part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興

ドイツ帝国の野望


Kaiser_Guglielmo_II
ヴィルヘルム2世
photo credit 

407: 2014/08/10(日)02:01:30 ID:6bwQqc9HF
19世紀の終わりが近づくころ、世界を支配する列強のなかにドイツ、イタリア、日本といった新勢力が台頭し始めた。

とくに1871年に成立したドイツ帝国はオーストリアとフランスという二大強国を破り、19世紀末ヨーロッパの政局を自在にコントロールしてみせた。

新興のドイツ帝国は海外植民地をほとんど持たず、帝国主義の戦場では後発だった。

イスラーム世界では、この新興勢力が旧来の列強を押さえ、新しい時代を開いてくれるのではないかという期待が広まった。

オスマン帝国からは多くの青年がドイツに留学して政治や軍事を学び、ドイツの軍人や政治家たちと人脈を築いた。

ドイツもまた野心を育んでいる。

1888年、29歳でこの新興国の帝位を継承したヴィルヘルム2世は辣腕の宰相ビスマルクを疎んじ、対外膨張論者を集めだした。

「ドイツ、世界に冠たるドイツ!」


ヴィルヘルム2世は1898年、イスタンブルに来訪。

皇帝アブデュルハミト2世や陸相エンヴェル・パシャをはじめ、上下の人士に熱烈な歓迎を受けた。

オスマン帝国と誼を通じたヴィルヘルム2世は遠大な東方計画を実現に移す。

それは目の上の瘤、大英帝国が抑えるアジアの富を奪うべく、ベルリンからペルシアに至る鉄道を敷設することだった。

このときベルリンからイスタンブルまでの鉄道路線はすでに完成していた。いわゆるオリエント鉄道である。

ドイツはオスマン帝国の認可を受けて鉄路をさらに東へ延伸し、アナトリアの山間を越えてメソポタミアに抜け、イラクのバグダードを経てペルシア湾頭のバスラとクウェートまでを結ぶことを画策した。


これによって英国が握るスエズ運河を経由することなく、直接東洋へのアクセスが可能となる。

一朝事あらば大軍を直ちにオリエントへ展開することもできよう。

アブデュルハミト2世はこの申し出を快諾した。

もちろんアブデュルハミトにも思惑はある。鉄道が完成したら適当な口実を設けてすぐに国有化するつもりだった。

加えてドイツ諜報部は中近東一帯に「カイザー・ヴィルヘルムはイスラームに改宗した」という奇妙な噂を流す。

イスラーム世界にドイツへの好感を広めれば、いずれ大英帝国統治下のムスリムたちを一斉蜂起させられるのではないか。

ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らない。


スーダンの救世主 ムハンマド・アフマド


412: 2014/08/10(日)02:31:18 ID:6bwQqc9HF
さて、ヴィルヘルム2世にロックオンされてしまった大英帝国の側だが、こちらはそろそろ足腰に衰えを感じる頃合いとなっていた。

それを象徴するのは1881年に始まるマフデイー戦争と1899年のボーア戦争での大苦戦、そしてヴィクトリア女王の崩御。

長年七つの海に君臨し、ロシア帝国とユーラシアを二分するグレートゲームを展開してきた英国も、ドイツに追い上げを食らいはじめる。


マフディー戦争というのは、スーダンでエジプトの支配への抵抗として始まったもので、スーダン人指導者のムハンマド・アフマドが「マフディー」、つまり「救世主」を自称したことが名前の由来。

スーダンは1819年からムハンマド・アリー朝のエジプトに支配され、重税を課されていた。

加えて伝統的な奴隷貿易を禁止されたことがスーダン人の怒りに火をつけた。

奴隷貿易なんぞ無いほうがいいと思うけど。


イスラーム復興主義を標榜する武装教団で修行を積んでいたムハンマド・アフマドは、イスラーム暦の13世紀が終わろうとする1881年、イスラーム的世紀末ムードの波に乗って突如宣言した。

