part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり


借金地獄に陥るイスラーム世界中央部


364: 2014/08/06(水)22:57:25 ID:kwtYBggtr
19世紀後半、中央アジアで熾烈なグレートゲームが展開されている頃。

イスラーム世界中央部ではオスマン帝国・エジプト・ペルシアが揃って借金地獄に落ちつつあった。


オスマン帝国がクリミア戦争とタンジマート改革の経費がかさんで外債を乱発したことは既に軽く触れたけど、

マクロな経済のレベルで見れば、産業革命を達成した西洋諸国の生産力に太刀打ちできなかったことが経済危機の根本原因。

これはオスマン帝国に限らない。


近代まで周知のようにトルコやイランは華麗な絨毯をはじめ毛織物生産が盛んだったし、インドは世界一の木綿産地で、インド洋交易でもっとも盛んに取引されたのはインド産綿布だった。


ところがそこに蒸気仕掛けの自動織機で大量生産されるイギリス産の布だの糸だのが、

丁寧に梱包されて安値で流入してくれば、西南アジアの何百万もの人々は飯の食い上げに追い込まれる。

各国で近代化政策が進められ、港が整備され、鉄道が敷設されれば、その傾向はますます強まる。

イスラーム世界の大部分の人々にとって近代化は財布と胃袋を擦り減らすものだった。

税収も減るけど一度始まった近代化政策は止めるわけにはいかないし、何より軍を整備しなければ列強にいつ滅ぼされるか分からない。この危機感。

365: 2014/08/06(水)23:11:36 ID:kwtYBggtr
イスラーム諸国は近代化できるものは何でも近代化し、売れるものは何でも売った。


オスマン帝国は1863年に英仏の銀行家たちに紙幣発行権を売り飛ばし、それでも足りず、75年には債務不履行宣言を発出した。

これつまり、「帝国破産」である。


一方ムハンマド・アリー死後のエジプトは、しばらくは好景気に恵まれた。

第3代国主のサイド・パシャは子供時代に自分の家庭教師を務め、孫のメタボ化を心配するムハンマド・アリーの目を盗んでマカロニを食わせまくってくれたフランス人の元外交官レセップスを招き、どーんとスエズ運河を開削した。

運河建設を自国の権益に対するフランスの挑戦と見なしたイギリスが散々妨害したが、1869年、第4代イスマイルの時代になって地中海と紅海は無事開通。


イスマイルはフランスのパリで青年時代を過ごしナポレオン3世の妃のウージェニーに横恋慕していたらしい。

この美貌の人妻を靡かせるべく西洋文化の導入に燃えまくり、公式の場ではフランス語しかしゃべらず、
オペラハウスだの工場だのガス灯だのを建てまくった。

ところが運河完成直後からエジプトの国家財政が急速に傾く。

なんとなれば、遥か大西洋の彼方でアメリカ南北戦争が終結し、しばらく消えていたアメリカ南部産の綿花が大量に雪崩れ込んでエジプトの綿花を駆逐したのである。


というわけで運河完成からわずか6年後の1875年、せっかくのスエズ運河もイギリス政府に売り飛ばされたのだった。

366: 2014/08/06(水)23:31:01 ID:kwtYBggtr
このときいち早くスエズ運河会社の株が大売出しされる情報を察知した英国首相ディズレイリは議会の承認なんぞ取ってる時間がないので、

独断でロスチャイルド銀行から400万ポンドを現ナマ借金し、売りに出された株券を即刻丸ごと買い取ったという。


この決断によって英国はヨーロッパからインドにいたる要衝中の要衝を握り、大英帝国は絶頂期を迎える。


エジプトのその後の運命は対照的である。

イスマイルはスエズ運河を売り飛ばしても利息1回分を払うことしかできず、借金は膨らむ一方。

カイロの町には政府相手の多国籍高利貸し集団が溢れかえり、農民たちも土地を借金取りに取り上げられた。


運河売却の翌年には宗主国様の後を追うように国庫破産を宣言。

そして宗主国様のほうは、懐具合が悪くなって金製ナイフだの札束だのをよこさなくなった属国の王に愛想を尽かしたらしく、1879年6月に一通の電報をよこした。

「『前』エジプト副王・イスマイル殿へ」

イスマイルは退位した。

367: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)23:34:39 ID:FpTy4HGDt
世の中カネやで

369: 2014/08/06(水)23:48:35 ID:kwtYBggtr
エジプト政府は、イスタンブルを首都とする名ばかりの宗主国様をさしおき、最大の債権者たる英仏両政府の共同管理下に入った。

