part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち

第一次世界大戦のはじまり


1024px-Sarajevo_Lateinerbrücke_1
サラエボ事件が発生した「ラテン橋」
photo credit 

462: 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。

この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。

前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。

それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。

「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」


「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。しかし、根本的な理由はシンプルだ。


ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。

しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。


各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。

ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。


サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。

するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。

オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。

ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。

攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。

かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。


結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。


「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国

「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国

463: 2014/08/13(水)23:55:06 ID:AKHwF3e5a
40年以上にわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパ。

しかし外の世界ではその40年の間にアメリカ南北戦争や日露戦争があり、戦争というものの姿は大きく変貌していた。

多くのヨーロッパ人が想像をしたこともないほど苛烈に、大規模に、破滅的に。


浪漫の騎士たちは笑って故郷を出征していった。

「爺さんたちの時代には、3週間で普墺戦争は終わったんだってさ」

「僕たちも木の葉が落ちる頃までには帰ってくるよ」

「クリスマスにはまた会おう」


誰が知ろう。この戦争にはロマンも武勲もない。

いかなる国も敵国の塹壕を突破する力を持たず、戦線はすべて膠着。

泥の戦場の中で死者だけが量産され、すべての兵士は単なる数字に還元される。

死者の数字は1000万にも及ぶ。
この戦争はいわば、ひとつの時代の終わり、ひとつの世界の終わりを告げることになるだろう。

464: 2014/08/14(木)00:28:21 ID:9rgXeq7IU
オスマントルコ帝国は1914年11月11日に連合諸国に宣戦布告し、世界大戦に参戦した。

このとき、帝国の実質的な領土はアナトリア半島からシリアとメソポタミアに及ぶ範囲であり、当面の主敵はエジプトを抑える大英帝国と、黒海北岸のロシア帝国となる。

当時、オスマントルコ帝国はタラート・パシャ、ジェマル・パシャ、エンヴェル・パシャによる三頭政治の下にある。

うち、軍事面での主導権を握るのは陸軍大臣兼参謀総長のエンヴェル。

ところがこのエンヴェル・パシャは完全なるロマンチストだった。

ギリシア独立の火を点けたアレクサンドル・イプシランディ以来、オスマントルコはロマンチストたちに散々苦しめられてきた。

エンヴェル・パシャは当の帝国の内に現れた、最後にして最大級のロマンチストであり、この帝国を破滅へ導くことになるだろう。


「オスマン帝国」と呼ぶよりは、むしろ「オスマントルコ帝国」と呼ぶ方が実態に相応しい。

帝国は次々に領土を奪われ続け、ついにはほとんどトルコ人だけからなる民族国家に変貌しつつある。

それゆえにこそ、エンヴェルはむしろ夢見た。

「トルコ人よ思い出せ、諸君の誇りと父祖とを思い出せ。諸君の故郷はアナトリアにあらず、はるか東方の広大なる草原こそ・・・」

トルコ人、正確にはテュルク人は中世の昔、中央ユーラシアの広大な草原から来た遊牧民の末裔であり、その中央ユーラシアには異教徒ロシア人の圧制のもと、今も多くの同胞たちが生きている。

帝国を蘇らせるためには、父祖たちの来た道を遡行しよう。

ユーラシア大陸を東へ、ロシア国境を破り、カフカス山脈を越えて中央ユーラシアに遠征し、その地のテュルク系民族を大統合して、今度はテュルク系民族だけからなる大帝国を再建しよう。

これがエンヴェル・パシャの唱えた「汎テュルク主義」。

うん、明らかに無茶だろ。

あんたはアレクサンドロス大王でもティムールでもないんだから。

465: 2014/08/14(木)00:28:30 ID:9rgXeq7IU
開戦早々の1914年冬。

エンヴェルは東部アナトリアの前線に向かい、カフカスを越えてきたロシア軍と対峙する。

真冬の雪のなか、エンヴェルは越冬準備に入ったトルコ軍に強引な前進を命令する。

目指すはロシアの前線拠点サルカミシュ。

軽装のトルコ軍9万はロマンに生きる指揮官によって厳冬の山中行軍を強制され、後続もないまま疲弊して孤立。

ロシア軍の反撃を受けて潰走し、帰還できたのはわずか1万2千人だったという。


ロシア軍が帝国領内深く進出すると、東部アナトリアに残るアルメニア人たちが独立好機と見て不穏な動きを見せる。

これを察知したエンヴェルは命じた。

「アルメニア人たちを全てシリアに移動させよ」

1915年5月からアルメニア人たちの強制移住が開始され、過酷な移動やトルコ兵の暴行、途上のクルド人の襲撃などによって数十万人のアルメニア人が命を落としたとされる。

この事件は20世紀最大のジェノサイドのひとつとして、今もトルコとアルメニアの間で深刻な歴史問題となっている。

466: 2014/08/14(木)00:50:54 ID:9rgXeq7IU
一方、西側の前線でも激戦が始まる。


まず、トルコ軍はシリアから二度にわたってエジプトを攻撃するが、いずれも敗退。

一方で英国側は、ロシアの要請を受けて1915年4月からイスタンブル眼前のガリポリ半島に強行上陸を試みた。

ガリポリはエーゲ海と黒海を結ぶダーダネルス海峡に面する要衝で、ここを奪われれば帝国は完全に終わる。

トルコ軍もこの戦いだけは絶対に負けられないと、海峡全体を要塞化して本気の本気で徹底抗戦した。

英国軍はトルコの激しい抵抗を打ち破ることができず、1916年1月にガリポリ攻略を諦めて撤退し、ときのアスキス内閣は総辞職、立案者のウィンストン・チャーチル海相も失脚という結末になった。

