part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀

英国インド領の誕生


560: 1 2014/08/21(木)23:35:13 ID:aI6YnPYhZ
(インドについての最新情報は>>336

関連:part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり


1857年に、モーブー反対ブリテン反対を叫ぶ兵士たちによってインド大反乱が発生したことを機に英国は、形の上でだけ続いていたムガル帝国を完全に滅ぼした。

ムガル帝国最後の皇帝はビルマに流刑となり、代わって英国女王ヴィクトリアが「インド女帝」を称す。

ヴィクトリア女王自身がインドに来れるわけはないから、実際にはインド総督兼副王が名代として即位式の主人公となる。

いわゆる「英領インド帝国」の誕生である。

 
561: 1 2014/08/21(木)23:53:06 ID:aI6YnPYhZ
インドは途轍もなく豊かな国である。

モンゴル帝国以降、世界史の中心が陸から海へと移り始めたとき、真っ先に浮上し始めたのはヨーロッパではなくインドだった。

インド西部のグジャラート地方は膨大な木綿を生産し、インドの綿布と染料はムスリム商人たちによって世界中に輸出された。

多量の雨と肥沃な土壌、尽きせぬ金と宝石の鉱山。

インドはあまりにも豊かであるがゆえに、あまりにも多くの人々がそこで暮らし、ゆえに個々のインド人はあまりにも貧しい。そんな国だった。


大英帝国は人類史上で最大の国家であり、全盛期には地球の海の半分、陸の4分の1を支配した。

そのGDPの5割を占めるのがインドである、というのは前も書いたような。

帝国のあらゆる戦場の最前線で、常にもっとも勇敢に戦ったのもインド人兵士たちだった。

まさにインドは英国の王冠を飾る真珠なのである。



英国は当初、彼らなりに真剣に善意を持ってインドを統治した。

イギリス東インド会社のヘースティングスが推進したように、インドのことを本気で理解しようとした。

各地の藩王や末端の行政官、兵士たちは英国の王や女王に心底から忠誠を誓っていた。

これは英国の名誉のため?にも明言しときたいけど、第一次世界大戦の頃になっても、バッキンガム宮殿の警備を務めたインド兵は故郷の家族に

「本日国王陛下を御尊顔を拝したてまつり、あまつさえお言葉までも賜ったのは我が一族の至高の栄誉」と書き送っている。



インドの愛国心溢れる歴史家たちはいろいろと疑問を呈しているけど、イギリスの愛国心溢れる歴史家たちによれば、大反乱以前の英国お膝元のベンガル地方では、総督が単身スラム街を散歩しても全く危険を感じないほど英国の支配は安定していたという。

英国人として英国にアイデンティティを持ちながら、何世代にもわたってインドに居住し、代々インド統治を担う家系もいくつも存在した。


だが、インド大反乱をきっかけに英国のインド支配は性格を変える。

英国はインドの民衆から距離を置き、それまで以上に「帝国」としての威厳をこれ見よがしに誇示しながらも大反乱の反発を警戒して安全第一の姿勢に徹する。

あらゆる行政措置を文書として保存し、官僚たちは何事も過去の前例によらねば行動しない。

英国のインド統治は鈍重になった。

562: 1 2014/08/22(金)00:14:50 ID:xCgUVzib0
そんな官僚たちが目の敵にしたのは、その頃次第に台頭しはじめたインドの知識人たちだった。

大英帝国は「未開人に文明を伝える」ということを生きがいにしているお節介な支配者なので、わりあい早い時期からインド各地に各種の学校や大学を作って、インドの支配階層の子弟に「近代的」な教育を広げてきた。


ところがこれら知識青年たちは、田舎の藩王や愚直な兵士たちと同じように大正義イギリスに感謝して忠誠を誓えば良いものを、いらんことにルソーだのロックだのを読みはじめ民族自立がどうこうだのと愚にもつかないことを発言しだす。

大正義イギリスの目から見ればインド人など三歳児のようなものだというのに、生意気!

インドのイギリス人たちは、インド知識人たちを「バブー」と呼んで嘲笑った。



といっても現実のインド知識人たちは英国人が認識しているよりもずっと大人だった。

インド植民地では英国の統治機構の末端に潜り込んだとしても早々に出世の青天井にぶつかることを見越し、

英国本土に渡って刻苦勉励した末に、なんとまあ王室から爵位を賜って英国本国の貴族になったり、身の程知らずにも「英国本国の国会議員」に選出されるインド人まで登場した。
なんとまあ。


インド人として初めて英本国の下院議員となったダーダーバーイ・ナオロージーは、1866年にロンドンで、インドの統治を改善し、インドの自治を拡大することを目的とする政治団体を設立。