この情けない状況のなかで、軍のエジプト人将校たちが秘密結社を結成し、政府打倒を企てた。


ここで注目すべきは、ムハンマド・アリー朝が元はといえばイスタンブルから派遣された、アルバニア系の国主を戴く外国人支配の王朝だったこと。

もっと言えば、そもそもエジプトは紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシアによる征服以来、一度も切れ目なく外国人の支配者を戴いてきたという、ある意味「逆に凄い」国である。


おそらく古代エジプト人の遺伝子をいちばん濃厚に受け継いでいるであろう、先祖代々ナイル流域で暮らしてきた人々が国権を握ったことなど久しくなかったのだが、ムハンマド・アリー朝のあまりの惨状に、この歴史的伝統も途絶えることと相成った。


1881年9月。
軍は反乱を起こし、ナイルデルタの農民出身のウラービー大佐が陸軍大臣となって政府を掌握した。

ところが列強は自分たちにコントロールできない新勢力の台頭をこれっぽちも歓迎しなかったので、お約束のようにアレクサンドリア沖に英国艦隊が展開し、砲撃開始。

押し込められていた太守のテウフィークが「あいつら叛徒、わしが正統国主」と英国軍に逃げ込んだので
英国軍は中立地帯のはずのスエズ運河から上陸し、ウラービーをひっ捕らえてスリランカに流罪にした。

こうしてエジプトは事実上、大英帝国の属領と化した。

370: 名無しさん@おーぷん 2014/08/07(木)00:01:41 ID:c4lhv9dDd
>一度も切れ目なく外国人の支配者を戴いてきたという、ある意味「逆に凄い」国
歴史って面白いな

371: 2014/08/07(木)00:15:54 ID:wGRYaNI9L
イランのガージャール朝ももちろん借金地獄に墜落していった。


1828年のトルコマンチャーイ条約で治外法権と南カフカスの領土とカスピ海の制海権(制湖権?)と
莫大な賠償金をロシアに持っていかれたガージャール朝は、さすがに「このままではいかん」と悟る。

いちおうアッバース・ミルザーだのアミール・キャービルだのと改革政治家が出てくるのだが、アッバース・ミルザーは早死にし、アミール・キャビールは有能な部下を嫌った国王に暗殺される。

1834年に第2代国王のファトフ・アリー・シャーが死去。

ファトフ・アリー・シャーは稀によくいる「昼間は無能、夜は有能」とか「治世の暗君、後宮の名君」とかいう類の王で100人以上も子供がいたらしい。


というわけで誰が王位を継ぐかが問題になるのだが、ここで呼ばれもしない大英帝国がくちばしを突っ込み、

100人の子供たちのなかでいちばん無能そうなモハンマド・シャーを王位に押し上げた。

もちろん無能だからである。わかりますね?

モハンマド・シャーはロシアに与えたのと同じ利権を英国にもプレゼントした。


以後、北のロシアと南の英国がグレートゲームの西側の草刈り場としてイランを食い荒らすなか、イラン国内ではイスマーイール派だのバーブ教だのの宗教反乱が続々発生。

日増しに財政が悪化するなかで政府の官職が売りに出され、農民からは絞れるだけ税を絞りまくる。

民衆反乱を押さえるためには遊牧部族の族長たちに地方支配を丸投げし、それでも抑えきれない時には
英露両軍がサポートしてくれるという約束を取り付けた。


これ、世間では「保護国」というわけだが。

372: 2014/08/07(木)00:28:11 ID:wGRYaNI9L
要するにガージャール朝ペルシアの支配者たちは総じて無責任でその場しのぎで過ごしていたっぽい。

1872年、カネがないのでイギリス人のジュリウス・ロイター男爵なる実業家に、イラン全土の鉱山採掘権と未開拓地の開発権と鉄道敷設権と関税利権をセットで売り飛ばした。

これにロシアが横槍を入れる。イギリス人を優遇し過ぎだろうというわけだ。

ところが当のイギリス政府もロイター男爵を助けてくれない。ユダヤ人だしドイツの爵位を持つのが気に入らないらしい。

進退窮まったロイター男爵はほとんどの利権を放棄するが、その代わりに「ペルシア帝国銀行」の設立を認められ、イラン国内で流通するオカネは全部自由に作れるようになった。

373: 2014/08/07(木)00:47:23 ID:wGRYaNI9L
この事件をきっかけに「イランは利権をたたき売りしている」というのが定評となり、世界中(=ヨーロッパ中)の強欲連中がイランに殺到して利権を争奪した。