トルコ軍は戦死者5万6千人、傷病14万人という膨大な犠牲を払いつつも、ついに大英帝国を撃退した。
奇跡だった。

トルコ軍を率いるのはドイツから派遣されたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス将軍。

その下で大英帝国軍のありとあらゆる攻撃を獅子奮迅の働きで撃退し続けた勇将がいる。ムスタファ・ケマル大佐。

1909年の青年トルコ革命(>>443)でエンヴェル・パシャとともにイスタンブル反抗を指揮していながら
世渡り下手なのか、この頃までさして目立つ地位にもついていなかったケマルだが、ガリポリ防衛を通じて一躍救国の英雄として知られるようになったのだった。


余談ながら、ガリポリの戦いでムスタファ・ケマルと直接相対していたのはANZAC軍、つまり大英帝国領オーストラリアとニュージーランドからやってきた兵士たちだった。

歴史が浅い両国にとって、ガリポリの戦いはほとんど唯一経験した「本物の戦争」であり、今も伝説として語り継がれている。

468: 2014/08/14(木)01:22:00 ID:9rgXeq7IU
世界大戦が始まったことで、いくつもの伏線が動き出している。

ドイツのヴィルヘルム2世が打っていた東方への様々な布石もその一つである。

ドイツ政府は、オスマン帝国が開戦早々に発した「聖戦の法勅」と、かねて中東にばら撒いてきた「ドイツ皇帝は実は隠れムスリム」だの「ドイツ皇帝がメッカに巡礼した」だのという類のネタ的な流言を利用してイラン・中央アジア・インドに至る地域のムスリムたちを大英帝国に対する「聖戦」を煽動しようとした。

「ツィンマーマン計画」という作戦である。


末期オスマン帝国が広めようとしていた「汎イスラーム主義」という伏線もある。

「スルタンカリフ」を称するオスマントルコ皇帝が発した聖戦命令とあれば、イスラーム世界ではかなりの重みを持つはず。

イスラーム世界が決起すれば大英帝国の世界支配など根底から崩れ去る。

ドイツ外相ツィンマーマンは密使団を中東に送り込んだ。

代表として選ばれたのはペルシア南部で領事を務めたことがあるヴァッスムスとニーダーマイヤー大尉。

ところがこの密使たちは出発早々仲間割れをする。


ニーダーマイヤーと対立したヴァッスムスは、一人かつて赴任したイラン南部へ潜行。

この地の遊牧民の族長たちを煽動してペルシア湾一帯に展開する英国軍へのゲリラを仕掛けるが、
族長たちも馬鹿ではない。

ヴァッスムスが約束したドイツの正規軍はいつまで待っても来ないし、カネも尽きてくる。

結局ヴァッスムスは終戦間際にペルシア政府に逮捕された。


ニーダーマイヤー大尉たちは英国とガージャール朝の監視を晦ますために灼熱の砂漠を強行突破しなんとかアフガニスタンにたどり着いて、アフガニスタン国王に反英決起を要請した。

しかし大英帝国の打つ手の方が早い。

英国はアフガニスタンを繋ぎとめるために国王への年金倍増を約束していた。

失敗を悟った密使団は為すことなくカブールを去るしかなかった。


密使団は二手に分かれ、ニーダーマイヤー大尉自身はイランで反英決起の煽動を試みる。

が、煽動のせの字も出ないうちに、全く関係のないそこらの盗賊に身ぐるみはがれて砂漠に放り出される。

その後、命からがらドイツへ帰国するまでのニーダーマイヤーの動きは個人的なサバイバル以上のものではない。


別隊はさらに東へ向かい、中国領新疆に潜入。

この地の回族たちを煽動して列強商人の居留地を襲撃させようとしたが、あっさり英国領事に察知されてこれも逮捕。


結局、ドイツの壮大なイスラーム世界決起計画は完全に不発に終わったのだった。

469: 2014/08/14(木)01:39:04 ID:9rgXeq7IU
ドイツがオスマントルコと組んでイスラーム世界を反英決起させようとしたのに対して、英国側も似たようなことを試みようとしていた。

ただし目の付け所が少しだけ違う。

確かに、かつてオスマン帝国はイスラーム世界の盟主だったかもしれない。

だが、今のオスマン「トルコ」帝国は、実質的にトルコ人の民族国家と化している。

帝国はなおもシリアとメソポタミアのアラブ人たちを支配し、アラビア半島にもある程度の影響を保持しているが、

民族国家と化したオスマントルコでは、アラブ人への扱いは粗略なものになっており、アラブの族長たちはイスタンブル政府への不満を強めつつある。

ならば、これを利用しようではないか。

アラブとトルコを分断し、シリアとメソポタミアをトルコ帝国に対する反抗に立ち上がらせよう。

名付けて「アラブの反乱」。


1915年、エジプトのカイロにアラブ反乱計画の指令本部、「アラブ局」が設置された。

海千山千の中東専門家たちがアラブ局に召集される。

最もよく知られているのは考古学者出身のトーマス・エドワード・ロレンス。

オリエント学者のデヴィッド・ホガース。

外交官マーク・サイクス。

没落した名家の出で、英領インドで官歴を積んだジョン・フィルビー。

そして紅一点は富豪の娘として生まれながら独身を通し、幾度も砂漠を旅した女性探検家のガートルード・ベル。

彼らが大英帝国の中東政策と、その後の歴史を規定していくことになる。


今夜はここまで。

471: 名無しさん@おーぷん 2014/08/14(木)12:21:05 ID:Rf1W3tCN0
英はやっぱり老獪なんだなあ

478: 2014/08/14(木)16:44:13 ID:w10BOv9C5
>>471
なんといっても世界でいちばん植民地支配のノウハウ持ってるからね。

472: 名無しさん@おーぷん 2014/08/14(木)13:08:16 ID:CGmk2nahC
今某やる夫第一次大戦が動画になっていたので見ていたが、
それと時代が重なってきて、互いにいい補完になってて面白い