まもなく同様の団体が英国やインド各地に誕生するのを目にした英国人たちは、迎え火を打った。

「インド国民会議」という団体を作り上げ、これをインドの知識人たちの不満のはけ口として使うことにしたのだ。

けれど残念ながら、この「安全弁」もまた英国人の思惑を超えて勝手に動き出すことになるだろう。

564: 1 2014/08/22(金)00:41:40 ID:xCgUVzib0
ところで、その頃インドの諸宗教は激動の時代を迎えていた。

イギリス人による圧倒的に強力な支配、否応なしに迫られる「近代」への対応が、いずれの宗教にも深刻な自己反省と革新を要求したのだ。

ヒンドゥー教にせよゾロアスター教にせよシーク教にせよ、おおむねは伝統的な教義解釈をできるだけ「合理的」な方向に切り替えることを目指した。


北部の平原と南の沿岸部を中心にインド亜大陸に浸透したイスラームも例外ではない。

たとえば、大反乱が起こるまでイギリス東インド会社の行政官を務めていた「サイイド・アフマド・ハーン」。

彼は何しろヨーロッパ文明の威力を肌で知っている。

イスラーム再生のためには遠慮なく西欧文明を取り入れるべしというのが持論である。


もともとインドでは、ムガル帝国衰退期に「シャー・ワリー・ウッラー」というイスラームの改革者が出て、

ムハンマド・アブドゥフよりはるかに早く「イジュティハードの門は開放された」と宣言し、教義の積極的な再解釈を呼びかけていた。

サイイド・アフマド・ハーンは若き日にワリーウッラーの思想に傾倒した過去を持つ。


サイイド・アフマド・ハーンに言わせれば、奇跡なんぞはすべて迷信であり、なんでも合理的に説明できる。

聖典コーランの内容はすべて科学的に合理的に解釈すべきであり、常識的に説明できないような解釈は間違いに決まっている。

たとえば、預言者ムハンマドがある夜の夢で天使ジブリールにエルサレムへ連れていかれ、昇天して過去の預言者たちとアッラーに出会ったという有名な伝説も一言で切って捨てる。

「夢でも見たんじゃろう」


未だに某超大国の少なからぬ人々が全く受け付けない進化論も泰然と受け入れた。

「人間はアダムから進化したんじゃよ」

565: 1 2014/08/22(金)00:44:26 ID:xCgUVzib0
サイイド・アフマド・ハーンが拠点を構えたアリーガルには、多くの信奉者たちが集まって弟子入りした。

斬新にしておおらかな思想家に惹かれるのは同信徒だけではない。

彼の弟子にはヒンドゥー教徒もゾロアスター教徒もキリスト教徒も大勢おり、彼自身も断固として宗教の寛容を説いた。

「わしらは皆インドの空気を吸い、インドの水を飲み、ウルドゥー語という共通語まで持っておる。神様に関すること以外、わしらはみんな仲間なんじゃから、仲良くせねばならんよ」


イギリス人すらも例外ではない。

彼によれば英国の支配はある種の「恩恵」であり、この優れた支配者から大いに新しい知識を学ぶべきだという。


こんなサイイド・アフマド・ハーンを激しく批判する人々もいる。

インドで英国支配の横暴さを目にして汎イスラーム主義をはじめたジャマールディーン・アフガーニーなど口を極めてサイイド・アフマド・ハーンの「軟弱さ」を罵った。


不和は決して良き果実を生まない。

サイイド・アフマド・ハーンは、弟子たちの争いを憂えるあまり、晩年になるとヒンドゥー教の長所ばっかり熱く語るようになったらしい。なんだか本末転倒。


サイイド・アフマド・ハーンの熱心な弟子たちは「アリーガル派」と呼ばれ、偉大な師匠が世を去ってからもその教えを広め続ける。

しかし人間世界は非情なもので、サイイド・アフマド・ハーンほどに広い心を持てる人間は少ない。

彼の憂慮は遠からず現実となり、インドは宗教対立の炎によって引き裂かれることになるだろう。

566: 1 2014/08/22(金)01:08:14 ID:xCgUVzib0
1898年、時代の弊風とは一線を画するインド副王が着任した。

彼の名は「ジョージ・ナサニエル・カーゾン」。

生まれながらの貴族であり、生粋の帝国主義者である。

同時代の人々と同様、その威厳に敬意を表して「カーゾン卿」と呼びたい。

カーゾン卿は何世紀も続くダービーシャーの貴族の家に生まれ、イートン校を経てオックスフォードに進学。

俊英の名を欲しいままにするが、性狷介にして人を寄せ付けず、自ら恃むところ極めて大であった。李陵気質。


カーゾンは大英帝国が人類の歴史上で最も偉大な帝国であることを確信しており、インド副王になることと英国首相になることを生涯の目標としていた。

若年にして政界に進出し、中央アジアを旅してグレートゲームの前線をつぶさに実見する。


39歳という前例のない若さでインド副王の位を手にしたカーゾンは、何事も前例踏襲に汲々とする植民地官僚たちを叱咤し、決して冷笑以外の笑みを浮かべることなく、極めて荘重かつ威厳をもってインドを統治した。