そのひとつとして、1890年にイギリス人のタルボットなる人物に、イランにおけるタバコの生産・販売・輸出の権利一切を今後50年間一括売却する契約を結んだ。

これがイスタンブルのペルシア語新聞にすっぱ抜かれて大騒動になった。

イラン人はタバコ、正確にいうと水タバコが大好きである。

鉱山だの関税だのにはピンと来なくても、身近なタバコが異教徒の商人の思うがままになるというのは
イラン人たちを激しく憤激させたらしい。

イランの事実上の国教はシーア派だが、シーア派の中心はイランではなく、イマーム・フサインの墓廟たる南イラクのナジャフである。このナジャフが動いた。

当時シーア派聖職者の最高位にあったナジャフの法学者、ハサン・シーラーズィーは名前の通り、イランのシーラーズ地方出身で、このあたりの農民たちの気持ちをいたく理解していた。

彼はタバコ利権を激烈に非難し、イラン全土のシーア派信徒たちにストライキを呼びかけたのだ。
「帝国タバコの契約が破棄されるまで、一人としてタバコを吸うなかれ!」


水タバコが三度の飯より好きなイランの髭親父たちも、このファトワー(法勅)には喜んで従った。

全国のバザールの商人たちは店を閉鎖し、法学者たちは「タバコは異教徒が触っているから不潔」と新説を発表した。

かくて国王ナッセロディーン・シャーは、やむなくタバコ利権の付与を撤回する。

違約金50万ポンド。

払えるわけがないガージャール朝はペルシア帝国銀行から金を借り、底なしの借金地獄へ落ち込んでいく。


この世にいう「タバコ・ボイコット運動」が広まるなか、とある人物が活躍する。

彼の名は「ジャマールディーン・アフガーニー」。

19世紀末イスラーム世界における最大の思想家であり、その影響は今日なお巨大である。


今夜はここまで。


アフガーニーの説くイスラーム復興


376: 2014/08/07(木)23:56:39 ID:YpHpOAzgC
ジャマールディーン・アフガーニー。

19世紀末のイスラーム世界全土を遍歴し、いたるところでムスリムの団結を呼びかけ、革命の火を点けた怪人。

この稀代の思想家の生涯、とくに前半生は謎に包まれている。

その名の通りアフガニスタン出身かと思えば、実はイランの出自であるともいう。

彼の足跡が明確になり始めるのは1860年代。

このとき彼はインドに留学し、インド大反乱の決起と敗北をつぶさに見つめ、西欧列強の力と脅威に慄いた。

これ以後、アフガーニーは世界各地をめぐり、列強からの独立を説いた。

そのために不可欠なのはイスラーム世界の団結と復興、そして列強と結んで保身に走る専制君主たちの打倒!

アフガーニーの説くイスラーム復興とは何か。

彼はそれを「ジハード」、つまり「聖戦」という言葉で表現する。

彼の語るジハードとは単に異教徒との戦争だけを指すのではない。

それ以上に大切なことは「内なるジハード」、つまり全イスラーム世界が一致団結して知識を発展させ思想を深め、公正な社会を築くことだという。


アフガーニーの胸は熱く燃えていた。
「いかなる危機の時代にあっても、真のイスラームは断じてオワコンではないのだ!」と。

377: 2014/08/07(木)23:59:28 ID:YpHpOAzgC
1870年代のアフガーニはエジプトで過ごし、この地で多くの弟子を得た。

そのなかで最も知られているのはムハンマド・アブドゥフ。

農民の子として生まれながらアズハル大学で学問を究めた俊英だった。

二人は影と形のごとく寄り添い、帝国主義への抵抗と専制打倒のために煽動も陰謀もテロリズムも辞さない。

彼ら二人のエジプトにおける最高傑作がウラービーの反乱に他ならない。


1880年代、エジプトを追われた師弟は英国を経てパリに赴き、ここで『固き絆』という雑誌を発行した。

これによって広大なイスラーム世界のあらゆる知識人たちに二人の存在と思想が知れ渡る。

ここで弟子と別れたアフガーニーはロシアに移り、多くの政治家たちと接触する。

この地で彼が試みたのはグレートゲームの全面戦争化。

英露対立の火種を掻き立てるだけ掻き立てて二大列強の全面戦争を引き起こし、その混乱に乗じて東方諸民族の独立を達成しようという大胆不敵な術策だった。

だが、あいにく当時のロシアにもカネに余裕がなかったので陰謀は不発に終わる。


かくてアフガーニーはイランへ向かい、ここでタバコ・ボイコット運動を燃え上がらせた。

379: 2014/08/08(金)00:14:45 ID:1z5dKWKYR
ガージャール朝のナッセロディーン・シャーは当初、高名なアフガーニーの滞在を歓迎していた。

しかしアフガーニーは手元に飼うには危険すぎ、歯に衣着せなさすぎる。

タバコ・ボイコット運動でそれを思い知らされたナッセロディーンはアフガーニーを追放した。


こうしてアフガーニーは終焉の地、イスタンブルへたどり着く。

ここで彼は、この時代のもう一人の巨人たるオスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世と出会い、軟禁された。

