part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機

ロシアのペルシアへの侵攻


315: 2014/08/03(日)00:58:23 ID:bhCxUjweB
時系列がややこしくなるけど、北方の巨人ロシアの視点に立って19世紀の初頭まで戻ってみたい。

18世紀の末、ロシアはオスマン帝国からクリミア半島とルーマニアを奪い、キュチュク・カイナルジ条約でオスマン領内の正教徒に対する保護権までも獲得した。

その勢いのまま再度の戦端を開いたところでフランス革命が勃発。

ロシアはオスマン帝国との対決を一時中断して西に備える。


が。


ロシアはもう一個の異教帝国、ペルシアに対してはオスマン帝国よりもはるかに舐めていた。


>>130以来放置していたガージャール朝ペルシアにおいては、1797年に残虐非道な建国者
アーガー・モハンマド・シャーが召使に刺殺されてみんなが胸を撫で下ろしたわけだが、

そもそもごく少数の遊牧民ガージャール族がイラン全土を支配するという体制に無理があったわけで、アーガー・モハンマドが生きていようが死んでいようが、国制はやたらと抑圧的なままだった。

316: 2014/08/03(日)00:59:27 ID:bhCxUjweB
一方、サファヴィー朝の成立以来イランはシーア派に染まっている。

シーア派は第4代正統カリフ、アリーの子孫だけがイスラーム世界を正しく導く力を持つ「イマーム」だと信じているのだが

残念ながら歴代イマームはウマイヤ朝やアッバース朝から迫害されまくった挙句、第12代にして行方不明となった。


というか、後期のイマームは迫害を避けたり幽閉されたりほとんど世間に姿を現さず、

12代目なんて父親の葬式で半日姿を現した以外は一切消息不明なんで、そもそも実在したのかどうかすら(以下検閲により削除)


ま、いずれにせよイマームが行方不明という遺憾な事態により、シーア派(の大多数)は、イマーム再臨までのあいだ、最も有能なイスラーム法学者がイマーム代行として信徒を指導するという妥協案でもって合意した。


まあ何が言いたいかというと。

1.イスラーム法学者がやたら偉そうである

2.民衆は「いつか真のイマームが再臨して世直ししてくれんかのう」と常に期待している。



そういうわけで、ガージャール朝ペルシアでは誰もが明後日の方向を向いてる状態だった。


国王は少数の同族で国民を支配するために圧制に走る。

法学者はことあるごとに政治に首を突っ込んで騒ぎ立てる。

民衆は「どっかの小瓶の中に老人が閉じ込められていて、そのうち救世主になって飛び出すらしい」とか
どこのアラビアンナイトだと言いたいくなるような噂を語り合っている。

そしてもうひとつ軍隊。

これがまた使えない集団で、戦果報告書ひとつ取っても、

「戦死者少数とか報告すると王の威厳に関わるから、とりあえず景気よくしとこう」などと余計な気を回し、

「大地は流れる鮮血もて洪水となり、全アジアの奴隷市場は夥しい捕虜によって価格暴落したり」などと
誰が見ても嘘だろうというレベルで内容を膨らましまくる始末。


舐められるのも無理はないわけで、ロシアはナポレオン戦争の真っ只中も含めて何度もイランに攻め込み、そのたびに勝利。

1828年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方をまるごともぎ取り、治外法権を押し付けることに成功した。


要するに、ガージャール朝はとことんヘタレであった。

この一言に尽きる。

318: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)01:09:53 ID:hKvAjugwq
ロシアもロシアだが斜陽のイスラームも大概なんだな

320: 2014/08/03(日)01:34:56 ID:bhCxUjweB
>>318
イスラーム世界自体もいろいろと衰退・退廃局面に入っていたようで、とある有名研究者は象徴的な例として

「中世イスラーム世界の公衆浴場は清潔だったけど、近代の旅行記にある公衆浴場は不潔そのもの」
と書いてる。

この話については、果たして中世の公衆浴場が本当に清潔だったのかっていうのも疑おうと思えば疑えるけどね・・・

319: 2014/08/03(日)01:23:06 ID:bhCxUjweB
ところがガージャール朝とは対照的に、もぎ取ったはずのカフカス地方の住民はまったくヘタレでなかった。