478: 2014/08/14(木)16:44:13 ID:w10BOv9C5
>>472
ちょっと見てみた。これは面白いわ。

475: 2014/08/14(木)15:52:37 ID:w10BOv9C5
大英帝国の打つ手は一つだけではない。

開戦早々、1914年11月に英領インド帝国軍がペルシア湾頭のバスラに上陸。

そこからティグリス・ユーフラテス川に沿ってメソポタミアを北進しようとしていた。

ドイツのヴァッスムスが散々妨害しようとしていた戦線である。


英領インドを管轄するインド省は、カイロのアラブ局が立案したアラブ反乱計画に猛反対した。

というのも、インドではヒンドゥー教徒・ムスリムを問わず英国支配への不満が鬱積しており、中東でアラブ族の自立を下手に焚き付ければ、自立の波はインドに波及し、当の英国に対する独立運動に発展するおそれがあったのだ。


肥沃三日月地帯を東から攻め上ろうとするインド省と、西から食い千切ろうとするアラブ局。

両者の対立は、戦況の変化によって落としどころを見出した。


メソポタミアに駐留していたオスマン軍はサルカミシュだのガリポリだのにどんどん兵力を引き抜かれていたが、英軍の北進を頑強に拒み続けていた。

1915年秋、英軍はバグダードの南30キロに位置するササン朝ペルシアの古都クテシフォンに達するが、
ここでトルコ軍の猛反撃を受けて敗走、クートでトルコ軍に包囲されてしまう。


南イラクには葦の茂る広大な沼地が広がり、バスラから派遣された救援の英軍は湿地に足を取られて幾度も撃退される。

アラブ局から派遣された英国屈指のアラブ通、ガートルード・ベルは冷ややかに言い捨てた。


「インド省はアラブの族長や貴人たちを蔑ろにし、彼らのことを理解も尊重もしようとしません。

メソポタミアの地理に精通する土着の民は英国にそっぽを向いています。これでは勝てるわけがありません」

クート包囲戦は4か月に及び、とうとう英国軍は全面降伏。

インド省は嫌々ながらアラブ反乱計画の発動を容認した。

476: 2014/08/14(木)16:08:49 ID:w10BOv9C5
アラブ族を一斉に蜂起させるためには、利害を異にする諸部族が異論なく受け入れられる指導者が必要。

大英帝国アラブ局が白羽の矢を立てたのは、メッカの太守フサインだった。

アラビア半島西岸、ヒジャーズ地方。

ここは何世紀ものあいだ、預言者ムハンマドの血を引くハーシム家の統治下にある。

イスラーム世界きっての名門にして、聖地の守護者。

アラブ所属を決起させるのに、これ以上の神輿はないだろう。


エジプト高等弁務官マクマホンがフサインに書簡を送り、対トルコ反乱の見返りとして、肥沃三日月地帯全域にわたるアラブ国家の建設を約束した。

いわゆる「フサイン・マクマホン協定」である。


ただし、ハーシム家の決起にあたってはひとつ解決しておくべき課題があった。

空になったヒジャーズ地方を横から奪いかねない梟雄がアラビア砂漠の奥深くに潜んでいる。まずはこの男を英国は懐柔する。

1915年11月26日、主任政務官パーシー・コックスは彼をバスラに呼び出した。

砂漠の蜃気楼の彼方から、白の長衣をまとい、ターバンを巻きつけたアラブの族長がやって来る。

その名は「アブドゥル・アズィーズ・イブン・サウード」。

サウジアラビア王国の建国者である。

Ibn_Saud
アブドゥル・アズィーズ・イブン・サウード
photo credit 

477: 2014/08/14(木)16:37:02 ID:w10BOv9C5
18世紀後半。
ベドウィン族の大族長サウード家は、イスラーム復興を説く宗教改革者アブドゥル・ワッハーブと結び、
アラビア半島を席巻した。

この「第一次サウード王国」は19世紀初頭にオスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリーに滅ぼされるが、生き残った王家とワッハーブ家の一族が1824年に半島中部のリヤドを奪い、「第二次サウード王国」を復興。