アブデュルハミトによってガージャール朝への批判を禁じられたアフガーニーは、それでも屈しない。
軟禁される師を訪ねた弟子のひとりに、ひそかに示唆する。

「あれだ、分かるな? 察しろ」

1896年5月。
ガージャール朝ペルシアのナッセロディーン・シャーはアフガーニーの弟子によって射殺された。

かようにまことにきな臭い思想家アフガーニーは翌年癌によって、一説では毒殺によって世を去るが、彼の説いた思想は20世紀のイスラーム世界に多大な影響を残した。

380: 2014/08/08(金)00:23:11 ID:1z5dKWKYR
帝国主義への飽くなき抵抗。
イスラーム世界の大同団結。

近代の現実に合わせたイスラームの再解釈。


アフガーニーの愛弟子アブドゥフは、「イジュティハードの門は開放された」と宣言した。カッコいい。

「イジュティハード」とはイスラーム法の解釈のこと。

かつてイスラーム世界の草創期、急速に拡大する世界のなかで多様な難問に直面した法学者たちは預言者ムハンマドや初期の信徒たちの言行を柔軟無碍に再解釈してイスラーム法を整備していった。

これを「イジュティハード」という。

やがてイスラーム世界の拡大が一息つくと、「イジュティハードの門は閉じられた」というのが定説となる。

もはやイスラーム法は完成した。これ以上余計な手を加える必要はないのだと。

だが、今やイスラーム世界は未曾有の危機に直面し、予想もしない事象に溢れている。

イジュティハードの門を再び開き、現実に合わせて柔軟にイスラーム法を解釈し直すべきなのだと。


後半生のアブドゥフは陰謀だのテロだのからは足を洗い、イスラーム法の再解釈と教育に専念する。

たぶん毒気が強すぎる師匠がいなくなったせいだろう。

アブドゥフ、さらにその弟子であるラシード・リダーらによってイスラーム復興運動は大きなうねりを見せる。


その一方で、アフガーニーの思想と行動のうち、力による帝国主義への抵抗という側面に強く影響される者も多くいる。

それをひたすら突き詰めれば2011年9月11日の某大事件まで行きつくわけで、やはりアフガーニーのインパクトは大きい。


今夜はここまでで。(超短い)

383: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)14:13:59 ID:cyYsoKbr4
>>380
2001年の間違いかな?
お疲れ様です

384: 2014/08/08(金)23:05:33 ID:Eog4Hakhk
>>383
おおう、これは恥ずかしい間違い。地震と混ざってしまった。


さて、続きは今夜、ではなくて明日の朝か昼に。
そろそろ19世紀を抜け出したいなあ。

381: 2014/08/08(金)00:33:23 ID:1z5dKWKYR
(思想史より政治史のほうが面白いんだけどなあ、面倒な時代に入ったわ)

(小並感)

382: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)13:07:20 ID:Q2qr1LL7g

ジハードか

384: 2014/08/08(金)23:05:33 ID:Eog4Hakhk
>>382
ジハードですな。

ちなみにジハードは本来「努力」というような意味で、必ずしも「聖戦」とイコールではないんだけど
どうしても「宗教戦争」のイメージが強くて誤解を招きやすいので、これまで用語として使わなかった次第。

386: 2014/08/09(土)21:26:03 ID:q3czdMq1p
さて、19世紀に入ってから時系列が複雑になっているので、ここでちょっと整理してみようと思う。

書いてる順番としては

「オスマン帝国とエジプトの近代化開始」→「アラビア半島のワッハーブ派と西アフリカの聖戦」→「グレートゲームを軸に東方イスラーム世界の動向」→「オスマン帝国とエジプトとイランの近代化継続と借金地獄」

という感じで、行ったり来たりしているのを、ものすごく大雑把に年表化すると以下の通り。


1790年代
中近東:露土戦争、セリム3世の改革  イラン:ガージャール朝初期  インド:ティプー・スルタンの没落  中央アジア:?


1800年代
中近東:ナポレオン侵入、ムハンマド・アリーの登場、サウード家のアラビア平定  イラン:ロシアと戦争  インド:?  
中央アジア:?


1810年代
中近東:マフムト2世登場、ムハンマド・アリーの台頭、アラビア半島再征服  イラン:ロシアと戦争  インド:?  
中央アジア:?


1820年代
中近東:ギリシア独立戦争、イェニチェリ壊滅  イラン:トルコマンチャーイ条約  インド:?  中央アジア:?