「我はマフディー、終末の世に遣わされた救世主なるぞ!」と。


ムハンマド・アフマドに関する記録は敵対していたエジプトやイギリスによるものが多く、その実像はおそらく歪められている。

だから彼がどのようにして台頭したのか、確かなことはよく分からない。

いずれにせよ、彼のメッセージはスーダン人たちの心を掴み、「救世主」のもとでエジプトに対する独立戦争が始まった。

415: 2014/08/10(日)02:36:57 ID:6bwQqc9HF
この救世主は人々の宗教的情熱を煽る才能に長けていた。

戦略的後退を預言者ムハンマドの「聖遷」(メッカで迫害されたのでメディナに逃げた例の事件)に
なぞらえて信徒の戦意を掻き立てつつ、南の砂漠の奥深くエジプト軍を誘い込む。


スーダン人たちは装備に乏しく、棒や石を武器にしていた。

エジプト軍は、まあ無理もないと言わざるを得ないけど、それを見てスーダン人を完全に舐めてかかり、
見張りも立てずに野営したところ、マフディー軍の総攻撃を受けて壊滅した。

こうしてマフディー軍は大量の武器弾薬から軍服までをゲット。

一夜にして軍の近代化が達成されたのだった。

418: 2014/08/10(日)03:04:51 ID:6bwQqc9HF
1883年、エジプトは本腰を入れてマフディー討伐を図り、再度スーダンに遠征軍を送り込む。

この軍はヨーロッパ人士官が指揮する精強部隊、のはずだったが何しろ国庫にカネがないので兵士の給料すら払われない。

マフディー軍は総勢4万に達する。彼らは救世主の下で聖戦の情熱に燃え、過酷な訓練を繰り返し、死を恐れない。

そして敵将ムハンマド・アフマドは戦術の天才だった。

意気上がらぬエジプト軍は、エル・オベイドの戦いで大敗した。


この頃、財政破綻しているエジプト政府は英国の完全統制化にある。

英国の経理官は属国エジプトにムダ金は一文の支出も認めない。

「スーダンの狂信土人ども」との戦争継続などもってのほかである。

どうせスーダン自体がろくに収益も上がらない砂漠と沼地で、ワニとラクダと遊牧民しか住んでない。
いい機会だからあんな土地捨ててしまえ、ということになった。

とはいえスーダンには未だエジプトの駐屯軍が残り、責任ある宗主国としては彼らの撤退をサポートせねばならない。

そこで大英帝国は、伝説の男を投入。「チャールズ・ゴードン」である。


CGGordon
チャールズ・ゴードン
photo credit 


今ではほとんど忘れ去られた人物だが、当時七つの海に君臨する大英帝国では知らぬ者の無い名将だった。

彼の軍歴は東洋で積まれた。アロー戦争、太平天国の乱で活躍し、清朝皇帝から勲章を授与されたこともある。

ゴードンは英国の誇りでありヒーローであったのだが、ひとつだけ弱点があった。


プライドが高すぎたのだ。


スーダンのハルツームに入ったゴードンはマフディー軍5万に包囲される。(いつの間にか1万増えてる)

彼はスーダン各地に散らばる駐留軍たちが全て撤退するまでハルツームを去ることを拒絶。

名誉の命じるところに従って自ら囮を買ってでたのか、単純にニゲルノカッコワルイと思ったのかは不明である。


で、手遅れに。

救援が派遣されるもギリギリで間に合わず、ゴードンと将兵たちはことごとくマフディー軍に虐殺されてしまった。

ヴィクトリア女王以下、大英帝国の全国民は計り知れない衝撃を受け、グラッドストーン内閣は国中から罵倒を食らって退陣。

そして英国はスーダンから完全に手を引いたのだった。

419: 2014/08/10(日)03:24:10 ID:6bwQqc9HF
それから十数年の歳月が流れた。

この間にムハンマド・アフマドが世を去り、人々は動揺した。救世主が救世する前に死んでしまうとは!

