part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡

イギリスの三枚舌外交


510:  2014/08/17(日)22:17:14 ID:UZZseBJP0
さて、旧オスマントルコ帝国領の南半分、シリアとメソポタミアはどのような運命をたどったのだろうか。

世界大戦さなかの1915年、大英帝国エジプト高等弁務官アーサー・マクマホンはメッカの太守ハーシム家のフサインと「フサイン・マクマホン協定」を結び、肥沃三日月地帯のほぼ全域にわたるアラブ国家建設を約束することでハーシム家を対トルコ反乱に立ち上がらせた。



ところが、1917年に連合国の一角、ロシアで革命が勃発したことがきっかけとなり、衝撃の事実が明るみに出た。

ロシアの政権を掌握したボリシェヴィキ(共産主義者)たちは「資本家どもの戦争なんぞやめちまえ!」と訴えかけるべくロシア帝国外務省に保管されていたあらゆる外交文書の暴露祭りを敢行。


当時の外交交渉というのは基本的に秘密主義だったので、ウィキリークスどころではない大騒動になる。

ここで暴露された文書のなかに、極めて不穏な秘密協定が存在した。「サイクス・ピコ協定」である。

これによれば戦後に肥沃三日月地帯を英仏で山分けすることになっている。

三日月地帯の西半分であるシリアをフランス、東半分であるメソポタミアをイギリスが押さえるというのだ。

どう考えてもフサイン・マクマホン協定と矛盾する。

ちなみにこの協定の英国側代表マーク・サイクスは、アラブの反乱を煽り立てた当のアラブ局の一員であるという怪。


それだけではない。

1916年には英国外相アーサー・バルフォアがシオニスト会長のロスチャイルド卿に「バルフォア宣言」なるものを出している。

511:  2014/08/17(日)22:23:52 ID:UZZseBJP0
「シオニスト」というのは、要はユダヤ人の民族主義者である。

ユダヤ人は2千年前にローマ帝国によって故地のイスラエルを追われて以来、西ユーラシア各地に離散し、とくにヨーロッパでは中世以来なにかと差別の対象とされてきた。


フランス革命以降、欧州諸国にナショナリズムが広まると、どこの国でも少数派であるユダヤ人はますます排斥される。

で、19世紀末になると、政治の混乱や生活苦に喘ぐロシア帝国正教徒の八つ当たり的な迫害を食らい、「ポグロム」というユダヤ人虐殺なんぞも盛んに発生した。

「これというのもそもそもユダヤ人だけの国が無いからいかん。どこかにユダヤ人だけの国を作ろう」

こう考えていろいろ頑張っていた皆さんがシオニスト。

ちなみに「シオン」というのは、古代イスラエル王国でヤハウェ神殿が建てられたとされるエルサレムの丘の名前。


ところでユダヤ人というのはおおむね勤勉で経済的才能に長けていたようで、西欧では金融分野で大きな力を握っている。

第一次世界大戦が勃発すると、ポグロムしまくりのロシア帝国と結んだ大英帝国当局は、国内のユダヤ人、とくにシオニストたちから冷たい視線を浴びる。


一方、英国が敵に回したドイツ帝国にはポグロムを逃れてきたユダヤ人が大量に居住しており、この時代のユダヤ人たちはどちらかというとドイツに親しみを感じていた。

これはマズいな、と外相バルフォアは考える。

ちなみに巨大な帝国政府の出先機関のひとつであるアラブ局の存在など、彼の脳内にはおそらく入っていない。

シオニストの皆さんの機嫌を取り結ぶべく、最良の方策は何か。

いうまでもない。ユダヤ人国家の建設を約束すれば良い。

折よく、目下戦争中のシリア南部は古代イスラエル王国のあった場所。なんという天の配剤。


以上のような経緯で、バルフォアはシオニスト協会あてに「ユダヤ人の民族国家建設」を約束した次第。

これまたフサイン・マクマホン協定と矛盾する。

ついでに、パレスチナ一帯を国際管理下に置くとしていたサイクス・ピコ協定とも矛盾する。

いい加減なものである。

512: 2014/08/17(日)22:35:27 ID:UZZseBJP0
そんな大英帝国の空手形連発事情など知る由もないアラブ人たちは、ダマスカス入城後に事態を知って驚愕した。