1830年代
中近東:エジプト・シリア戦争、ムハンマド・アリーの屈服  イラン:腐ってる  インド:?  中央アジア:?


1840年代
中近東:?  イラン:腐ってる  インド&中央アジア:第一次アフガン戦争


1850年代
中近東:クリミア戦争  イラン:腐ってる  インド:大反乱  中央アジア:東トルキスタンの回民蜂起


1860年代
中近東:スエズ運河建設中、借金増大中  イラン:腐ってる  インド:まだ書いてない  
中央アジア:ロシアの西トルキスタン征服、ヤークーブ・ベクの東トルキスタン支配


1870年代
中近東:オスマン帝国破産、エジプト破産、スエズ運河売却  イラン:ロイター利権  インド:まだ書いてない
中央アジア:ヤークーブ・ベクの没落、新疆省成立


1880年代
中近東:オスマン帝国はまだ書いてない、エジプトはウラービーの反乱を経てイギリスの属国化、アフガーニー暗躍
イラン:利権大売出し中  インド:まだ書いてない  中央アジア:ロシアの新疆進出、第二次アフガン戦争


1890年代
中近東:まだ書いてない  イラン:タバコ・ボイコット運動、アフガーニー暗躍  インド:まだ書いてない
中央アジア:グレートゲーム終盤へ


1900年代
中近東:まだ書いてない  イラン:まだ書いてない  インド:まだ書いてない  中央アジア;グレートゲーム終盤へ

アブデュルハミト2世の専制政治


387: 2014/08/09(土)21:49:07 ID:q3czdMq1p
年表書いてみたら非常に見づらい・・・

とりあえず、1875年にオスマン帝国が破産したあたりから再開。


このとき、帝国は危機に直面していた。

もちろんここ数十年ずっと危機に直面し続けているのだけど、それにももちろん波があって、75年頃はとくに危機の波が高いタイミングだった。


具体的にいうと、バルカン半島でまたしても正教徒の反乱。

ボスニア・ヘルツェゴビナで減税を求める蜂起が発生し、余裕がない帝国はてっとり早く虐殺で対応。

それに対して毎度のことながら列強が武力介入するという噂が立ち、帝都で学生デモが発生。


ときの皇帝アブデュルアズィズはマッチョのミリオタで、オスマン帝国歴代皇帝としてはじめて西欧を訪れたとき

そこで見かけた軍艦に熱狂し、帝国の財政状況を無視して使いもしない軍艦を大量に買い漁っていた。


その一方、内政面では父のマフムト2世とは逆に保守的な政策を取り、若手の改革派官僚から嫌われていたので、

改革派は学生デモを煽りたててドルマバフチェ宮殿を包囲し、アブデュルアズィズは退位に追い込んだ。


ところが新たに帝位についたムラト5世は精神に異常をきたしていた。

もともと彼はタンジマート改革による新教育制度のもとで育って若手の改革者たちと親しく、新世代の期待の星だった。

だが、それだけに先帝アブデュルアズィズの警戒を受け、長く先帝のスパイに監視されながら軟禁されていた。

見えざる眼と耳への怯えがムラトの精神を蝕み、酒に走らせた。

(ムスリムが酒飲んでいいのかってことについて論じると長くなるのでry)

てわけでめでたく即位したムラトも当初から挙動不審で、入れ替わりに幽閉された先帝アブデュルアズィズが翌年に怪死(自殺臭が漂う)したことで完全に発狂し、廃位された。


帝国の国庫は枯渇。

地方は反乱、都ではわずか2年で2人の皇帝が廃位される。

そしてムラト5世廃位の前にはセルビアとモンテネグロが帝国に宣戦を布告し、列強の本格介入の気配が漂いつつある。

1876年9月。
ムラト5世の後を継ぎ、第34代皇帝アブデュルハミト2世が即位したのは、こんな状況のときだった。
 
Sultan_Abdul_Hamid_II_of_the_Ottoman_Empire
アブデュルハミト2世
photo credit 

389: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)22:06:45 ID:2nHZCtZeA
イラン:腐ってる

うーんw

391: 2014/08/09(土)22:20:14 ID:q3czdMq1p
>>389
イラン、腐ってること実に40年間www

いや、そのあいだにもアッバース・ミルザーの改革とかイスマーイール派の反乱とか
ヘラート紛争とかバーブ教徒の反乱とかいろいろあるんだけどね。
(と言いつつ半分は反乱である)

390: 2014/08/09(土)22:16:38 ID:q3czdMq1p
アブデュルハミト2世はオスマン帝国末期を飾る、良くも悪くも(どっちかというと悪く)大物皇帝なのだが、この時点ではその実力も思想もほとんど未知数だった。