エチオピア、イタリア、ベルギーとの戦争もあり、スーダンは疲弊。

マフディー国家は何しろ周囲の全勢力に敵視されているのだ。

大英帝国はエジプトの軍と財政を再建し、機が熟したことを悟るとスーダン再征服に乗り出した。

英国軍は前回の轍は踏まない。

砂漠深く引きずり込まれることもなく、ナイル川に沿って鉄道を敷設しながら慎重に慎重に南下する。

スーダン側の兵の数は圧倒的に多いが、万全の装備を整えてきた大英帝国の敵ではない。

すでに救世主はおらず、彼が掻き立てた情熱も衰えつつあった。

1898年、ハルツーム近郊のマフディー国家の中枢、オムドゥルマンの戦いでマフディー軍は惨敗した。


なお、残党が南部スーダンに逃走したので英国軍はこれを追跡するが、翌年ナイル河畔のとある村で
予想もしなかったものを見出す。

村の小屋の上に高々と翻るフランス国旗。


「なんでこんなところにおまえ等がいんのや!」

「あんたらこそ、なんでこんなところに出てくるんや!」

あわや全面戦争になりかけるところだったが、落ち着いて状況を確認すると事態が判明した。

かねて西アフリカから大陸横断政策を進めていたフランスが、ちょうどこの時ナイル川まで達しており、
そこにたまたまマフディー残党を追跡する英国軍も登場したというわけだった。

世にいう「ファショダ事件」である。

かくのごとく列強の世界制覇は完成しつつあったが、かくのごとく大英帝国ももはや全盛の勢いはなかったのだ。

イスラーム世界に衝撃を与える日本


425: 2014/08/11(月)00:21:43 ID:2kxjvoO5i
19世紀後半に台頭し始めた新たな列強諸国。

そのなかでとりわけ予想外だったのは、ヨーロッパから地理的に遠く離れた極東の日本だった。

イスラーム世界では中世より、世界の東の果てに「シーン」という大帝国が存在することはよく知られていた。

また若干の地理書や世界図によれば、シーンの東には「シーラー」という半島があり、その沖合に「ワークワーク」という島国が存在していた。

しかし「ワークワーク」がいかなる国なのかについてはほとんど知られておらず、関心も持たれていなかった。


イスラーム世界はモンゴル帝国以降に一段と東方に拡大した。

しかしその前線は中国沿岸で停止し、それより先に進むことはなかった。

だから19世紀半ばに日本という国が国際政治上に姿を見せた時点では、イスラーム世界の知識人たちも
この国についてほとんど知らなかっただろうし、興味を持つ理由もなかっただろう。

ところがこの新興国家はアジアの数多の国々の中でも並ぶものがないほど急速に近代化を進め、東方世界の覇者であった大清帝国を破り、東ユーラシアの動向に大きな影響を与える存在となる。


そして1904年。

英国と結んだ日本は、かねて朝鮮半島と中国東北をめぐって対立していたロシア帝国と開戦する。

いかに新興の強国といえども所詮アジアの小国。さすがにロシアの勝利は動かないと世界中が予想した。

ところが日本軍は次々にロシア軍を破り、ついにロシアをシベリアに追いやることに成功する。

日本の勝利は、長らく欧州列強の圧迫に苦しむイスラーム世界に大きな驚きを与える。

426: 2014/08/11(月)00:33:06 ID:2kxjvoO5i
この頃、アラビアの砂漠に深く分け入った英国の女性探検家ガートルード・ベルは至るところでベドウィン族の族長たちが日本の勝利についての質問を浴びせてきたと記している。

エジプトでは政治家ムスタファ・カーメルが『昇る太陽』という日本小史を書き、詩人ハーフェズ・イブラヒムは『日本の乙女』なる、鳥肌を禁じ得ない大長編ロマンポエムを堂々発表。

オスマン帝国でも「ミカド」や「アミール・トーゴー」や「ノギ・パシャ」が大きな話題となった。

そして長いあいだ腐っていたイランにもまた、日露戦争における日本の勝利は大きな衝撃を与える。

何しろイランはオスマン帝国以上に、長らくロシアの圧迫に苦しんでいた。

そのロシアを、ぽっと出の極東の小国があっさり打ち破って見せるとは。

日本とイラン、どこで差がついた。慢心、環境の相違、などと知識人たちの間でいろいろ議論が交わされ、どうやら「カーヌーン」、つまり憲法の存在こそが日本の勝利の秘訣ではないかという結論に至る。

もちろん法律ひとつが直接に戦争の勝敗を決めるわけではない。

憲法の制定によって古臭い専制を立憲君主制に改め、議会を開いてみんなで物事を決めましょうという
「近代的」な政治システムこそが日本の国力を急速に高めたのであろうという推測である。

427: 名無しさん@おーぷん 2014/08/11(月)00:47:18 ID:dPAw5tV6K
ワークワーク!