いよいよアラブ王国のスタートだと意気込んでいたところで、いきなり「フランス人顧問団のムッシューたちが来るから言うこと聞いてね」と一方的に告げられたのだ。


旗揚げ以来、アラブ人たちと行動を共にしていた英国アラブ局のロレンス中佐はある晩、大量の新聞束を抱えたハーシム家の老臣ヌーリ・シャーランに呼び止められた。

「オレンス・パシャよ、はっきり説明して貰いたい。いったい全体、英国のどの声明を信じれば良いのじゃ!」

「えーと、いや、その、あの、日付の一番新しいのを・・・ですかね・・・」


1919年、第一次世界大戦の戦後処理としてパリ講和会議が開催される。

会議に押し掛けたロレンスと、ハーシム家の第三王子ファイサルは列強諸国からまるで相手にされない。

失意を抱えてロレンスは舞台を去り、ハーシム家はフランスの退去命令を無視してダマスカス城内に立て籠もった。

513: 2014/08/17(日)22:36:22 ID:UZZseBJP0
あ、ロレンス引退はもう少し後だ。

514: 2014/08/17(日)22:51:09 ID:UZZseBJP0
さすがにこの状況で、英国政府内からひと肌脱ごうという人物が登場した。

植民相ウィンストン・チャーチルである。


チャーチルは1921年、エジプトのカイロにアラブ問題の専門家たちを一通り呼び集め、戦車に乗って風景画を描き、ピラミッドの前で記念写真を撮り、ゴチャゴチャした空手形を整理した。


で、結局のところ、講和会議と英仏協議、そしてチャーチル主催によるカイロ会議を合わせた最終結論は
以下のようなものになる。

まず、基本的にはサイクス・ピコ協定を踏襲し、シリア地域はフランスのもの。


ただしエルサレム周辺のパレスチナ地域は英国の「委任統治」とする。

委任統治というのは、「現地住民が自治をできるようになるまで代わりに統治してあげますよ」ということなのだけど、この場合の「現地住民」というのは誰なのだろうか。

いずれにせよパレスチナは英国が押さえたので、ユダヤ人移民はどんと来い。

そしてメソポタミアは英国が取り、アラビア半島については現状維持。

つまりイブン・サウードが内陸を支配し、ハーシム家が西岸を支配する。


といっても、これじゃあ結局ハーシム家はタダ働きじゃあないか。

ということで、英国が押さえたメソポタミアに「イラク王国」、パレスチナの東側に「トランスヨルダン王国」を作り、両国の王としてハーシム家の一族を連れてくることにした。

もちろん両国とも英国がしっかりと監視、じゃなくて庇護することは言うまでもない。

「ちょっとばかし約束と違ったけど、とりあえず王国あげるから理解の程よろ」という次第。

515: 名無しさん@おーぷん 2014/08/17(日)22:54:28 ID:HW1B390Nm
ユダヤか…

516: 2014/08/17(日)23:08:58 ID:UZZseBJP0
ところで、英国が以上のように切り分けた肥沃三日月地帯の内情はどうだったのだろうか。


そもそも論的にいうと、イスラーム世界の中心をなす北アフリカから西南アジアにかけての一帯には
「アラブ系民族」、「テュルク(トルコ)系民族」、「イラン(ペルシア)系民族」の三大民族が暮らしている。

イラン系はその名の通りイラン高原周辺に分布。言語はペルシア語。

アッバース朝の頃からイスラーム世界の主役だったのはイラン系で、歴史は古く文化は高く誇りも高い。

アラブ族など内心、砂漠の蛮族と見下している気配あり。



テュルク系はアッバース朝後期以降、傭兵や征服者として中央アジアから流入してきた元遊牧民で、中央アジア、イラン高原北部、南カフカス、アナトリア高原に分布。言語はテュルク系。


そしてイスラーム本家家元のアラブ系は北アフリカからアラビア半島と肥沃三日月地帯まで分布しており、言語はアラビア語。

ただしアッバース朝以降は実質イラン系やテュルク系に主役の座を奪われた感があり、オスマン帝国時代にもテュルク系の帝国にへいこら支配されている側だった。


さて、そんなアラブ系だけど、内実は遺伝的にも文化的にも言語的にもバラバラ。

要はイスラーム初期の大征服で統一された地域のうち、イラン高原以外に暮らしていて、自分たちをアラブの遊牧戦士の子孫だと思っていて、アラビア語由来の方言を喋っている人たちがアラブ族である。