しかし第二次サウード王国は王位をめぐる内紛に明け暮れ、19世紀末には半島北部のラシード家によって
事実上滅亡に追い込まれた。

ラシード家はサウード王国の首都リヤドを奪い、オスマン帝国に従属して砂漠の覇者となる。

サウード王家の生き残りは放浪の末、1893年にペルシア湾に面するクウェートの太守サバーハ家のもとに身を寄せる。

その地でアブドゥル・アズィース・イブン・サウードは成人した。ラシード家への復讐を胸に誓いつつ。


1901年、イブン・サウードはクウェート太守から40頭のラクダを譲り受け、一握りの部下とともにリヤドを急襲した。

人跡未踏のルブアルハーリー砂漠の彼方から突如現れた襲撃者たち。

守備兵は狼狽して為すところを知らず、リヤドはたちまち陥落。

イブン・サウードは一族をリヤドに呼び寄せ、ワッハーブ家との盟約を再確認し、厳格なワッハーブ主義を「国教」とする「第三次サウード王国」の復興を宣言した。

これがつまり「サウジアラビア王国」となる。


イブン・サウードは「砂漠の豹」と呼ばれる猛将である。

身長2メートルを超す偉丈夫で、文字は全く解さないが、実に怜悧な頭脳と優れた決断力、そして鉄の意志を備えている。

厳格な信仰と信徒の平等を説くワッハーブ主義を利用して、ベドウィンの戦士たちを部族から切り離し、
「イフワーン」と呼ばれる精強な軍隊を整備。

これを尖兵としてアラビア半島の征服を進め、ラシード家を破って半島北部を制圧し、東岸に駐留するトルコの守備兵を追い払う。

あわせて征服した各地のオアシスに兵士たちを入植させ、農業を振興した。

自給自足が可能な屯田兵たちによって国力を増強し、戦時には聖戦の情熱を掻き立てて苛烈に敵国に侵攻する。

英国は武器と資金の供与を見返りとしてイブン・サウードを懐柔し、サウード家に対してヒジャーズに攻め入ることなく、ラシード家との対決に集中するよう働きかけた。


こうしてアラブ反乱のお膳立ては整った。

1916年6月10日、メッカの太守フサインはオスマントルコ帝国からの独立と、「ヒジャーズ王国」の建国を宣言し、アラビア半島西岸の北上を開始した。

479: 2014/08/14(木)16:50:34 ID:w10BOv9C5
(イブン・サウードがバスラに来たのが、本によって15年だったり16年だったりして困惑)

481: 2014/08/14(木)18:05:34 ID:w10BOv9C5
大英帝国アラブ局はハーシム家に協力するため(当然お目付け役も兼ねている)、一人の将校を送り込んだ。

その名はトーマス・エドワード・ロレンス。

映画「アラビアのロレンス」で全世界的に知名度ありまくりである。

アラブ局は、将校用のビリヤードに悪戯を仕掛けたり、マッチの火を指で消したりするこの変人を持て余していたようだ。

砂漠に送り込まれたロレンスは、太守フサインの三男ファイサルと友誼を結び、アラブの戦士たちに交じって水を得た魚のように活躍しはじめる。


ハーシム家の率いるアラブ軍は神出鬼没のゲリラを展開し、トルコ軍を翻弄した。

鉄道を爆破し、橋を落とし、1917年7月に紅海最奥の軍港アカバを陥落させる。

トルコ軍はゲリラに対抗するためヒジャーズ地方に張り付けられ、エジプトに駐留する英国軍の攻勢を防ぎきれない。

1917年、エジプトの英国正規軍が侵攻開始。

シナイ半島を占領し、ガザに侵攻し、12月にはエルサレムを占領。

トルコ軍はシリアへ後退する。英軍はこれを追って北上し、アラブ軍が側面からそれを支援した。


1918年9月、メギドの戦い。

ここは紀元前15世紀にエジプト王トトメス3世がカナン諸侯を破り、19世紀にムハンマド・アリー朝がオスマン帝国を破った古戦場。

トルコ軍はガリポリの英雄ムスタファ・ケマルのもと14万の軍を配して英軍に備えるが、物資不足による士気の低下が留めがたく、歴史の前例をなぞるがごとくトルコ軍は潰走する。

かくて10月1日、英国軍はダマスカスに入城。24日にはアレッポを占領し、アナトリアに迫っていったのだった。


メソポタミア戦線でも英軍の攻勢が再開された。

クート陥落後、英国は失地回復のため南イラクに15万の兵士を集結させ、総指揮官にはマフディー戦争、ボーア戦争、ガリポリ上陸戦、西部戦線で活躍した猛将スタンリー・モード将軍を充てる。

1916年冬にモードは北進を開始し、たちまちクートを抜き、翌17年3月にはクテシフォンに到達。

トルコ軍は撤退し、3月11日に英国軍は一滴の血も流すことなくバグダードを占領した。

「千夜一夜の都、ついに陥落」

勝報が英国を沸かせる。

年が明けて1918年、英軍は北イラクに侵攻を再開し、11月にはモスルを陥落させる。


数世紀にわたるオスマントルコ帝国のシリア・メソポタミア支配は、こうして崩壊したのである。

482: 2014/08/14(木)18:27:49 ID:w10BOv9C5
バルカン半島では1915年にブルガリアが中央同盟諸国側に参戦し、10月にドイツ軍がセルビアを破る。

英仏はセルビア支援のためにテッサロニキ(サロニカ)に上陸し、ギリシアも連合国側に参戦。

1918年、連合諸国の攻撃に耐えかねたブルガリアで反乱が起こり、9月29日に停戦協定を結んで脱落。

ブルガリア軍が消えたあと、牙を剥く連合軍の前にトルコ帝国の首都イスタンブルは無防備の状態となった。

シリア・メソポタミアで英国の猛攻を受ける帝国には、本国の守備に回す余剰兵力など残っていない。

これ以上の抗戦は不可能である。


10月8日、大宰相タラート・パシャが辞任し、三頭政治体制は崩壊。

1918年10月30日、オスマントルコ帝国はムドロス休戦協定により、連合軍に全面降伏した。

これにより、第一次世界大戦の中東戦線における戦いはほぼ終了した。

11月に入ると連合諸国軍がイスタンブルに入城。帝国は敗北したのである。


「もはや祖国のために有益な仕事をイスタンブルで果たす可能性が無くなった」

敗戦の責を取るべき軍部の最高指導者エンヴェル・パシャは、1枚の書置きを残して何処へともなく姿を消した。

オスマン帝国の滅亡


493: 2014/08/16(土)15:14:49 ID:HGw3rtp5e
オスマントルコ帝国の降伏後ほどなくオーストリアとドイツも連合国に屈服し、第一次世界大戦は終結した。