430: 2014/08/11(月)00:52:04 ID:2kxjvoO5i
>>427
シーン=秦
シーラー=新羅
ワークワーク=倭国

だろうねー多分。

429: 2014/08/11(月)00:50:22 ID:2kxjvoO5i
そんな空気が広まっていたガージャール朝の都テヘランにて、1906年に一つの珍事が起こった。

正直言うとこの話が事実かどうか裏付けが取れていないんだけど、くだらな過ぎてワロスなので書き記す。


それより少し前、相変わらずカネがないガージャール朝はイラン全土の関税業務をロシア帝国に売却した。

ロシア皇帝はすでに反感を買いまくっているイランに自分の部下を直接送り込むのは嫌だったので、ベルギー人のジョゼフ・ノウスなる人物を代理公使ということにして、テヘランに送り込んだ。

そういうわけで、ノウスはイラン人たちに大いに嫌われていた。

そんなところでロシアが日露戦争に敗北。

本国では血の日曜日事件だのクロンシュタット軍港暴動だので、ロシア帝国の威信が急落する。

ところがノウス公使は、もともとロシア人でもないだけに、そのへんの認識がいまひとつ欠けていたらしい。

とある仮装舞踏会で冗談半分、ウラマー(イスラーム法学者)に仮装して大ウケというのをやらかしたらしい。

ところが誰が盗撮したのか、この写真がたちまちバザールにばら撒かれて大騒ぎになった。

たちまち怒りの表明としてバザールが閉鎖され、抗議集会が開かれ、ノウス解任が要求され、どさくさまぎれに内閣総辞職だの憲法制定しろだの、あんまり関係なさげなシュプレヒコールも出てくる状態。

でもって、政府側がロシア軍を呼び込んで騒動を強制鎮圧し、バザールは軍の略奪祭りにされるという噂が。

これが「イラン立憲革命」の発端となった、らしい。

431: 2014/08/11(月)01:01:28 ID:2kxjvoO5i
イランには、もともと「バスト」という習わしがあった。


まあイランに限らず、日本でもヨーロッパでも世界中に似たようなものはあるんだけど、特定の場所、聖域っぽいところに逃げ込むと官憲も手を出せないという文化である。

具体的にいうと、イマームの霊廟とか王宮の馬小屋とか、よくわからんのだと壊れた大砲にしがみつくとか。

バザール略奪祭りの噂に怯えたテヘラン市民もさっそくバストをやることにした。

といっても、近頃は世も末ゆえ生半可な場所にバストしたところで、遅かれ早かれタイーホ必定。

そんななか、誰かがものすごくうまい手を思いついた。

「王も兵士もロシア人でさえも、絶対に手を出せない場所がテヘランに一か所だけあるじゃないか!」

バザールの商人たちが向かった先はイギリス公使館だった。

432: 2014/08/11(月)01:10:35 ID:2kxjvoO5i
彼らはイギリス公使にさりげなく質問した。

「もし暴君によって不当にタイーホされそうな者が公使館に避難してきたら、保護を受けられるかね」

「保護するよ」

言質を得たので、さっそく商人たちが公使館にやってきた。

「暑いので庭で休ませてくれ。テントと絨毯持ってきたよ」


以後、続々とテヘラン市民が英国公使館に流れ込む。

何しろ天下の大英帝国公使館である。無駄に敷地が広い。そりゃもう広い。

最終的に1万4千人が公使館の庭を占拠し、公使館に入りきれなかった人々もそれぞれ適当な聖者廟とかに立て籠もった。


おそらくタバコ・ボイコット運動がきっかけになって、イランの人々は自分たちが団結し、本気になって抵抗すれば王も我意を通せないということを学んだのだ。

それに、ボイコット運動を主導したウラマー(イスラーム法学者)たちの威信が高くなっていたので、法学者たちが声をあげれば大衆が一斉に動き出す素地もできていた。

そういうわけで、国王はとうとう憲法制定と議会設立を呑まされた。

433: 2014/08/11(月)01:23:43 ID:2kxjvoO5i
ああ、なんか話が飛んでしまった。

ノウス解任も内閣総辞職も呑まされて、ついでに憲法や議会も呑まされたのである。


政府の側も黙っているわけではなく、やがて反撃に出ようとする。

といっても自力で民衆を抑える自信はないので、難しそうだったらロシア軍に来てもらう予定。

しかしイランの民衆はしたたかだった。

彼らはもはや王を恐れていないし、ウラマーだってついている。

ウラマーがついているということは、正義は我にありということだ。


立憲革命が始まった頃から、民衆は「アンジョマン」という自治組織を作って日常生活上の問題も揉め事もその中で解決し、新聞を回し読みして世の中の情勢というのを勉強しあっていた。