黒海とカスピ海のあいだに横たわる、標高5千メートル級の峻険なカフカス山脈。

ここは古来、無数の山岳民族が蟠踞しており、その数は「神さえいくつあるか分からない」と言われている。

あのモンゴル軍もカフカス平定には苦労しているし、常勝不敗のはずのティムールですらグルジア軍に負けたらしい

(翌日すぐに雪辱したので無かったことにされているw)


ロシア帝国は18世紀後半に本格的にカフカス山脈北麓に取り付いたが、

長らくイスラーム化していたカフカスの諸部族は「聖戦キタコレ」と抵抗しまくったので、山脈南側のペルシアを属国同然にしたあとですら 途中の山岳地帯はろくに実効支配できていない状態だった。

とくに執拗な抵抗を繰り返したのはカフカス山脈北西の一角、ダゲスタンからチェチェンにかけてを支配した「シャーミル」という族長だった。

Imam_Shamil
シャミール
photo credit 

シャーミルはただの鍛冶屋の息子だったが、たまたまメッカ巡礼に行ったときにゲリラ戦なるものの存在を知る。

のちほどロシアの脅威が迫ると村の寄合で戦士任命され、いろいろ中略の結果、最終的にこの地方一帯の軍事指導者へ。


シャーミル率いる山の民は砦に籠り、女性も男装して頑強に抗戦した。

砦が落ちればさらに山奥深くへ退却し、谷にロシア軍を引きずり込んでは殲滅する。


延々シャーミルに苦しめられたロシア軍は、こういう場合の常道というべき手段、買収工作に出る。

部下たちが次々にロシアに買収されて継戦不能に追い込まれたシャーミルは1859年に降伏。

ロシア皇帝アレクサンドル2世は彼の勇気を称賛し、ロシア各地を巡回させたというが、うん、晒し者ですね。


ダゲスタンからチェチェンにかけて。

今でもシャーミルの子孫たちが似たようなことを続けている。


ギュルハネ勅令


322: 2014/08/03(日)01:50:58 ID:bhCxUjweB
ロシアが対オスマン戦線において再び戦端を開いたのは、ナポレオンが既に没落し、オスマン帝国がギリシア独立の危機に直面した時だった。

時は1828年、およそ30年ぶりの露土戦争再開となる。


この時ロシア軍は疾風のごとく南侵し、イスタンブルから200キロしか離れていない帝国副都、エディルネ(アドリアノープル)に入城した。

とおくオスマン帝国草創の昔より、ここまで敵国の侵攻を許したことなど一度もなかった。

帝都イスタンブルのオスマン人たちは、おそらくこの時初めて西洋列強の脅威を骨の髄まで理解したことだろう。


しかしオスマン帝国は滅びない。

バルカン半島と中近東の勢力均衡を優先する列強の思惑が、ギリシアの独立は許してもオスマン帝国の滅亡は許さない。


1840年。

ムハンマド・アリーの北進に狼狽したロシアを含む列強四国は再び帝国に介入し、

強圧をもって帝国を再度延命させ、アラビア帝国建設を目指した老雄ムハンマド・アリーを屈服に追い込む。

323: 2014/08/03(日)02:06:25 ID:bhCxUjweB
一方、オスマン帝国では1839年に改革の旗手マフムト2世が憂悶のうちに世を去り、その子「アブデュルメジト1世」が第31代オスマン帝国皇帝として即位していた。

彼の前半生における政治的伴侶となるのが大宰相の「ムスタファ・レシト・パシャ」。

この2人はマフムト2世の遺志を継いで、帝国の命運をかけた改革をさらに推進する。


というわけで即位早々、有名な「ギュルハネ勅令」が発布された。

訳すと「薔薇宮勅令」。妙に妖しい。

この勅令で画期的なのは、「ムスリムと非ムスリムとを問わず、国民は法の前で平等なり」という一節だった。


2人の改革者は、キリスト教徒への不平等を理由に内政干渉を図る西欧列強を牽制するために新治世の大方針としてこれを打ち出したらしい。

しかし、この宣言は帝国の国制を根底から揺るがす。


従来オスマン帝国は多民族・他宗教が共存する世界帝国として君臨してきたが、帝国がイスラーム国家である限り、

結局のところその共存はあくまで「ムスリム優位での共存」だった。


イスラーム世界において、良き統治が行われている限り異教徒は庇護の対象となり、信仰を尊重される。

とはいっても、庇護の代償として税は徴収されるし、ムスリムと非ムスリムの裁判では後者が圧倒的に不利。

それが古来のイスラーム法の大原則だった。

それが覆されるということはつまり。


「イスラームはオワコン」ということらしい。

324: 2014/08/03(日)02:14:09 ID:bhCxUjweB
ギュルハネ勅令に始まる一連の近代化政策は歴史上の用語として「タンジマート改革」と呼ばれている。