エンヴェル・パシャの出奔と前後して連合国軍が帝国各地に進駐し、分割占領を開始。

これに呼応してギリシア人やアルメニア人の独立運動も始まり、アナトリア半島は混乱を極めた。

首都イスタンブルでは、エンヴェル・パシャに置いて行かれた統一進歩団の政治家たちが失脚し、三頭政治時代には傀儡化されていた皇帝メフメト6世や、非主流派の政治家たちが実権を取り戻した。

「あの阿呆のエンヴェルどものせいで大変なことになりおった!」

彼らは統一進歩団の残党を大量投獄する一方で、帝国に進駐した連合国軍に対しては絶対服従に徹する。

変な動きをすれば帝国滅亡はもちろん、トルコ人による独立国家の維持すら怪しくなってしまうではないか。


統一進歩団の残党は連合国と皇帝政府の存在感が高まるイスタンブルを離れ、アナトリア半島各地に潜伏して政権復活と国土を占領する連合国軍に対する抵抗運動を組織し始めた。

しかし、バラバラの抵抗運動をまとめ上げるべき指導者がいない。

そこで彼らは一人の軍人に、その役目を果たしてもらえないかと打診した。


ガリポリの英雄、ムスタファ・ケマル。

青年トルコ革命に参加し、統一進歩団政府のもと、数々の戦場で活躍しながら、この時点で彼は政治的に中立の立場に見えた。

ケマルは当座、この依頼を謝絶した。


一方、皇帝政府の側からもムスタファ・ケマルに命令が下る。

これは統一進歩団の残党とは正反対。

連合国軍の機嫌を損なわないように、アナトリア各地で蠢動する反乱分子どもを鎮圧しろというのだ。


結局のところ、どちらの陣営にしても大事を託すに足るほどの能力と実績、信望を兼ね備えた人物はイスタンブルにはムスタファ・ケマル以外に残っていなかったということ。

一介の軍人だったはずのケマルは、ここに来て政局を左右するキーパーソンに浮上した。


1919年5月、ムスタファ・ケマルは皇帝政府の命を奉じて、海路、東部アナトリアのサムスンに出発した。

494: 2014/08/16(土)15:29:35 ID:HGw3rtp5e
アナトリアに上陸したムスタファ・ケマルは、何をさておいても秩序を取り戻すことを最優先と判断し、アナトリア各地に散らばる軍や行政官に回状をまわし、エルズルムの町に招集した。

「は? そんな事まで支持してないぞ。なに勝手なことしとるんじゃ」

イスタンブルはムスタファ・ケマルに急遽帰還命令を出し、これが無視されると彼を解任した。


が、ケマルの方もそれより早く自分から辞職を宣言して無位無官の身となっていた。

「イスタンブル政府とは手切れだ。これよりこの私、ムスタファ・ケマルは独自判断で行動を開始する」

ケマルは統一進歩団の残党が組織していた抵抗運動を核に「アナトリア・ルーメリ権利擁護委員会」なるものを組織し、1920年、アナトリア高原中部のアンカラで「国民誓約」を採択した。

「トルコのことはトルコ人が決める! 連合国は我々が選挙で決めたことを尊重しなさい!」

この時点でケマルは、旧「オスマン帝国」の枠組みには拘らなくなっている。

英国に占領されたシリア・メソポタミアを回復することなどもはや不可能。

ただし、アナトリア半島のトルコ人地域だけは何としても独立した民族国家として守り抜かなければならない、と。


連合国軍は一驚し、この目障りな新勢力を叩き潰すためにギリシア軍がエーゲ海から内陸へ進撃を開始。

合わせてイスタンブルの皇帝政府と条約を結び、アナトリア北部の一角だけをトルコ帝国に残し、他はすべて連合国で分割することとした。


アンカラはイスタンブルも連合国も無視。

ムスタファ・ケマルを議長とする国民議会を開催し、事実上の独立政権となった。

495: 2014/08/16(土)15:51:06 ID:HGw3rtp5e
ガリポリの英雄ムスタファ・ケマルは、卓越した政治家としての相貌を露わにしはじめた。

イスタンブル政府との決裂、西から迫るギリシア軍。

この危機に直面して、彼は禁じ手に近い手を打つ。

世界大戦中に革命を起こしてロシア帝国を簒奪したソビエト連邦のボリシェヴィキ、この得体のしれない新興勢力と手を組み、南カフカスにおけるアルメニア人の独立国家建設を黙認する代わりに東側の安全を確保したのだ。