ガージャール朝なんぞ、もはやポーイしても誰も困らんのである。

むしろ最初から誰も困らなかったのだけど、そのことにようやく気付いたというべきか。


政府軍の鎮圧が始まると、民衆は堂々と武器を取って立ち上がった。

その中心になったのは「ルーティー」と呼ばれる人々。

これは「任侠の徒」と訳されることが多くて、要するに社会の裏街道を歩いている兄ちゃんたちであろう。

ルーティーたちはイラン各地で民衆を組織して自警団を作り、何か月も籠城して勇敢に戦った。


結局のところ、最終的には「こりゃムズイわ」と悟ったガージャール朝がロシア軍を呼び込み、ルーティーたちの抵抗も粉砕され、議会は閉鎖されてしまう。

しかしこの立憲革命でイランの民衆は目が覚めた。

もはやイランは腐っていない。ガージャール朝も逝ってよし。


1925年、ガージャール朝ペルシアは将軍レザー・ハーンの反乱によって滅亡し、パフラヴィー朝イランが成立することになる。

434: 名無しさん@おーぷん 2014/08/11(月)01:34:16 ID:dPAw5tV6K

イランの話はもう90年前まで来たか

436: 2014/08/11(月)01:34:58 ID:2kxjvoO5i
>>434
その頃生まれてまだ生きてる人いるだろうね

435: 2014/08/11(月)01:34:22 ID:2kxjvoO5i
ついでに余談。

イブン・フルダーズベという9世紀の地理学者と、10世紀のブズルク・イブン・シャフリヤールという
旅行家だか地理学者だかによるワークワーク情報を羅列してみる。

・シーンの東方にある(正しい)

・黄金と黒檀を産出(間違いではない)

・猿の首輪や犬の鎖、衣服も金でできてる(妄想)

・人間の首にそっくりな実がなる木があって、風が吹くと実が泣き叫ぶ(妄想すぎる)

437: 名無しさん@おーぷん 2014/08/11(月)01:56:13 ID:dPAw5tV6K
ワークワークの伝説というか妄想のもとはやっぱり徐福辺りからかな

441: 2014/08/12(火)01:06:15 ID:3Ys0BCrv7
>>437
唐宋代(奈良・平安)の日本が砂金や螺鈿を輸出していたのは事実だから、 単純にそこから「黄金の国」という誤解が生じたんじゃないかな。

ワークワークの樹については、太宰府あたりで罪人の晒首でも見たか。

440: 名無しさん@おーぷん 2014/08/11(月)22:21:20 ID:sZHAHUnyH
最近のトルコ大統領選や、ガザ停戦に向けたエジプトの仲介といったニュースに俄然興味出てきたw