これを訳すと「恩恵改革」。

その名の通り、皇帝の恩恵として下々の者どもに与えられる、典型的な「上からの改革」だった。



究極において「イスラームはオワコン」という思考に基づく上からの改革は、なおイスラームを信奉する一般庶民や保守的官僚たちの猛反発を招いた。

なので、1852年にムスタファ・レシト・パシャが引退すると改革はすぐに停止する。

それどころか、平等を保障された非ムスリムにたいして、当然ながら「異教徒のくせに生意気だ」という
ムスリムたちの反感が沸き起こる。

世の中なかなかうまくいかないものである。


そんななか、またしてもロシアとオスマン帝国の戦端が開かれた。

これで何度目なんだ、露土対決。

ところが驚くべきことに、今度はオスマン帝国がなんと勝利してしまう。

クリミア戦争である。

325: 2014/08/03(日)02:46:35 ID:bhCxUjweB
この戦争はとある元祖看護師(最近は看護婦と言わないらしい)さんによってものすごく有名なのだが、
それは今回あまり関係ない。


今回の戦争は、ロシア側が最初に仕掛けた。

それで負けているのだから自業自得というものであろう。

いろいろ複雑な背景があるのだけど、直接の発端になったのはオスマン帝国がフランスに聖地エルサレムの管理権を与えたこと。

同じキリスト教でもフランスはカトリック、ロシアは正教である。

ここでキュチュク・カイナルジ条約の「ロシア皇帝はオスマン帝国領内の正教徒に対する保護権を持つ」という条項が発動した。

「ロシア皇帝はエルサレムにおける正教徒の権利を保護するため、オスマン帝国に対して開戦する」

これはもう、どこをどう見ても言い掛かりとしか。


経緯が経緯なのもあり、この戦争は単なる露土対決だけでなく、英仏両国を巻き込む大戦争になった。
陣容としては、英仏あんどオスマン帝国の3カ国連合VSロシア帝国。

うん、そりゃ当時のオスマン帝国単独でロシアに勝てるわけがない。



3カ国連合はろくに現地の地理も気候も分かっていないままクリミア半島に侵攻し、

バラクラヴァではスコットランド軽騎兵がロシア軍の真正面に騎乗突撃かけて全滅したり

セヴァストポリでは13万人近い戦死者を出したりとさんざん苦戦するが、最終的にはどうにか勝利。


そこまで苦労してなんだが、実際のところヨーロッパ視点から見るとこの戦争にはほとんど意味がなかった。

講和条約の結論を思いっきり大雑把にいえば、「戦前の状況を維持しましょう」というだけだし。

せいぜい看護師制度と英文学の発展に影響を与えたぐらいである。



しかしオスマン帝国視点で見ると、そうではない。

オスマン帝国はとんでもない金額の戦費の調達に苦しみ、1854年から外債を発行する。

要は借金に他ならない。


借金は癖になる。

これ以後のオスマン帝国はタンジマート改革の推進や頻発する戦争への対応のため

列強に金を借りまくった結果、貸し手の列強に全く頭が上がらなくなったうえ、

1875年にはとうとう破産した。


中央アジアを巡る英露の「クレートゲーム」


326: 2014/08/03(日)03:45:35 ID:bhCxUjweB
さてクリミア戦争で英仏に痛撃を食らったロシア帝国は南下政策を東部戦線で進めることにした。


いまや機は熟した。

長年カザフ草原への浸透を続けてきた結果、その彼方に続くトランスオクシアナ、つまり中央アジアのオアシス地帯はロシアの射程範囲に入った。


その頃中央アジアではシャイバーニー朝がブハラ・ヒヴァ・コーカンドの3カ国に分裂して

際限ない内輪もめを続けていたが、ヒヴァには中央アジア最大の奴隷市場があって、栄えあるロシア帝国の人民すらが不運にもこの地に拉致されることは珍しくなかった。

実に目障りである。


また、ブハラは東方イスラーム世界に名高いイスラーム諸学の拠点であり、ロシアが長年支配している
ヴォルガ流域のタタール人たちのなかからもブハラに留学する者が後を絶たない。