シリアやイラクのアラブ族は、砂漠から来た先祖たちと同じように「部族」という単位の中で生きている。

部族の結束は非常に強いけど、部族ごとに考えることはバラバラで、部族を超える「国家」なんて概念は持っていない。

過去の諸帝国も有力部族の族長たちを押さえていただけで、それより細かいレベルまで把握はできていない。

そんなところに、いきなり縁もゆかりもないハーシム家の王族が来たところで、すんなり王国ができるのかどうか。


アラブ局の一員で、大英帝国でいちばんアラブ世界に通暁している女性、ガートルード・ベルが地ならしにかかった。

BellK_218_Gertrude_Bell_in_Iraq_in_1909_age_41
ガートルード・ベル
photo credit 

517: 名無しさん@おーぷん 2014/08/17(日)23:12:12 ID:1s0uGu8GI
恐ろしい時代があったもんだ
100年前の空手形がいまも生き続けてるのか

518: 2014/08/17(日)23:36:41 ID:UZZseBJP0
英国占領下に置かれたメソポタミア。

ベルは各地の有力族長たちに今後の方針についてインタビューして回る。

「これからイラクをどうして欲しいですか?」


「ハトゥン(女官長)よ、貴女の国は偉大で裕福で、我々は貴女の国に支配されている側じゃ。
さて、かつてのオスマン帝国であればスルタンの統治に服したいと迷わず申したところじゃが、イスラームの道から外れた今のトルコ政府は嫌じゃ。貴女は国政術を心得ておられる。
貴女の臣民になるならば満足じゃ」