オスマン帝国の統一進歩団


442: 2014/08/12(火)01:25:49 ID:3Ys0BCrv7
オスマン帝国ではアブデュルハミト2世の専制に対する不満が高まり始めていた。

アブデュルハミトは帝国近代化のために教育改革に力を注いだのだけれど、若者たちが西洋的な教育を受ければ受けるほどに、自国の専制に対する反感が強まる。

皇帝にとって悲しい矛盾ではある。

19世紀が終わる頃からアブデュルハミトの専制打倒とミドハト憲法復活を目指す いくつもの秘密結社が生まれては潰され、生まれては潰された。

やがて、それら多くの秘密結社は「青年トルコ党」と総称されるようになる。

青年トルコ党のなかでももっとも有力なのが、サロニカを拠点とする「統一進歩団」というグループで、
これには多くの若い軍人たちも密かに参加していた。

アブデュルハミト2世の専制は内側から掘り崩されつつある。


それが一挙に瓦解したのは1908年のことだった。

そのきっかけは、エストニアで英国王とロシア皇帝がバルカン半島の諸問題について会談を行ったこと。

青年トルコ党に属する将校たちは、これを「いよいよ列強がオスマン帝国を完全に分割する準備に入った」と誤解。

「もはや猶予なし!」と見て、一斉に蜂起したのだ。

アブデュルハミト2世は直ちに反乱鎮圧の部隊を送るが、この鎮圧軍自体が反乱側に寝返ってしまう。

秘密警察網を張り巡らし、幾度も粛清を繰り返した専制君主への不満はあまりに広く根を張っていた。

敗北を悟ったアブデュルハミト2世は憲法復活を宣言し、秘密警察解散も受け入れた。

こうして30年間にわたる専制の時代は終わりを告げる。

443: 2014/08/12(火)01:45:46 ID:3Ys0BCrv7
しかし事態が意外にとんとん拍子に推移したためか、専制打倒に成功した統一進歩団は歩調を乱す。

次に何をするのか意見がまとまらず、アブデュルハミト2世は権力復活を画策しはじめる。

そんなオスマン帝国の政情不安を見透かされたのだろう、バルカン半島の残るスラブ系諸民族が続々と独立を宣言。

帝国内部でも秘密警察が解散した途端にそこらじゅうでストライキが起こった。

世相の急速な変化は様々な摩擦や反動も招き、1909年3月に軍部の保守派を中心にクーデターが発生した。

統一進歩団は一時イスタンブルを追い出されてマケドニアに退却するが、ここで地方駐屯軍の支持を受けて盛り返す。

イスタンブルに再度進軍し、反対派を打ち破り、その責任を取らせる形でついにアブデュルハミト2世を退位させた。

この時イスタンブルに進軍する軍の参謀を務めた二人の青年士官。

彼らは次の時代の主役となり、トルコの歴史を大きく動かすことになる。

一人は「イスマイル・エンヴェル・パシャ」。

そしてもう一人は「ムスタファ・ケマル・パシャ」という名の士官である。

250px-Ismail_Enver
イスマイル・エンヴェル・パシャ
photo credit 

444: 2014/08/12(火)02:02:38 ID:3Ys0BCrv7
アブデュルハミト2世退位の翌年、1910年9月に突如イタリア軍がオスマン帝国領トリポリタニアに侵攻を開始した。

ここは現代のリビアにあたる。

このとき、ベルリン駐在武官としてドイツにいたエンヴェルは職場をほっぽり出してリビアに潜行し、義勇軍を率いてゲリラ戦を展開。

イタリア軍を翻弄し、一躍英雄としての名を高めるようになった。


首都では、ごちゃごちゃし過ぎて書く気にもなれない(というか把握しきれない)政争がなお続く。

オスマン帝国の混迷を見透かすのはイタリアだけではない。

1912年に入るとバルカン諸国が大同盟を結んで宣戦布告し、帝国に侵攻を開始。


オスマン帝国はすぐにイタリアと休戦してバルカン半島に軍をまわしたが、歴史シミュレーションゲームのゲームオーバー直前並みにぼろ負けし続け、次から次に都市が陥落していく。


年が代わって1913年1月。

目下バルカン連合軍に包囲されている、600年間にわたって帝国の副都で有り続けたエディルネをブルガリアに割譲することに決まったという噂が流れた。

エンヴェル・パシャをはじめ、統一進歩団に属する将校たちは激昂し、大宰相府を襲撃した。

200人あまりの軍人たちが閣議の真っ最中に乱入する。

陸軍大臣ナズィム・パシャは、彼らが何をしようとしているのか一瞬で理解しただろう。

それでもこの老人は悠然と立ち上がり、片手にタバコを持ち、片手をポケットに入れて尋ねたという。

「子供たちよ、何を騒ぐのか。やかましいよ」

途端、銃弾が彼の胸を貫いた。


間もなくエディルネは陥落した。

そして統一進歩団は完全にオスマン帝国の政権を掌握した。

445: 名無しさん@おーぷん 2014/08/12(火)02:07:38 ID:0T4fkGC0s
詳しすぎワロタ
>>1は何者!?
大学院生??

