part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり

東トルキスタンの混乱


338: 2014/08/03(日)23:04:59 ID:GIzkFpnK8
次にグレートゲームの盤面が大きく動くのは1860年代。

この時期、内陸アジアで二つの大事件が発生した。

一つはロシア帝国のトランスオクシアナ征服、そしてもう一つは清朝治下にあった東トルキスタンでの「回民蜂起」である。


長らく東ユーラシアに君臨してきた大清帝国は、歴代中華帝国の完成態というべきものだった。

偉大なる康熙帝、雍正帝、乾隆帝という稀代の名君たちのもと、この帝国は古来中華世界の宿敵であった
北方の遊牧民をも同じ国家のもとに取り込み、

中央アジア・東南アジア諸国をも緩やかに従属させ、多数の民族・宗教・言語を緩やかに統合し、繁栄を極めていた。


だが、19世紀に入るとともに帝国は徐々に老衰症状を呈し始める。

そして1840年、貿易をめぐる対立から南シナ海に四隻の英国艦隊が姿を現し、アヘン戦争が勃発。

地大物博にして強大無比な大清は、この新しい夷狄にあっけなく敗れた。

こうして大混乱が始まる。

太平天国の乱が勃発し、捻軍が蜂起し、アロー戦争では列強の帝都進駐を許す。

雲南の大理では回族の杜文秀が「スルタン・スレイマン」を称して独立国を築く。

そして陝西省で勃発した中国系ムスリムと漢人との争いがたちまち東トルキスタンに拡大し、ウイグル人のムスリムもこれに呼応し、中央アジアのオアシス諸都市が次々に離反したのである。

この東トルキスタンのムスリム反乱もまた、同時期のロシア南進とともにグレートゲームの重要ファクターとなる。

339: 2014/08/03(日)23:11:44 ID:GIzkFpnK8
>>338
あ、いちおう確認したらアヘン戦争が本格化した時点の英国艦隊は47隻でした。
4隻はペリー艦隊か。

350: 2014/08/05(火)22:15:57 ID:TX01Skygg
混乱を極める東トルキスタンに一人の梟雄が姿を現した。彼の名をヤークーブ・ベクという。

ヤークーブ・ベクの前半生には謎が多い。一説では、若い頃にはコーカンドで歌手をしていたともいう。

彼が歴史の表舞台に躍り出たのは1865年、コーカンド・ハン国が東トルキスタンに介入しようとしてパミール高原の東側に位置するカシュガルに遠征軍を送り込んだ時だった。

ヤークーブ・ベクはこの遠征軍の副官あたりのポストにいたらしいが、ちょうど彼らの出立と入れ替わるようにロシア軍がコーカンドに殺到し、あとから7千人ばかりの亡命軍人たちが追いかけてきた。