彼が即位した時点で、セルビア・モンテネグロがオスマン帝国と開戦。

相手がバルカンの小国に過ぎないのでさすがに帝国側が勝利するが、正教諸国の盟主を自認するロシアが
ここで圧力をかけ、休戦を強要。

情勢がややっこしくなってきたので列強が介入し、イスタンブルでバルカン問題を整理する国際会議が予定されていた。

内紛状態の帝国側としては会議で有利な立場を確保するためにも、近代化改革を再開し、列強に対して「いい子」のフリをする必要がある。


そこで勅令発布。

改革派官僚たちの中心だった大宰相の「ミドハト・パシャ」に命じて、憲法を制定させたのだ。

これがアジアで最初の憲法として知られる「ミドハト憲法」である。

ミドハト憲法のなかで、帝国の全臣民は信じる宗教に関係なく「オスマン人」と呼ばれることになっており、選挙によって議会を開くことが規定されていた。

憲法はあらゆる国法の頂点に立ち、支配者をも拘束する。

絶対専制君主だったオスマン皇帝も遅ればせながら西欧風の「立憲君主」に宗旨替えし、時代遅れのイスラーム法に変えて西欧風の近代法体系が整備される・・・かに見えた。


しかしアブデュルハミト2世はさりげなく、こんな一節を憲法に追加させた。

「非常事態の際には戒厳令を発布し法律と文民統治を一時的に停止する。治安当局の調査によって
 政府の安全を破壊する者が明らかになった場合、皇帝はその者を国外に追放する権利を有する」


アブデュルハミト2世はこの条項に基づき、第一回議会招集を前にミドハト・パシャを国外追放とした。
どうやら新帝は立憲君主制などお気に召さない様子。


「ミドハト憲法」の制定を持っても列強は納得してくれなかったので国際会議は間もなく決裂し、翌1877年にはロシア帝国が宣戦布告した。


バルカン半島では上から押し付けられた「オスマン人」などという概念に何の実感も持てなかった正教徒たちが続々蜂起し、怒涛のように南下したロシア軍は、1878年2月に帝都イスタンブルから10キロしか離れていないサンステファノ、現アタテュルク国際空港の一帯まで到達して終戦。

この危機の中、アブデュルハミトは議会を「一時休止」し、憲法を「一時停止」した。

以後、30年間にわたってアブデュルハミト2世の専制政治が続くことになる。

392: 2014/08/09(土)22:40:57 ID:q3czdMq1p
たぶん、アブデュルハミト2世は先立つ2人の皇帝が「改革派」によって次々に廃位されたのを見て、何よりもまず「改革派」から身を守ることを優先したのだろう。