「どもども。ところでメッカのハーシム家をイラクの王に戴くのはどうでしょう」

「は? いくら預言者の子孫でも彼らはヒジャーズの人で、わしらとは信仰以外に何の縁もないですぞ」

というわけで、ハーシム家を歓迎する空気などどこにも無い。むしろ想定にすら入っていない。


中間管理職の苦悩を抱えたガートルード・ベルであったが、どうしようもない。

イラクの有力者たちの中でもっとも有力な人物、バスラのサイード・ターリブがハーシム家の前に立ち塞がるであろう。

彼女はゼロゼロセ○ン的な組織に連絡を取り、一言命じた。
「消せ」

ターリブはスリランカに拉致されていき、他の族長たちは全員ベルの説得に服した。

519: 2014/08/17(日)23:38:07 ID:UZZseBJP0
ところで有力族長たちが口を揃えて言ったことがある。

「シーア派には気をつけなされ。奴らを国政に関わらせてはなりませぬ」


イスラームの少数派であるシーア派は、サファヴィー朝以来、隣国イラン(ペルシア)の国教と化している。

しかしシーア派の中心は本来イラクにあった。イラク南部の聖廟都市ナジャフ。

ここには彼らがアッラーのごとく崇拝する第4代正統カリフ・アリー、そしてカルバラーでウマイヤ朝に虐殺されたイマーム・フサインの墓がある。

ナジャフには世界中のシーア派から莫大な寄進が流れ込み、ナジャフの法学者たちもまたイランをはじめ、世界中のシーア派に影響力を及ぼしている。

いわば「国家の中の国家」。

もともとスンナ派が多数を占めていたイラクでもシーア派信徒が徐々に増大しつつある。

族長たちはシーア派に深い不信を持っていた。


ガートルード・ベルは決めた。

シーア派は徹底排除。スンナ派だけから成るイラク王国を建設する。


以上のような調査と下準備により、カイロ会議ではガートルード・ベルがほとんど一人で新国家を設計した。

「王はハーシム家の第三王子ファイサル。兄たちは無能ですから」

「政府はスンナ派で固めます」

「国境はこう引きます。海岸線が短いですが、クウェートの独立を尊重しますのでやむを得ません」

国境の引き方について、ロレンスが異論を挟む。

「クルド人地域は異質ですよ。そこは分離させないと」

苛立ったベルは一言でこの問題を片づけた。

「お黙り! 青二才」


こうして無理と矛盾に満ちた人工国家、イラク王国が出来上がったのだった。

520: 2014/08/18(月)00:01:15 ID:o2DifdsGi
1921年6月。

英国によってイラク新王に担ぎ上げられたファイサルがバスラに到着した。歓声は全く上がらなかったという。

ガートルード・ベルが必死に奔走し、辛うじて有力族長たちの形式的な支持は取り付ける。

イラク王国の独立は名ばかりで、実質的にこの国を支配するのは大英帝国、その代理人たるガートルード・ベルだった。

族長たちに「女官長」と畏敬され、英国人たちには「砂漠の女王」とあだ名されたベルだが、聡明な彼女にはこの国の不安定さが洞察できていたに違いない。

なによりも、国王自身がこの国を愛していない。

なんでもある日ファイサルは、こう呟いたらしい。

「バグダードは所詮ダマスカスの代わりにならない」

打ちのめされたベルは、まもなく謎の急死を遂げる。たぶん服薬自殺。


ハーシム家のイラク王国はその後も安定せず、最終的に汚職と英国の影に不満を持った軍人たちによって
1958年に打倒されることになるだろう。


ロレンスが心配した通り、クルド人たちも暴れだす。

もともとトルコ帝国解体直後、アナトリア東部の山岳地帯に暮らしていたクルドの諸部族はケマル・アタテュルクの進める土地の再分配に反発して蜂起を始めていた。

蜂起を強引に鎮圧し、さりげなく大量虐殺までやらかしたアタテュルクは国際社会の圧力でクルド地域の一部をイラクに割譲。

しかしイラクに入ったら入ったで、クルド人たちはイラク政府からの徴税に反発し、スーフィズム修行者を中心にゲリラ戦を開始。

クルドの戦士たちは「ペシュメルガ」、すなわち「死の淵を歩む者」と称される。

恐れを知らないペシュメルガの蜂起はトルコやイラクの政権を長く苦しめ続ける。

522: 2014/08/18(月)00:14:04 ID:o2DifdsGi
一方、肥沃三日月地帯の西側はどうなったのか。


トランスヨルダン王国はファイサルの兄、ガートルード・ベルが「無能」と評したハーシム家の第二王子アブドゥラーを国王として迎えた。

アブドゥッラーの趣味は食べることと、どこが面白いのか不明な笑い話を連発することだったという。

ベルが言う通り無能っぽいわりに、こちらの王家自体は未だに続いているのだから世の中分からんものである。


英仏によるシリア一帯の委任統治は、しばらくはそこそこ上手くいったらしい。

レバノンの内陸あたりでは怪しげな少数派教団とか怪しげな部族長とかがたびたび蜂起していたけれども。

都市部は順調に経済発展し、教育も推進されたので、アラブ系の知識人たちも増えた。



パレスチナでも、この時代はそれなりにうまく宗教共存ができていた。

時々アラブ人とユダヤ人の小競り合いはあるにせよ、聖地エルサレムもおおむね平穏で、アガサ・クリスティーがミステリ小説を書きに来たりしていた。


今思えば穏やかな昼下がりのような時代、あるいは嵐の前の静けさだったのかもしれない。

526: 名無しさん@おーぷん 2014/08/18(月)00:25:08 ID:cj3NXB7WI
イギリス等西欧諸国が中東を引っ掻き回した感が強いし、確かにそうだけど、介入してなかったとしても宗派や民族とかでゴタゴタしてたなこりゃ

532:  2014/08/18(月)22:00:30 ID:fDAWdE8bk
>>526
よく言われることだけど、オスマン帝国のままの方がよかったのかもね。
タガが外れると大変なことに。

527: 名無しさん@おーぷん 2014/08/18(月)00:34:40 ID:ntgizQRps
おつ

パレスチナにクルド人地域か
解決する日は来るのかねぇ

532:  2014/08/18(月)22:00:30 ID:fDAWdE8bk
>>527
解のない方程式だからね。
地政学的に自然な住み分けは、何世紀もの流血と淘汰を経て達成されるのが本来の姿なんだと思う。

529: 名無しさん@おーぷん 2014/08/18(月)10:33:15 ID:EelM9CzWD
イスラムど素人の俺がこのスレの内容から考察した

誕生当時としては非常に合理的で先進的な社会システムを「宗教」というパッケージで偽装することでイスラムは勢力を拡大した

「宗教」なので優れた社会システムの意義などを理解せずとも、ただ信仰するだけで自動的に社会システムに組み込まれる これが中世にイスラムが繁栄した理由

しかしこれには大きな弱点があった、教義にされてしまったため、その社会システムのアップデートが非常に困難だった

発生当時は非常に先進的で合理的だったが、それも今は昔の話

蠱毒のごとく苛烈な生存競争、自然淘汰を繰り返し洗練された「近代西洋文明」という猛毒には抗えなかった

この「近代西洋文明」というイスラムをも上回る社会システムが誕生した時点で、人類の文明発達におけるイスラムの存在意義は消滅したとも言える

>>1的にはどう?