1921年夏、アンカラのトルコ軍はサカリア川の戦いでギリシア軍に圧勝。

ムスタファ・ケマルは全軍の指揮権を獲得し、あらゆる物資を徴発し、戦い得るすべての男を徴兵。

「諸君に告ぐ。我らの目標は地中海!」


ときにギリシアでは、一貫して連合国への協力を惜しまなかった首相ヴェニゼロスが失脚し、連合国軍はにわかにギリシアへの態度を冷淡化した。

彼らは今も鮮明に覚えていた。

ガリポリで大英帝国の心胆を寒からしめた、あの恐るべき敵将を。

「ギリシア軍がケマルを抑えられなければ、トルコ帝国との条約は白紙に戻さねばなるまい」

狼狽したギリシア軍は、地理的にも発想的にも斜め上の方向へ。

「こうなったらイスタンブルを奪ってしまえ。あれは元々我々の都、コンスタンティノープルではないか」

連合国は唖然。


そんな混乱のなか、トルコ軍は怒涛のように進撃し、1922年9月に地中海に到達。

ギリシア軍の拠点スミルナを奪還し、連合国との講和をもぎ取ったのだった。

496: 2014/08/16(土)16:09:16 ID:HGw3rtp5e
1922年10月末、連合国はスイスのローザンヌでトルコ帝国と再度の講和会議を開催することにした。

「ところでイスタンブルの皇帝とアンカラのケマルのどっちがトルコの代表なんだ?」

「とりあえず両方に手紙送るか」

講和会議への招請を受けたイスタンブルは、アンカラ政権に対して、共同で代表団を送ることを呼びかけた。

「はぁ? 連合国を破って講和条約やり直しに漕ぎつけたのはウチラだろ。あんたたち何してたんだよ」

「何を言うか! 元はといえばこちらが正統政府だというのに、共同代表ってことで譲歩してやってんだろ!」

アンカラはイスタンブル政府の態度に怒りを露わにした。

「よく聞け。トルコ国家を代表するのはアンカラ政府だけだ。皇帝は退位しちまえ」

イスタンブル政府はアンカラからの圧力に抗しきれず、内閣総辞職。

皇帝メフメト6世は退位を余儀なくされ、国外へ去った。

篠つく秋の雨のなか、見送る市民もほとんどいなかったという。


アンカラ政権は事実上イスタンブル政権を従属させ、「スルタンカリフ」を称するオスマン帝国皇帝の職権から「スルタン」、つまり世俗的君主の部分を廃止し、ただの「カリフ」、つまり単なる宗教的権威として存続するように決めた。


こんな発想はもともと政教一致のイスラーム世界ではあり得ないのだが、ムスタファ・ケマルの発想はほとんど西洋人のそれだった。

彼はおそらくアッラーへの信仰心など端から持ち合わせていなかった。

ケマルは宗教は単なる文化か統治の道具だと認識していたようで、西洋風の政教分離を当然だと考えていたのだ。


皇帝ならぬカリフとして、メフメト6世の従兄弟のアブドゥル・メジトが即位するが、ケマルは新カリフに対して、カリフ本来の意味である「預言者の代理」などという称号は認めない。

「ムスリムのカリフ、両聖都の守護者」という称号だけを名乗るように要求した。


「オスマン帝国」に皇帝はいなくなった。

帝国は滅亡し、三大陸にまたがる広大な版図も消失し、ムスタファ・ケマルを首班とする「トルコ共和国」が誕生したのである。

イスラーム世界における最初の共和制国家の誕生であった。

497: 2014/08/16(土)16:27:05 ID:HGw3rtp5e
帝国滅亡の2日後、1922年11月20日から「ローザンヌ講和会議」が開会される。

会議は難航したが、結局は連合国軍の撤兵と内政介入の終了、トルコ人による自主独立の国家存続が認められ、
連合国に対する賠償金も棚上げとなった。

第一次世界大戦に敗北した諸国のなかで、実力によって戦勝国側にここまで有利な条約を認めさせた国は他にない。

その代わり、かつて帝国が支配していたアラブ地域は正式に放棄。

その他にもアナトリア外の幾つかの領土は連合国に割譲することとなる。


ローザンヌ条約で重要な事項のひとつとして、ギリシアとトルコの「住民交換」がある。

もともとオスマン帝国時代にムスリムであるトルコ人と正教徒であるギリシア人は混在して暮らしており、とくにアナトリア半島の中でも西端のエーゲ海沿岸地方は、紀元前から一貫して「ギリシア世界」の一部だった。

本来「ギリシア」とは現在のようなバルカン半島南部ではない、バルカン半島南部とアナトリア西岸を含む「エーゲ海」こそがギリシア人の世界だったのだ。


しかし新生トルコ共和国の領土としてアナトリア半島全土が認められたがゆえに、トルコ人の民族国家を目指すトルコ共和国はアナトリア西岸に生きる110万人のギリシア人が「ギリシア王国」に強制移住させられ、反対にバルカン半島側に生きる38万人のムスリムは「トルコ共和国」に強制移住させられた。


三千年にわたるエーゲ海東岸のギリシア人コミュニティの歴史は突如幕を下ろされる。

誰が「ギリシア人」で誰が「トルコ人」なのかという区別も難しい。

ギリシア王国に移住させられた人々のなかには「トルコ語を話す正教徒」もいたし、トルコ共和国に移住させられた人々の中には「ギリシア語を話すムスリム」もいた。


ナショナリズムという疫病と列強の思惑によって、何十万もの人々が親しい人々と別れ、先祖代々暮らしてきた土地から追い立てられることになった。


この時代から遠く隔たった今もなお、トルコとギリシアのあいだには流民の悲しみと敵意が横たわっている。

498: 2014/08/16(土)17:02:37 ID:HGw3rtp5e
ムスタファ・ケマルは「人民党」という政党を結成し、ケマル独裁を危惧する議員たちを追い落とし、1923年に総選挙を実施して、トルコ共和国の初代大統領に就任した。