ヤークーブは彼らをまとめて軍の実権を掌握し、本国の危機なんぞ放置して勝手に東進開始、

たちまちカシュガル、ヤルカンド、アクスー、クチャなどタリム盆地西部のオアシス諸都市を降し、「七城市」といわれる独立政権を築き上げた。


当時の清朝は多事多難を極め、東トルキスタン奪還の余裕などない。

そのままヤークーブ・ベクの政権は10年ばかり放置された。
 
Veselovski-1898-Yakub-Bek
ヤークーブ・ベク
photo credit 
 

351: 2014/08/05(火)22:35:39 ID:TX01Skygg
一方、ロシアの動向。


ロシアの西トルキスタン進出は英領インド帝国を震撼させた。

あまり手を突っ込みたくはないけど、やはりアフガニスタンを緩衝国にするしかないだろう。

ところが、いささか間抜けなことにイギリスは当時アフガニスタンの北の国境がどこまで伸びているのかがよく分からなかった。

急いでいろいろと探検隊を出してみたところ、予想外に不愉快なことが発覚した。


これまでインドへの入り口は西のヒンドゥークシュ山脈だけだと思っていたところ、北のパミール高原やカラコルム山脈にもいくつか峠があって、どうやら軍隊も通れるっぽい。

探検家たちは「たぶん大砲引きずり上げて行軍できるんじゃないすか、たぶん」と報告してきている。

標高4000メートル越えてる峠だけど、ロシア人ならやりかねん。


カラコルム山脈の北側は東トルキスタンで、ここにはヤークーブ・ベクがいる。

ロシアがヤークーブ・ベクを抱き込んだら一大事。

そんなこんなで、イギリスは急いで二つの戦略を立てた。

ヤークーブ・ベクを味方に引き入れることと、もう一度アフガニスタンを押さえること。

352: 2014/08/05(火)22:45:14 ID:TX01Skygg
イギリスがヤークーブ・ベクに密使を出したところ、やはりというべきか、ロシアもヤークーブ・ベクに密使を出していた。考えることは同じである。

ところが、ヤークーブがロシアに返礼使を送ったところ、ロシア皇帝は何をビビったのか土壇場で会見キャンセル。

どうもヤークーブの使者と謁見することで清朝を刺激するのを危惧したらしい。

それなら最初から密使なんて送るなという話である。

当然ながらヤークーブは激怒してイギリス側についたので、この方面についてはひとまず懸念はなくなった。


で、もうひとつはアフガニスタンである。


この方面で状況が大きく動いたきっかけは、1875年にまたしても開始された露土戦争だった。

353: 2014/08/05(火)23:01:45 ID:TX01Skygg
>>352
1877年に訂正。


今度の露土戦争のきっかけは、バルカン半島でスラブ系諸民族がオスマン帝国に対して次々に蜂起したことだった。

ナショナリズムという「疫病」は順調に蔓延しつつある。

オスマン帝国はブルガリアの反乱を力づくで抑え込もうとし、4万人を虐殺した。

事ここに至り、ロシアが同胞たるスラブ系諸民族の保護を大義名分としてオスマン帝国に宣戦布告。


ロシア帝国はクリミア戦争の敗北を教訓に徴兵制を導入し、軍の近代化を進めていた。

その成果を見せつけるがごとくロシア軍は怒涛のように南へ進撃し、1878年2月にはイスタンブルを目と鼻の先に望むサンステファノまで到達した。

どのくらい目と鼻の先かというと、ここ、現在ではイスタンブルの空の玄関であるアタテュルク国際空港がある場所になる。

バスか電車で30分もしないうちにイスタンブル市街に到着できるというレベル。

が、この瞬間、それまで静観していた大英帝国が重大な警告を発した。

「それ以上一歩も進むな! 一歩でも進めば戦争だ!」


大英帝国はオスマン帝国存続による勢力均衡の維持を大方針とし、それ以上にロシアが地中海に進出し
自国の東洋植民地を脅かすことを極度に警戒していたから、これは当然だった。

英露両大国の全面戦争必至。

この状況のなか、ロシア帝国のトルキスタン総督カウフマンは3万の軍勢を召集してインド侵攻に備え、
同時にアフガニスタンに使者を送って軍事同盟を迫ったのだ。

354: 2014/08/05(火)23:25:38 ID:TX01Skygg
結果からいうと、この時はロシアが退いてオスマン帝国と和平締結した。

ロシア軍のインド侵攻も沙汰やみとなったが、ロシアがカブールに使者を送ったことは英領インドに波紋を起こさずにすまない。


アフガニスタン国王シェール・アリーは何度も英国の使節団訪問を拒否してきたのに、何故かこのロシアの使節団はあっさり入国させたばかりは、友好条約締結と軍事顧問団の駐留まで認めた。