いくらロシア正教を布教しても全く聞く耳もたずに腹立たしいことである。


そういう事情もあり、1864年からロシアは一挙に中央アジアに侵攻開始し、3年後にはコーカンド・ハン国のタシケントを陥落させてトルキスタン総督府を設置した。


なお、中央アジアは10世紀以来テュルク系諸民族が多数派となっているので、

ペルシア語で「テュルクの土地」を意味するトルキスタンと呼ばれており、パミール高原の西側が西トルキスタン、東側が東トルキスタンとなる。

東トルキスタンは当時清朝中国の支配下にあり、このたびロシアが征服を目指すのは西トルキスタンである。


まもなくブハラ・ヒヴァの両ハン国もロシアの軍門に下り、保護国化。

ロシア帝国はトルキスタンのムスリムたちの信仰については放任主義を取った。何しろ遠い。

だが、その遠さは行政の腐敗を生む。

トルキスタン総督府の支配は乱脈を極め、中央アジアのムスリムたちは異教徒ロシアの支配に多大な不満を抱き続けた。


それはさておき、ロシア帝国のこうした南進はユーラシア大陸南岸に蟠踞するもうひとつの列強国家、
すなわち大英帝国の強い警戒を呼び起こした。


大英帝国の力の源泉はインドである。

インドは個々の民は豊かではないかもしれないが、インド亜大陸の総体が生み出す富は比類ない。

全盛期大英帝国のGDPの半分はインド植民地が占めるとも言われており、

18世紀後半以降 大英帝国は地中海からエジプト、中近東を経てインドに至るラインの死守を至上命題とした。


ロシア帝国がトランスオクシアナの3ハン国を降したいま、そのすぐ南にはアフガニスタンがあり、アフガニスタンの南は直ちに大英帝国領インドに他ならない。


ロシアのこれ以上の南下は容認しがたい。

かくて19世紀ユーラシア大陸全土を盤上とする二大列強の大いなる闘戯、「クレートゲーム」が本格的に開幕することになる。


329: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)18:08:35 ID:s0VeenMhP
ようやく日本が世界史に登場しそうな時代になってきたか

331: 2014/08/03(日)21:56:10 ID:GIzkFpnK8
英露両国の覇権角逐の舞台が中央アジアとなることは地政学上の必然だったが、実のところ両国ともこの地域の地理や政治情勢がほとんど分かっていなかった。

というわけで幾度となく両国の冒険的な密偵が中央アジア一帯を探索し、現地王侯の懐柔を試みる。

その動きは実際に両国の勢力圏が接近するよりもずっと以前から始まっていた。

そんななかで、ひとつの珍事が起こった。



ガージャール朝ペルシアがロシアの軍事圧力に屈するのと同時期、大英帝国もこの国に士官を派遣して軍の訓練を施したり、

不平等条約を押し付けて各地に領事館を開いたり、支援も干渉も取り混ぜた手段でペルシアを影響下に置こうと画策していた。


1837年秋のこと。

ヘンリー・ローリンソンという、後に古代ペルシア文字を解読して世界史の教科書に名前が載ることになる27歳になる英軍士官がペルシア東部を旅していたとき、

まったくの偶然から、一団のコサック騎兵を引き連れたロシアの将校と遭遇した。

いろいろと探りを入れた結果、このロシア人たちはアフガニスタンの新王ドースト・ムハンマドに
誼を通じるべく遣わされた密使であるらしいと判明した。

なんとしてもロシアより先にアフガニスタンを影響下に収めなければ。

英国側に焦りが広がった。

332: 2014/08/03(日)21:58:34 ID:GIzkFpnK8
その頃、インダス上流を支配する大英帝国保護国のシーク教国と、アフガニスタンとのあいだに紛争が起こった。