その頃、トルコ共和国は疲弊しきっていた。

大戦と独立戦争の結果、戦場となった西部アナトリアの農地は荒廃しきっており、対外貿易もほぼ途絶。

連合国への賠償金は無くなったとはいえ帝国時代からの借金は残ったままで、住民交換の結果、人口も減少。

めちゃくちゃである。

大統領ケマルは事実上の独裁者として、トルコ再建のために後半生のすべてを捧げた。

まず、政治的に不穏分子になりかねず、またイスラーム世界全体に対して権威を持つがゆえに、かえって国民国家を目指すトルコ自体にとっては異物となるカリフ制を廃止。

オスマン皇族はすべて国外に放逐し、再入国すら禁止。

1924年に新憲法を制定。

新憲法と、その背後にある大統領ケマルの政治方針は徹底した世俗化、そして西洋化である。

ケマルは旧来のイスラーム法の伝統などまったく無視して、西洋的な法制度をそのまま導入。

当然ながらイスラーム法に基づいて裁きを下すシャリーア法廷をも廃止し、法学者の養成機関であったマドラサも閉鎖。

帝国時代から社会に強い影響を持ってきた、神秘主義教団の修行場や聖者廟も閉鎖した。

政治と宗教を完全に切断した。


イスラーム法的な国家論によれば、イスラーム法が施行されることがイスラーム国家の条件であり、イスラーム法が施行されている地域が「ダール・アル・イスラーム」、つまり「イスラームの家」だという。

してみれば、ケマルの世俗化改革によってトルコ共和国は、たとえその国民の圧倒的多数がムスリムだとしても、ある意味では「イスラーム世界」の一員ではなくなったとすらいえる。

499: 2014/08/16(土)17:04:25 ID:HGw3rtp5e
もちろん反発は大きかったが、ケマルは治安維持法を施行してすべてを実力で抑え込むとともに、自ら国内各地をまわって国民に改革の必要性を説いた。

保守派によるケマル暗殺計画が発覚したのを機に、改革に反対する勢力を一斉検挙し、粛清する。


ケマルは第一次世界大戦と独立戦争の英雄である。

彼はアラビア文字を廃してローマ字をトルコ語の新しい文字とし、文盲の農民たちに自ら文字を教えてまわり、国民教育を振興し、そのなかで大統領ケマルによる祖国救済の神話を喧伝した。

彼は独裁者であり、国民統合のために自らを神格化したが、必ずしも個人崇拝を好んだわけではないし、
独裁も私欲というよりは国家再建のための方便として行っていたように見える。

議会制民主主義の発展のためには、本来独裁者ケマルのもとでの一党独裁は好ましくない。

彼は自ら、八百長で反ケマル派の野党を作らせたという逸話すらある。


1934年、創氏法が施行され、トルコ国民のすべてが姓を持つことが定められた。

大統領ムスタファ・ケマル自身が議会によって贈られた姓は「アタテュルク」。これは「父なるトルコ人」を意味する。

初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク。

彼は一代で宗教改革と市民革命と産業革命を一人で達成したと評される。

20世紀を代表する偉大な政治家であり、希少な「良き独裁者」であり、まさしくトルコ共和国の国父であった。


1938年、初代大統領ケマル・アタテュルクは長年の過労と深酒によって倒れ、世を去った。

彼の死後もその遺志は受け継がれ、トルコ共和国はイスラーム世界でもっとも西洋化した国家のひとつとして発展を続ける。


しかし、トルコ国民のすべてがケマルの示した国家像に賛同していたわけではない。

都市の富裕層や軍隊は熱狂的にケマル・アタテュルクを崇拝したが、農村の素朴なムスリムたちはアタテュルク主義へのそこはかとない疑問や不満が根強く残り続けた。


政治の場でもアタテュルクの示した西洋的近代への道と、古来のイスラーム的国家への復古の道とが議論を巻き起こしたことは多く、そのたびにアタテュルク主義の牙城ともいうべき軍が政治に介入し、西洋化政策の継続を強いた。



トルコの20世紀は国父アタテュルクの長い影の下にある。

225px-MustafaKemalAtaturk
ムスタファ・ケマル・アタテュルク
photo credit 

500: 名無しさん@おーぷん 2014/08/16(土)17:11:24 ID:jDNw0Rkr4
ユーゴスラビアのチトーとは違って、その死後に悲惨な内戦が起きなかったのはすごいな。

504: 2014/08/16(土)17:48:52 ID:HGw3rtp5e
>>500
トルコ民族が国民の圧倒的多数になっていたのと、国軍の掌握が徹底していたのが大きいんじゃないかな。

それと後継者のイスメット・イノニュもすごく有能だった。

エンヴェル・パシャの最後の冒険


501: 2014/08/16(土)17:31:56 ID:HGw3rtp5e
さて、アナトリア半島に残ったトルコ帝国がたどった運命については以上として、敗戦直後に失踪したエンヴェル・パシャのその後、また帝国から切り離されたシリア・メソポタミア地域の行く末はどのようなものになったのだろうか。