447: 2014/08/12(火)02:27:38 ID:3Ys0BCrv7
>>445
どこにでもいるリーマンだよーw

446: 2014/08/12(火)02:25:00 ID:3Ys0BCrv7
1913年6月。

エディルネを落としたバルカン諸国連合軍は、最後の獲物イスタンブルを目前に内輪揉めをはじめた。

ブルガリア軍がいきなりセルビア軍とギリシア軍を攻撃しはじめたのである。

アホである。

オスマン帝国はブルガリアに宣戦。

エンヴェル・パシャの率いる帝国軍が接近するとブルガリア軍は戦わずして撤退。

エンヴェルはエディルネを無血回復し、さらに名声を高める。

彼はこの時期、皇女との結婚も予定していた。

アルバニアの死体処理業者の子とも噂される成り上がり者として、異例を極める出世と言えるだろう。


オスマン帝国は統一進歩団出身の3人の実力者に差配されることになる。

大宰相タラート・パシャ、海軍大臣ジェマル・パシャ、そして若手軍人たちの圧倒的な支持のもとに陸軍大臣兼参謀総長の座を射止めたエンヴェル・パシャである。


カルロヴィッツ条約以来200年あまり。

ついにバルカン半島をほとんど完全に失ったオスマン帝国は深い絶望に包まれた。

今度の戦争は辛うじてやり過ごしたとはいえ、もう次が無いのは誰の目にも明らかだった。

多民族・多宗教が共存する世界帝国だったはずのオスマン帝国は、もはやムスリムだけの国、トルコ人とアラブ人だけの国になった。

そのアラブ人にしても、近頃は動向が怪しい。帝国の威信など、もう無くなってしまったのだ。


残存する領土に生きる寄る辺なき民は、「オスマン人」ならぬ「トルコ人」として自己認識をし直した。

だって、「オスマン帝国」にはもう実質「トルコ人」しか残っていないんだから。

「オスマン帝国」は、この最後の最後になってとうとう「オスマントルコ帝国」に変貌した。


列強はもう甘い顔を見せてくれない。

いつの間にか時代は変わっていた。

グレートゲームは終了し、英仏とロシアはもはや敵ではなく友邦になった。

今では列強に新たに加わった、あの野心に燃えるヴィルヘルム2世のドイツ帝国こそが危険視されている。

東方のバランサーとしてのオスマン帝国の意義は消滅しかけていたのだ。

唯一オスマン帝国を対等なパートナーとして尊重してくれるのは、当のドイツだけだった・・・。


この状況のなか、1914年6月に第一次世界大戦がはじまった。


今夜はここまで。

448: 名無しさん@おーぷん 2014/08/12(火)08:47:00 ID:TQKvPaUnN
おつ

いつの間にか第一次大戦に…
大帝国もついに最期のときを迎えるのか

451: 名無しさん@おーぷん 2014/08/12(火)12:11:29 ID:7pPneIEOi
ナショナリズムがことごとく外国からの誑かしや外圧によって目覚めている件について

413: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)02:35:44 ID:9gfTjh0oO
怒濤の近代イスラーム世界…
同時代の日本がよく西欧列強の食い物にされなかったもんだ

この差はやはり地理的条件かな?

416: 2014/08/10(日)02:42:17 ID:6bwQqc9HF
>>413
最大の理由は、西洋列強が東ユーラシアに進出するまで時間的余裕があったことじゃないかな。

そのあいだに日本は西洋と渡り合うだけの基礎力を養い、列強を観察して学ぶことができた。

420: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)10:24:41 ID:9SQieWzvu
>>416
地理的条件だけじゃ説明できんと思うな

俺は
・日本も封建時代を経験し、リアリストである軍人(=サムライ)が支配していたため、思考回路が西洋人のそれと比較的近かった

・偶然にも「ナショナリズム」という疫病に対する耐性を持っていた、それどころか自らの結束に大いに役立てた

・朝廷と幕府、権威と権力の分離ができていたため権力体制の再構築がスムーズに出来た

これらが特に重要だと思うな

特にナショナリズムの観点でオスマン帝国と比較すると日本の恵まれぶりが半端じゃない

423: 2014/08/11(月)00:06:33 ID:2kxjvoO5i
>>420
うん、確かに。

日本は単一民族国家ではないけど、限りなく単一民族国家に近い状態になっていたし

武士階級の資質も優れていたし、そのへんの内在的な要因も凄く重要だろうね。

個々の要素だけなら他にも当てはまる国はあるだろうけど、これほどいい条件が重なっていた国は日本だけかも知れない。
次:part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