憲法停止後、アブデュルハミトは秘密警察を組織し密告を奨励して権力強化に努めた。

その成果はすぐに現れる。

没落した改革派たちが廃帝ムラト5世が幽閉されるチュアラン宮殿を襲撃し、彼の復位を企てたのだ。

この事件を機にアブデュルハミトは国外追放したミドハト・パシャらを含む改革派官僚たちを一掃し、宮殿の奥深くに引きこもって絶対支配を開始する。


とはいえ、彼は彼なりに有能な統治者だった。

彼のもとで中央集権化は著しく進み、道路・鉄道・海運・郵便・電信・各種産業も大いに発達した。

財政再建にも努力し、政府と宮廷の支出を切り詰めるだけ切り詰める。


一方で教育の振興にも尽力した。

全国民の初等教育が義務化され、各種専門学校や大学も整備。

財政破綻の中でも教育分野には惜しみなくカネが注ぎ込まれた。

カリキュラムも昔ながらのコーラン暗唱大会は取りやめにして、西欧的な実学を奨励した。


改革派官僚たちを嫌悪したアブデュルハミトだが、帝国の未来のために近代教育が欠かせないことは理解していたのだろう。

その肖像は同時代、清朝末期に国権を握った西太后を彷彿させる。

帝国末期の独裁者は権力保持を優先して改革派の官僚たちを粛清するが、実は誰よりも改革の必要性を理解し、一人孤独にその努力を続けるのだ。

393: 2014/08/09(土)23:06:52 ID:q3czdMq1p
けれどその営みは孤独で誰にも理解されず、報われることもない。

たった一人、歴史の殿軍にたって終わりなき敗走を続ける末世の皇帝。

懸命に滅びゆく国家を支えようとしても、その周囲であらゆるものは音立てて崩壊し続ける。



オスマン帝国の領土は減り続ける。

アブデュルハミト即位早々の露土戦争敗北の結果、バルカン山脈以北のブルガリアとボスニア・ヘルツェゴビナを喪失。

これによってオスマン帝国は領土の4割と550万の人口を失った。


その時すでにエジプトは事実上帝国の手を離れ、シリアも列強の影響下にある。

エジプトより先に続くアルジェリアやモロッコなど北アフリカ地域も、19世紀初期からフランスに蚕食されつつある。

三大陸に君臨したスレイマン大帝の時代は遠い夢の幻と化している。


失われた領土から大量のムスリムが帝国領に流れ込む。

難民になった彼らは帝都イスタンブルの人々に、自分たちを故郷から追い出した「異教徒ども」の暴虐を語って聞かせる。

残された領土にあってもナショナリズムという「疫病」の蔓延はやむことを知らない。


ムスリムと非ムスリムの平等をうたう理念とは裏腹に、帝国各地で異なる宗教、異なる民族間の紛争、暴力と抑圧が広がっていく。

アルメニア人たちは政府高官を標的とする爆弾テロに走り、ムスリムたちはこれに報復し、1894年には東部アナトリアとクルディスタンでアルメニア人とムスリムの大規模な衝突が発生。


マケドニアではブルガリア人、ギリシア人、セルビア人、ワラキア人、アルバニア人など、混在する諸民族が対立し、それを各民族の「本国」が支援し、裏では列強が自国の影響力拡張を図る。

げに、バルカン半島は「世界の火薬庫」と化していく。


帝国を侵す暴力の渦の中で、二つの機運が生まれる。

ひとつは、いまあらためてオスマン帝国がイスラーム世界の盟主であるという誇りを取り戻そうというもの。

そしてもう一つは、異教諸民族の海に包囲された帝国中心部のムスリムたちもまた、ひとつの「民族」であるという主張。

久しく忘れられていた「トルコ人」という概念が蘇る。

オスマン帝国は諸民族の融合にあらず、トルコ人が三大陸を支配した栄光の国家なのだ、と。

要するに、ついに帝国中枢までもが「疫病」に感染しはじめたということになる。

394: 2014/08/09(土)23:28:47 ID:q3czdMq1p
帝都イスタンブルにイスラーム世界復興を説く思想家アフガーニーが姿を現したのもこの頃だが、アフガーニーを幽閉し毒殺したアブデュルハミト2世もまた、イスラーム世界の大同団結を図ろうとしていた。

ただし一つだけ譲れない条件がある。

大同団結したイスラーム世界に君臨するのは、この自分である。


この頃、「オスマン帝国の皇帝は実はカリフでもあるんだぞー」という宣伝が大々的になされた。

なんでも16世紀にセリム1世がマムルーク朝エジプトを征服したとき、マムルーク朝が保護していたアッバース朝カリフの末裔をイスタンブルに連れ帰り、カリフの地位も譲られたのだという。


そんな話は当時の記録のどこにも一言も書いてないし、そもそもイスラーム法の多数意見では預言者ムハンマドの一族、クライシュ族の血を引いていないとカリフに就任する資格がないはずなので中央アジアから来た遊牧民の子孫がカリフなんぞになるのはおかしいのだが。

最盛期オスマン帝国は本当に超大国だったので、18世紀あたりからなんとなく語り伝えられていた伝説が
ここにきて一躍表舞台に。

オスマン皇帝は「スルタンカリフ」なのだと宣伝される。


カリフを兼任するのであれば、オスマン帝国皇帝の権威は帝国の領土を越えて、スンナ派イスラーム世界の全土に及ぶ。

ここで今更持ち出されるのが19世紀初頭のキュチュク・カイナルジ条約にさりげなく入っていた一節。

「ロシア皇帝はオスマン領内の正教徒の保護権を持つ。オスマン皇帝はクリミア半島のムスリムに対する精神的な権威を持つ」

これまで前半ばっかりやたら援用されてきたわけだが、ここにきて後半が俄然脚光を浴びる。

クリミア半島のみならず、世界中のムスリムはみんなオスマン皇帝の精神的権威のもとにあるという後付け設定。


アブデュルハミト2世はこういう方向で帝国の権威を復活させようとした。

これを「汎イスラーム主義」という。

実際、列強の侵略・圧制に苦しむインドや東南アジア、中央アジアやロシアのムスリムたちはこぞってオスマン皇帝に使者を送って(あまり期待はしていないにせよ)助けを求めてきた。


アブデュルハミト2世は「イスラームの連帯が続く限り、イギリス・フランス・ロシア・オランダは余の掌中にある。余が一言発すれば、たちまち全世界で聖戦が起こる」とまで豪語した。