たぶんイギリスよりロシアの方が強面だったんだろう。


英国としては「ふざけんな」という話になる。

キレたイギリスはついに3万5千の軍をもってアフガニスタンに侵攻開始。

こうして1878年冬、「第二次アフガン戦争」が始まった。


英軍がカンダハルやカイバル峠を占領すると、シェール・アリーは泡を食って さっそくカウフマンにロシアの援軍を要請したが、カウフマンの返答はにべもなかった。

「アホか、この真冬に援軍なんて出したら凍死するわ」

シェール・アリーは仰天し、自らペテルブルクまで行ってロシア皇帝に直訴することを考えるが、

国境まで着いたところでカウフマンに入国を拒否され、失意のあまりハンガーストライキをして死亡した。

その頃イギリス軍もとんでもない大雪で身動き取れない状況だったが、

アフガニスタン側は王が死んでロシアの援軍も来ないとなれば他に選択肢もないので、そのままイギリスに降伏した。


その後、初代駐在官が駐在した途端に王の給料遅配に怒った兵士たちに八つ当たり的に殺されたりと
波乱が続いたものの、

結局のところドースト・ムハンマドの息子のアブドゥル・ラーマンがイギリスによる暗黙の支援のもとにアフガニスタン全土を統一し、この国は英国の傘の下に入ったのだった。


第一期グレートゲームの終焉


356: 2014/08/05(火)23:58:01 ID:TX01Skygg
アフガニスタンについてはこうしてひとまず勝負がついた。

ところがその頃、東トルキスタンの情勢がまた大きく変化していた。

第二次アフガン戦争の前年、1877年にやっとこさ大清帝国がヤークーブ・ベクの存在を思い出し、左宗棠将軍率いる大軍がやって来たのだ。ヤークーブ・ベクはトルファンで惨敗し、毒を仰いで自殺した。

東トルキスタンを回復した清朝は、以後こんなことが起こらないようにこの地域を本国同様に直轄化することにした。

名付けて「新疆省」。新しい領土という意味になる。

ヤークーブ・ベクとうまくいかず、アフガニスタンもイギリスに取られたロシアは、この新疆を狙う。

1881年、イリ条約でロシアは新疆のどこでも好きなところに領事を置く権利をもぎ取った。


グレートゲームの主戦場はこれ以後、さらに東へ移る。

東に移りすぎて、これより先はイスラーム世界の歴史自体にあまり関わりはなくなってくるのだけど話の都合上いちおうグレートゲームに決着がつくまで解説しておくと、こんな流れになる。


イギリスはロシアが東トルキスタンを押さえたのを見て、その南のチベットに介入する。

それに対して、ロシアはまったく予想もしなかった手を打った。シベリア鉄道の建設開始である。

1894年に即位したロシアの新帝ニコライ2世は陸路モスクワから黄海と日本海まで至る鉄道を敷設し、
グレートゲームの前提たる大英帝国の東洋権益を根こそぎ奪い取ろうとしたのだ。

1900年、中国で発生した義和団の乱に際して列強は北京に駐屯した。

ところがロシアだけは乱の鎮圧後も兵を退かず、そのまま満州に居座る気配を見せた。

この動きに対して、英国は東洋の新興国家、日本を抱き込んでロシアを牽制させることにした。

ところが日本は英国の予想や期待をはるかに超え、1905年の日露戦争でロシア帝国を真っ向から撃破してしまう。

このさなかにロシア帝国心臓部で民衆暴動が起き、帝国は一気に動揺を始める。

イギリスもまた新たに勃興してきた強国、ドイツへの警戒を強めつつあった。

1907年、内外の新たな脅威を前にして英露協商が締結され、英露両国はユーラシア大陸における勢力範囲を画定し、グレートゲームは勝負をつけることなくひとまず終了する。


このドイツという新勢力の台頭は、イスラーム世界にも様々な波紋を投げかけることになる。

今夜はここまで。

357: 2014/08/06(水)00:01:22 ID:brM7SaFJr
19世紀に入ってから進んだり戻ったりで時系列がゴチャゴチャしてる。

書いてる方は分かってるけど、読んでる方は混乱しそうだ。

オスマン帝国とペルシアとエジプトを放置していたから、また少し戻らないとだし。

359: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)00:41:40 ID:D8lrxdSJV
おつかれ

グレートゲーム複雑だなあ
ロシアの脅威が止んだと思ったら次はドイツか

361: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)14:18:14 ID:Yb4aRK8sr
アフガニスタンって帝国の墓場なのか・・・w

363: 2014/08/06(水)22:42:16 ID:kwtYBggtr
アフガニスタンに手を出すと碌なことにならない。
いわば中央アジアのベトナムかな。

362: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)19:08:21 ID:SmVbHDIS2
名探偵シャーロック・ホームズの相棒ワトスンは第二次アフガン戦争の傷病兵