立
>103

171: 世界@名無史さん 02/11/09 00:51
タイは植民地化されてないことを誇っているけど
本当に国の切り売りするようなことは無かったの?

174: 世界@名無史さん 02/11/09 01:19
ラオス(の一部)やカンボジア(の一部)のほうも領土だったと思うけどフランスに取られてる
>>171

175: 世界@名無史さん 02/11/09 16:52
>>171
切り売りはしてないが、領土を武力や脅迫で奪われたりはした。

177: 結論2 02/11/14 12:41
生き残るために領土を切り捨てていった国といえる

194: 世界@名無史さん 02/12/12 22:28
タイ王室が崇拝される理由

①王は仏教の最高の擁護者で体現者。現世の姿は前世からの約束事。
国王は前世の功徳が最高。それゆえ民族の代表。

②フミポン王の人柄。王の考えで農村開発に力を注いでいる(キングスプロジェクト)。
王は自ら車を運転し、ほとんど警備もつれず、農村を視察し農民を励ましている。

198: マンラーイ 02/12/24 00:43
みなさん、タイの歴史は「Thai」の歴史ではありません。

「Thai」は「Tai」の一系にしか過ぎないのです。

「Thai」人が馬鹿にするラオ、ユアン、シャン、ルーなどなどすべては「Tai」族が1000年以上の移動の過程で多民族と混住・混血した所産でもあります。

「Tai」の歴史、つまり12世紀以降北タイを支配したランナー(LanNa)やパヤオ、プレー、ナーンの歴史を語らないと「タイ」の歴史にはならないはずです。

タイの歴史教科書にはあまり触れてはいませんがね。

218: 世界@名無史さん 03/02/02 21:28
タイの王室といえば有名なラーマ1世の予言というのがありますよね。

現在のチャクリ朝の初代の王であるラーマ1世が死ぬ少し前に言ったことで

1.強大な王権は150年で終わるであろう。

2.チャクリ王朝は9代で終わるであろう。
 
と、言うもの。

 

実際に、王朝建国150年目の1932年にに民主党のクーデタが起こり、絶対王政から立憲君主制に移行した。
 
1の予言は的中したわけだが、問題は2の予言で、今の国王が9代目なんだよね。
 
はたしてどうなるのか。

287: 世界@名無史さん 03/06/07 09:59
日本が戦争に負けなかったら

皇室と国民の関係はタイ王室とタイ人みたいなものだったろうな

別にそれで悪いとは全然思わないけど

288: 世界@名無史さん 03/06/07 13:01
>>287
タイの王室敬慕を経験して 戦前の日本を想像する助けになったよ。

タイには外国人が多数住んでいるが、 王制=民族排外主義、だから廃止しろ!

なんて騒いでいる「定住外国人」はいない。

一部の在日の主張の異常さがわかる。

あれはむしろ共産主義やキリスト教の影響なんだろうな。

290: 世界@名無史さん 03/06/07 15:25
>>287 >>288
あの国は閨閥つまり王家と縁戚関係を持つ軍政府高官が多くいます。

国王は文字通り国という家の父であり、今も尚政府の数多のプロジェクトに参加している実権ある元首なのです。

ですから現国王のように熱意と実力があると大いに慕われるのは当然なのです。

初めから勤皇志士の御神輿だった天皇と同格に扱うなど、論外です。

逆にいえば、タイはああだったからこそ、立憲君主制が遅れたのですが。

339: 世界@名無史さん 03/08/30 14:56
ラオスってもともとタイの属国だったんでしょ?

ラオスの首都なんてタイの国境近くにあるよね。

やっぱりビルマとは仲が悪いだろうねえ。

341: 世界@名無史さん 03/09/01 14:33
>>339
犬が喧嘩に負けたらお腹をさらすように、相手に弱点をさらけだすことによって恭順の意を示していると思う。

343: 世界@名無史さん 03/09/01 14:44
>>341
もともとタイの領土だったものが、フランスと戦争して負けて剥ぎ取られた。

ビエンチャンは古くからある街。

401: 世界@名無史さん 03/11/03 04:09
独立を維持して植民地化を免れたのと引き換えに、ラオス・カンボジア・ビルマとの国境地帯、および影響下に置いていたマレー半島南端の多くの属国(朝貢国)を失った。

南進する日本軍と同盟したのは、日本軍の力を借り仏領インドシナとの国境紛争を一気に有利に解決しようとするピブン政権のもくろみがあった。

653: 世界@名無史さん 04/02/12 11:14
>>401
タイ(シャム)が19世紀に列強の植民地にされなかった理由のひとつは、工業用の天然資源に乏しかった
という理由もあるだろう!