エンヴェル・パシャはロマンチストであり、彼なりに愛国者でもあった。

姿を消したエンヴェルは、しかし決して逃げ出したわけではなく、トルコ国外から帝国を救おうと足掻く。


まずエンヴェルが赴いたのはドイツ帝国の首都ベルリン。

ここでいろいろと怪しげな人脈を築き、ロマン溢れる「ぼくの考えた救国大作戦」を開陳した。

「ドイツとロシアとトルコで同盟して、中央アジアからインドを襲おうぜ!」


んなこと出来るなら、まだ戦争続けとるわ。

エンヴェルはドイツでは相手にしてもらえなかった。

しかし、そんな彼に利用価値を見出した者もいる。ソ連である。

革命後間もないソビエト連邦のボリシェヴィキ(共産主義者)たちは、旧ロシア帝国各地で帝国復活を目論む「白軍」や、どさくさまぎれに独立を目論む有象無象の民族主義者たちと戦っていた。

正直言って、エンヴェル・パシャが有能だとは誰も思っていないけど(本人を除く)、何といっても最近までオスマントルコ帝国の最高実力者だったので、名は知られている。

彼を中央アジアに送り込んで、同地のテュルク系民族にソビエト連邦の宣伝をさせようというわけだ。


エンヴェルとしても、ソ連の力を利用してトルコ帝国復興を目指すのもワンチャンあるかと判断し、モスクワに入る。

ソ連の支持を約束されたエンヴェルは黒海東岸のグルジアに移動した。

「しばらく待っていればトルコの皆さんは必ず吾輩の助けを求めるであろう。いつでも動けるように国境間際で待機」

が、アナトリアではエンヴェル・パシャなどとっくにオワコン扱いされていた。

いつまで経っても声が掛からないので、ロマン溢れるエンヴェルは方針を変えた。

「中央アジアのテュルク系民族をまとめ上げて大帝国を作って、トルコ帝国を外から救う!」

大戦早々のサルカミシュ作戦で大失敗しても、未だに汎テュルク主義の夢を捨てていないエンヴェルであった。

502: 2014/08/16(土)17:32:56 ID:HGw3rtp5e
ソ連は早速エンヴェルを中央アジアに放り込むが、エンヴェルとしては、現地に入ってしまえば自分の目標を目指すのみ。

当時、中央アジアでは「バスマチ」と呼ばれるテュルク系ムスリムによる反ソ連蜂起が続いていた。

エンヴェルは早々に共産主義者たちと手を切って、バスマチを自分の子飼いにするべく動き出す。

しかし、バスマチの側としては、同じテュルク系言語を喋るとはいえ、見も知らないオッサンがいきなりやって来て、「オスマントルコ帝国の元陸軍大臣である。諸君は私に従いたまえ」などと言ってきたところで対応に困る。

不審人物その1ということで、エンヴェル・パシャは牢屋に放り込まれた。


しかしエンヴェルはめげない。

この男、衰えたりといえども、元は青年トルコ革命の英雄にして皇女の婿である。

カリスマ性が違う。

いつの間にか族長たちの信用を勝ち得て牢屋から釈放されたばかりか、バスマチをまとめ上げてタジキスタン一帯を掌握し、ソビエト軍に対してゲリラ戦を仕掛けまくった。

第一次世界大戦では無能を晒したといっても、やはり近代戦を理解している軍人。

この内陸の辺境では立派に名将扱いである。


しかし、所詮エンヴェル・パシャの夢想は夢想でしかない。

反撃に転じたソビエト軍によってエンヴェルは次第に追い詰められ、1922年8月にフェルガナで戦死した。

疲れ果てて村の小屋の入り口に寄りかかっていたところを射殺されたともいうし、また、機関銃を乱射するソビエトの赤軍に向かって、配下のバスマチ騎兵たちとともに捨て身の突撃を敢行して壮烈に討死したともいう。


帝国の敗北にも、自らの敗北にも最後まで納得しなかった男、エンヴェル・パシャの「最後の冒険」はこうして幕を閉じた。


今日はここまで。

503: 名無しさん@おーぷん 2014/08/16(土)17:37:25 ID:eJFPQDpRy
おつ

面白かった

505: 名無しさん@おーぷん 2014/08/16(土)20:06:09 ID:7bWRoVCop

20世紀・・・なんだよなあ

509: 2014/08/17(日)21:48:53 ID:UZZseBJP0
>>505
次は現役活躍中の人がいつ出てくるかだね(書き手も分からないw)

506: 名無しさん@おーぷん 2014/08/16(土)20:43:53 ID:Ml7T3qAZe
おつ

トルコ建国の父はやっぱ凄い人物だね
それにくらべてエンヴェルときたら…
どこでどう差が(ry

507: 名無しさん@おーぷん 2014/08/16(土)21:34:31 ID:RlzrIhjNz
ロマンチストのエンヴェルとリアリストのケマル
リアリストがトルコ人の国を造ったのは何とも皮肉だね

509: 2014/08/17(日)21:48:53 ID:UZZseBJP0
>>506
>>507でしょうなあ。
ケマルは全てを捨ててトルコだけを救いました。エンヴェルは全てを諦めずに全部失いました、かな。

508: 名無しさん@おーぷん 2014/08/17(日)17:10:30 ID:OyIT4MbiY
上の方になんで日本が近代化が早かったのかって疑問があったけど
政教分離が江戸時代には確立してたのが結構重要だったんじゃないかなと思うわ。
近代化と教義との矛盾に苦しむ必要なかったもんな。

509: 2014/08/17(日)21:48:53 ID:UZZseBJP0
>>508
それも大きいと思う。イスラーム世界はイジュティハードをめぐる議論にいまだに決着ついてないからね。
次:part18 イギリスの三枚舌外交