その虚しさは彼自身が誰よりも分かっていただろう。

世界各地のムスリムたちは確かに今なお列強に抗して地中海の一角を支配する老大国に敬愛を示したが、
それは所詮、敬愛でしかなかった。


アブデュルハミト2世はこうも言う。
「聖戦はいわば伝家の宝刀。時が来るまでこれを用いてはならぬ」

そんな時などきっと永遠に来るわけがないのだから。

396: 2014/08/09(土)23:42:00 ID:q3czdMq1p
もっとも、イスラーム世界の連帯を説く思想は色合いを微妙に変えつつ、19世紀末の世界各地で唱えられていた。

アフガーニーとその弟子アブドゥフもその一人。

アブドゥフのさらなる弟子、シリア人のラシード・リダーは1897年に『マナール』という雑誌を発行した。

このタイトルはアラビア語で「灯台」を意味する。

暗黒時代のなかで輝く灯台のように、イスラーム世界の団結と復興を宣べ伝えようという趣旨だ。

『マナール』は「イスラームの原点に立ち返ろう!」と主張した。

これを「サラフィー主義」という。「サラフ」とは「父祖」を意味する。

そんな『マナール』の思想に強く影響を受けた人物の一人に「ハサン・アルバンナー」というエジプト人がいる。

やがて彼が築き上げることになる「ムスリム同胞団」という政治団体は20世紀、さらに21世紀にまで
強烈な存在感を示し続ける。

そう、パレスティナのハマスも、イラクのISISも、元はといえば同胞団の分派だし。


話が飛び過ぎたけど、当時の汎イスラーム主義の思想家としては、ほかにクリミア半島のガスプリンスキーなんかも有名。


なお、アブデュルハミト2世はオスマン帝国の権威を世界中のムスリムたちの目に見せようと思い、最新式の軍艦に世界一周を命じる。

ところが残念ながら、このエルトゥールル号という軍艦は地球を半周して極東の新興国日本の沖合に差し掛かったところで、嵐に遭遇して難破してしまう。

熊野灘の波は荒い。

404: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)00:20:57 ID:ZebivsH36
ここでエルトゥールル号が出てくるのか

エルトゥールル号遭難事件
1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールルが、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。

この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。

現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。
ErtugrulFirkateyn

wikipedia 

398: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)23:52:26 ID:JRJbFdHkR
スルタンカリフを言い出したのはそういうことなのね

今はもう否定されてるけど、一昔前までは教科書にも載るくらい認められていたんだよね

399: 2014/08/10(日)00:01:43 ID:6bwQqc9HF
>>398
まあスレは単純化して書いてるから、実際はもう少し前からスルタンカリフ制が唱えられていたようだけど、脚光浴びたのはやっぱりアブデュルハミト2世の時代じゃないかな。

ちなみにスレではカタカナ用語をなるべく減らしたくて、オスマン帝国の支配者を基本的に「皇帝」と書いてるけど、同時代では「パディシャー」と呼ぶことがいちばん一般的で、

他には単純に「スルタン」とか、アラビア語・ペルシア語・モンゴル語をハイブリッドした「スルタン・シャー・ハン」、時にはローマ皇帝に由来する「カイサリ」という称号が使われることもあったらしいね。

401: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)00:13:14 ID:mMe6boPMc
そういえば、スルタン位と言ったらメフメト2世の「兄弟殺し」があったな

402: 2014/08/10(日)00:17:04 ID:6bwQqc9HF
>>401
兄弟殺しや幽閉をしている皇帝は結構いるよ。

初期のバヤズィット雷光王なんか、コソヴォの戦いの最中に父王が捕虜に刺殺されると前線指揮中だったけどすぐに本陣に駆け戻って陣中即位を宣言し、同じ戦場で戦っていた兄弟たちを即刻ヌッ殺して帝位を安泰ならしめたw

ただし一部の本に書いてある「オスマン帝国が兄弟殺しを制度化していた」ってのはネタだと思うけどね。

スレイマン大帝は最初から兄弟がいなかったのでラッキーだった。

403: 2014/08/10(日)00:19:21 ID:6bwQqc9HF
バヤズィット1世が>>80で、今が400越えか。
なんで19世紀がここまで膨らむのか書いていても謎。

405: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)01:23:26 ID:9SQieWzvu
何かイランって他の国に比べてどうにも国家統治体制が未成熟なんばっかだな

406: 2014/08/10(日)01:33:45 ID:6bwQqc9HF
>>405
うーん確かに。

と言っても、かつてアケメネス朝ペルシアやササン朝ペルシアを築き、アッバース朝全盛期やモンゴル帝国時代に有能な文人官僚を輩出したイラン人は政治的に無能だとは思えないんだよね。

セルジューク朝以降、絶え間なく遊牧民に国内引っ掻き回されていっぱいいっぱいだったのかな。

今もイランの政治状況はゴチャゴチャしてるけど、イラン人一般の教育レベルとかは凄く高い(らしい)。