530: 名無しさん@おーぷん 2014/08/18(月)10:55:47 ID:Qzu6m5wsa
>>529じゃないけど本来のイスラームは非常に柔軟的な思想体系で教義の"解釈"によって発生した問題へ対処してきたよ

例えば一夫多妻制とか原理主義に則れば禁止なわけだけど柔軟な解釈によって女子供救済のためにイスラームでは認められた

イスラームにとって驚きだったのはおそらく徹底した合理主義との遭遇だったんじゃない?

なぜなら登場した当時のイスラームは合理主義の最先端だったから

西洋の合理主義を見て「まさかそこまで合理的にやるのか!?」とイスラーム世界は驚いた


イスラーム以上の合理主義との出会いは、より合理主義へ傾倒すべきだという意見(革新派)と、感情を無視しすぎるのは良くないという意見(保守派)が生まれるに至った

それを今もまだ引きずって居るのではないかと

532: 2014/08/18(月)22:00:30 ID:fDAWdE8bk
>>529-530
すごく面白い議論。

>>529は大筋同意。
ただ、(単なるレトリックとして表現したのかも知れないけど)初期イスラームが意識的に「宗教を偽装」したわけではないと思う。

たぶんムハンマドは本気で自分を預言者だと信じていて、真摯に教えを説いたんじゃないかと。

でもってイスラームの教説は当初から合理的なところが多かったけど、>>530のように柔軟な事後解釈を繰り返すことで時とともにさらに合理性が増していったんだと思う。

ただ、イスラーム文明が完成するにつれて、教義解釈も硬直化していった。

ガザーリーの時代にすでに「イジュティハードは閉じられた」、「哲学は信仰と矛盾する」と結論づけられてしまった。


>>530さんの意見もマクロ的に見ると核心を衝いていると思うんだけど、西洋の衝撃に直面した頃のイスラームからはすでに柔軟性や合理性は失われつつあったんじゃないかと。

そこで、アフガーニーやアブドゥフみたいに初期イスラームの創造性を蘇らせようという思潮と、ケマル・アタテュルクみたいにイスラームを諦めよう(全体的な世界観ではなく単なる信仰へ)という思潮が出てくる。

そして前者の思潮がさらに分裂して、>>530にあるような核心派と保守派が出てくるのかな?


>>529さんの、「人類の文明発達におけるイスラムの存在意義は消滅」というのについては、何とも言えないね。

前提として、個人的に人類の歴史に特定の目的や方向性があるとは思わないんで、生態学でいう「種の多様性」みたいな意味でできるだけ多様な世界観が共存している方が好ましいと思う。

だからイスラームも消滅するより存続するほうがいいと思うけど、科学技術の発展や社会システムのベースとしては、当面、主流に返り咲くことはないだろうね。

ごちゃごちゃ書いたけど、端的にいうと>>529も>>530も巨視的に見て正しいと思う。

533: 2014/08/18(月)22:18:14 ID:fDAWdE8bk
第一次世界大戦後、肥沃三日月地帯の束の間の平穏とは裏腹に、南のアラビア砂漠は風雲急を告げていた。