シーク教国の国王ランジート・シングが国境の要衝ペシャワールを奪取。

ドースト・ムハンマドは英国の密使を迎えると、ロシアカードをチラ見せしながらペシャワール返還を要求した。


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ドースト・ムハンマド
photo credit 


英国は苛立ち、国外逃亡していたアフガン王族シャー・シュジャーを担いでアフガニスタンに軍事侵攻することにした。

第一次アフガン戦争である。


シャー・シュジャーはニート同然の無能無気力な人物だったが、英国としてはそんなことはどうでもいい。

大英帝国軍が迫るとドースト・ムハンマドは首都カブールを放棄して逃亡し、この町は無血占領された。

将兵は妻子を呼び寄せ、テニスコートや競馬場を作ってどっかりとカブールに腰を据えた。

そのうち前王ドースト・ムハンマドも亡命先の居心地が悪かったらしく、自分から出頭してきた。

万事順調であるかに見えた。

ところが間もなく、イギリス人たちはアフガニスタン人の抵抗精神を見くびっていたことに気付く。

333: 2014/08/03(日)22:07:58 ID:GIzkFpnK8
1841年の晩秋に突如大暴動が発生。

アフガン人の大軍がどこからともなく現れ、英軍の7倍もの兵力でもってカブール城を重包囲した。

アフガニスタンは山国である。

援軍は雪に閉ざされて到着の見込み無く、英国人たちは餓死寸前に追い込まれた。

年が明けて間もなく、英国人たちはついに降伏した。

世界最強の大英帝国が、アジアの山奥の未開人たちに負けた。なんたる屈辱。



ところが、地獄はここからだった。

猛烈な雪の中、ヒンドゥークシュ山脈を撤退する英国軍と民間人をアフガン人たちの銃撃が見舞う。

左右の断崖の上から執拗に狙撃が繰り返され、幾度となく略奪が行われる。

イギリスの隊列はたちまち無秩序な敗走と化した。


そこにアフガニスタンの指揮官が登場。

英国人たちが彼の率いる護衛軍を待たずに勝手に出発したからこんなことになるのだと非難し、

「勝手な行動をするな!」と世界最強の大英帝国軍に「命令」をする。



世界最強の軍隊はすごすごと「土人の首領」に人質を出して指示に従った。

でもって一行がとある峠に差し掛かったとき、ついに大虐殺が始まった。

最終的な犠牲者は、軍人4700人、民間人1万2千人。

一方でアフガニスタン側の死者はわずか500名。


第一次アフガン戦争は大英帝国の歴史上、最も悲惨な敗北に終わった。

334: 2014/08/03(日)22:16:37 ID:GIzkFpnK8
当然イギリスの朝野は憤激してアフガニスタンへの制裁を叫ぶ。

翌年、英軍はカイバル峠を突破してカブールを再占領し、少数の人質を救出して傀儡の新王を据え、

市場を爆弾で吹っ飛ばしたが、できることはそれだけだった。


アフガニスタンは古来「大国の墓場」である。

二度目の冬が来る前に英軍はインドに帰還した。

英軍が消えると同時に、英国が擁立した新王は廃位され、国内は無秩序状態になる。


結局のところアフガニスタンを落ち着かせる力量を持つのはただ一人、英国が最初に放逐し

その後インドで拘留していたドースト・ムハンマドだけだということが明白になったので

ドーストは無条件で釈放され、悠悠と自国へ戻っていった。


何のためにアフガニスタンに攻め込んだのか。

この国は以来、大英帝国の鬼門となった。

336: 2014/08/03(日)22:37:00 ID:GIzkFpnK8
南アジアでの英国の痛手はさらに続き、1857年には有名なインド大反乱が勃発する。

昔の教科書や歴史書だと「セポイの乱」と書いてあった例の有名事件である。

直接の原因はイギリス東インド会社がインド人傭兵たちに支給した銃の薬包に牛と豚の脂が使われているという噂が流れたこと。

実際に使っていたのかどうかはよくわからないが、噂が流れた時点で世の中は動く。


薬包というのは火薬の紙包みで、銃に弾薬を装填するときにはこれを噛み切る必要がある。

その紙に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂と、ムスリムが不浄視する豚の脂が塗ってあるというのだから堪らない。


イギリス東インド会社の傭兵たちは未だに名目的に存在していたムガル皇帝を担ぎ、インド全土で大反乱を起こした。一般民衆も地方王侯たちもこれに呼応。

英国のインド支配は崩壊瀬戸際に追い込まれた。


SepoyMutiny
インド大反乱
photo credit



世界最強の大英帝国軍は今回は全力で頑張ったので、なんとかかんとか反乱を抑え込むことには成功したが、

英国政府は反乱の全責任をイギリス東インド会社におっ被せ、会社解散を命じた。

これ以後、インドの統治は英国政府の「インド省」が管轄することになり、インドには「副王」の地位を持つ「インド総督」が置かれる。

ムガル帝国は完全に滅亡し、英国女王がインド皇帝を兼ねる形で「インド帝国」が成立した。


近世イスラーム世界三大帝国の一角とイギリス謎会社、これにてようやく退場となる。
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