496: 世界@名無史さん 04/01/06 22:48
タイの外交が上手いって評判らしいですが、
具体的にはどの辺が上手いのですか?
実例での解説キボン

497: 世界@名無史さん 04/01/06 22:53
>>496
「イタリア」・・・・この一言でわかるだろ?

498: 世界@名無史さん 04/01/07 02:49
それじゃわからんだろ

18世紀に、東南アジアのほとんどが、 ヨーロッパの植民地になったにもかかわらず タイはなっていない、

また第二次世界大戦のときも、 大戦中盤まで日本の同盟国だったが 終盤になって連合国につき戦勝国になった

などなど

499: 世界@名無史さん 04/01/07 13:28
>>498
18世紀じゃなくて19世紀。

525: 世界@名無史さん 04/01/13 21:21
「タイは酢(スコータイ朝)で、アユ(アユタヤ朝)は焼いて(バーンコク朝)食え」

って覚えました。受験の時。

527: 世界@名無史さん 04/01/16 13:12
タイの王権・国王の神聖視は、 近代に入ってからかえって強くなったの?

528: 世界@名無史さん 04/01/16 14:47
そんなわけではない。
王室が敬愛されているのは現国王の人徳によるところが大きい。

529: 世界@名無史さん 04/01/16 15:59
>>528
でもかいてあったけど、立憲国の王様のあるべき姿を体言しているよね。

先進国でもない、資源大国でもない。さりとて近隣国とは歴史上何回も戦火を交えてる。

おまけにヨーロッパ列強にも抗して来た。とゆう歴史が王家のしたたかな政治手腕を導きだしていると言えますな。

530: 世界@名無史さん 04/01/16 16:18
>>528

ミャンマー、カンボジアといった近隣国と比較すると、タイのプミポン国王の賢さが際立ってしまう。

531: 世界@名無史さん 04/01/16 16:20
プミポン国王でぐぐってみると、

この国王様のエピソードいいものばかりだね

867: 世界@名無史さん 04/07/28 00:49
中国系タイ人と華僑の区別もつけないで書き込みするバカはここにくるな

871: 世界@名無史さん 04/07/28 11:43
そもそもタイ人の祖先からして、本来は雲南あたりに住んでいたタイ族だからね。

872: 世界@名無史さん 04/07/29 01:34
>>871
タイに紙・傘・笠・麺食をもたらしたのもこのルートでしたね。

そういや南下以前の低地タイの住人はクメール系でしたっけね。

小乗仏教に接したのは今の場所に来住してからのこと? 雲南ですでに帰依していたのかな。

882: 世界@名無史さん 04/07/30 22:04
華僑というのはいずれ国に帰ることを前提とした呼び名。

根を下ろす人は華人という。

タイへの華人流入の歴史は古いが 清朝崩壊過程で量的に増大した。

とくに王家はライバル諸侯に力をつけさせないため、あえて外国人である中国人に商業を独占させた。

これが華人財閥の期限。


その結果事実上「国」を乗っ取られたわけだが、バンコク市民の70%には中国人の血が流れていると言われ、

そうなってくると「平均的タイ人」は中国系ということになる。

だから中国系市民にもタイは自分の国という意識。

隣国マレーシアと対照的にタイの中国系市民の多くは 中国語を話せないし自分の名前さえ漢字で書けない。

まあ在日朝鮮人みたいなものだ。

それでも田舎では「中国人」嫌いの「生粋のタイ人」は多く、 バンコクの中国系市民を嫌っていたりする。

そんなにきれい事じゃ世界はわかんないね

883: 世界@名無史さん 04/07/30 22:30
現王朝のチャクリ朝を興したラーマ1世が遷都した現首都のバンコクももとは華僑街。

精神に異常を来してラーマ1世に処刑されたトンブリ朝の前国王のタークシンも 父親は広東の潮州出身の中国人で母親がタイ人。

現王朝の家系にも中国系の血が色濃いのも公然の秘密。

929: 世界@名無史さん 04/08/10 00:01
「タイ人」なんて、ひとくくりにする奴はタイの事を何も知らないバカ。

他民族国家だぞ、タイは。

そもそも国土は日本の2倍で、南北に長い。

北部系・ラオ系・クメール系・マレー系など一目見れば違いがわかるほど多様だ。

もちろん、それに華人が加わるが、華人もタイに入った年代で意味が異なる。

「○○時代のXX地域の支配民族は△△系」と言わなければならない。

引用元: ・タイの歴史