サウード王家の当主、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは天性の覇王である。

ガートルード・ベルは彼を「政略家にして治平の人、そして略奪者。歴史的典型を例証」とレポートした。

つまり、20世紀に生きながら古代中世のあまたの英雄たちと同じ気質、同じ素質を持つ男。

砂漠の豹をいつまでも鎖に繋いでおくことなど、所詮無理な相談だった。

大戦終了後、いや増すサウード家の力を警戒した英国は、その仇敵たるラシード家に乗り換えた。

だが、ラシード家の都ハーイルには陰謀が渦巻き、当主イブン・ラシードは兇刃に倒れる。

宿敵倒るの報を受けたイブン・サウードは直ちに北進し、1921年11月にハーイルは陥落。


イブン・サウードの次なる標的はヒジャーズ王国。

両聖都の守護者という栄誉、巡礼者が落とす莫大な収入。いずれも豹の食欲をそそる。

1924年4月、イブン・サウードはヒジャーズに侵攻開始。

太守フサインは国を捨てて逃れ、サウード軍は聖都メッカに無血入城を果たした。

そして1925年にはメディナとジェッダも陥落し、ヒジャーズ王国はあっけなく滅亡した。


イブン・サウードは、ペルシア湾岸に点在するいくつかの英国保護領を除き、アラビア半島全土の平定を達成した。

しかし彼の進撃はここで停止する。

イブン・サウードはあくまでも砂漠の王であり、アラビアの外には何ら興味はなかったらしい。

生涯を通じて彼が砂漠の外に出たのは、ほんの数回に過ぎない。

534: 2014/08/18(月)22:31:36 ID:fDAWdE8bk
アラビアを平定したイブン・サウードは内部の敵に直面した。

他でもない、これまで彼の覇業を支えてきたイフワーン軍団である。


イブン・サウードは大戦のさなか、2回だけ自らの王国を離れ、イラクで英国と協定を結んだ。

そのとき彼は、近代西欧文明の生み出した数々の利器を初めて目にし、その力に魅了された。

アラビアを平定したイブン・サウードは現代的な機器、電話やラジオや自動車などを率先して取り入れた。

しかしこれが、ワッハーブ主義に凝り固まったイフワーン軍団を憤激させたのだ。


イブン・サウードは電話を敵視するイフワーン兵士たちを納得させるため、ウラマー(法学者)に電話でコーランを朗唱させてイフワーンに拝聴させた。

「電話が悪魔の機械ならコーランが聞こえるわけがあるまい。納得したか」


だが、それ以上に対処し難いのは、ワッハーブ主義の宣教と戦利品を求めて、イフワーンが勝手に国境を越えて聖戦を始めたこと。

英国と全面戦争になったら完全にアウトだというのに、イフワーンどもには理解できんようだ。

535: 2014/08/18(月)22:51:48 ID:fDAWdE8bk
伝説に曰く。

サウード王家の始祖と宗祖アブドゥル・ワッハーブは、第一次サウード王家創建の際に、以下の盟約を結んだという。

サウード王家はワッハーブ主義のイスラーム宣教のために聖戦を行い、イスラーム法を施行する。

王国の統治はサウード家に属し、宗教における権威と司法はワッハーブの末裔たるシェイフ家に属する。
国家の重要な決定にはシェイフ家の同意を必要とする。


サウード王家の統治の正統性は一にワッハーブ主義の擁護にある。

国境問題によって聖戦停止を余儀なくされたイブン・サウードは、代わりにワッハーブ主義を宣教する本の出版に力を入れ、宣教師を国外に派遣するという条件でシェイフ家の法学者たちを納得させた。

イスラーム法の施行については、「勧善懲悪委員会」なるものを設置し、国民がワッハーブ主義をきちんと守っているかを監視し、取り締まることとした。

具体的にいえば恋愛禁止とか。

そんなわけでシェイフ家との提携に成功したので、イブン・サウードはいよいよ頭の固いイフワーンの粛清に着手。

ウサギ狩りが終われば猟犬は煮られる運命なのだ。



イブン・サウードは卓越した政治家だったが、アラビア半島は複雑怪奇な諸部族の血縁がものをいう世界である。

この地を支配するために、イブン・サウードは実に直接的な方策を取った。

あらゆる部族と血族になり、あらゆる場所にサウード王族を配置しよう!

彼はアラビア中の部族から数えきれないほどの妻を娶り、生涯に36人の息子を儲けた。

以後、彼の子孫は順調に増殖し、現在およそ5千人。

軍政の要職から地方の行政官まで、王国の統治機構のすべては王家の血族によって独占されている。


こうして砂漠の豹は己が王国を確立した。

しかし殲滅されたイフワーンの怨念は深く潜み、やがて王国と世界に災いをもたらすことになるだろう。

それはもう少し後の話になる。

536: 2014/08/18(月)22:58:25 ID:fDAWdE8bk
(イブン・サウードの息子は36人って書いたけど、ある本だと269人って書いてある。どっちやねん)

次:part19 イランと石油の世紀