カーゾンはそもそも英国の浮薄な社交界なんぞ大っ嫌いであり、インドの藩王や中央アジアの族長たちと
語り合うほうがよっぽど性に合っていたらしい。

彼は生まれながらのインドの王侯のように悠悠と象籠に乗り、高い壇の上から兵士を閲兵し、英国政府の統制をはねのけて独断でチベットに遠征軍を送り、艦隊を率いてペルシア湾を巡察した。

世が世ならインドで独立王朝築いていたんじゃないか。

カーゾンは厳格で公正であり、多くの英国人と違って真剣にインドを理解しようとし、インドを尊重した。

荒廃していたタージマハルを修復し、英国人の連隊がインド人に暴行を加えた時には連隊全員を重罰に処した。

生まれる時代が遅かったのかもしれない。中世であれば峻厳な名君として名を馳せただろう。

567: 1 2014/08/22(金)01:26:52 ID:xCgUVzib0
「卿」を一回付けただけで後は忘れてた。



しかしカーゾン卿の本分はあくまでも帝国主義者。

自分の内なる規範と帝国の名誉のために公正に振る舞ったまでのことであり、何より優先すべきは帝国が確固として植民地を支配すること。

1905年、飢饉と民族主義者の騒擾に直面したカーゾン卿は、騒ぎの中心であるベンガル州を東西分割することを発表した。

ベンガルは英国がインドで最も早くに掌握した地域であり、当時の帝国首都カルカッタもベンガルにある。

人口8千万人を超え、東部ベンガルにはムスリム、西部ベンガルにはヒンドゥー教徒が多い。

ベンガル分割の表向きの理由は「一つの州政府が統治するには広大すぎる」というものだったが、本音は誰の目にも明らかだった。


ベンガルをムスリム地域とヒンドゥー地域に切り分けることでインドの民族主義者たちを分断し、宗教対立を煽って相互牽制させようというのだ。



副王の真意を見抜いた民族主義者たちは東西の別なく大反対運動を組織した。

飢饉に苦しむベンガルの民衆もこれに参加し、各地で数万人規模の抗議集会が開かれる。

そのうえで民族主義者たちは英国商品の徹底的なボイコットを呼びかけた。

この動きは間もなくインド全土に広がった。運動は「スワデーシ」、つまり国産品愛用運動と呼ばれる。

考えてみるとイランのタバコ・ボイコット運動と時期も内容もほとんど同じような。


目に見える形で全インドの民衆が英国統治への反感を露わにした。

カーゾン卿はまもなく副王を解任され、1911年になって英国はベンガル分割令を撤回。

帝国政府は逃げるようにカルカッタを去り、デリーに移転したのだった。


ベンガル分割によって民族主義に水を差すという政策はとんだ藪蛇になったけど、英国の狙いがまったく外れたわけではない。

反英運動の一方でヒンドゥー教徒とムスリムの対立も露わとなり、ムスリムたちは自分たちの利益代表として「全インド・ムスリム連盟」を結成した。

20世紀を迎えて、大英帝国の王冠を飾る真珠はきな臭い気配を漂わせ始めている。
 
571: 1 2014/08/23(土)22:33:54 ID:7qL0sT86I
ところでイスラーム世界の歴史を書いていてなんだけど、敵役たちの音楽がなかなか良い。

オスマン帝国末期を書くときには第一次世界大戦のときのセルビアの歌を聴いてたし、今は「ルール・ブリタニア」とか「スペインの淑女たち」とかを聴いていたりする。

572: 1 2014/08/23(土)22:53:55 ID:7qL0sT86I
一概には言えないけれど、総じてムスリムたちはヒンドゥー教徒に比べて英国の支配に迎合する傾向があったとされる。


インドの愛国的なヒンドゥー教徒たちはアショーカ王を讃え、ガンジス川で沐浴したけど、そんなのムスリムには関係ないし。

ベンガル分割にしたって、インド全体のなかでは少数派であるムスリムにとって、自分たちが多数派になる州ができると考えればむしろ歓迎すべき事態かも、という見解も出てきたし。

英国もそのへんの構図を見越して、ムスリムたちを意図的に優遇した。


そんなわけで先行するインド国民会議はもっぱらヒンドゥー教徒だけのグループとなり、ムスリムの知識人たちは全インド・ムスリム連盟に集結し、互いに口論しあうようになった。


だが、ちょっと待ってほしい。

インド人同士で内輪揉めしていては、英国に対する抗争など到底覚束ないではないか。

危機感を覚えた若者たちが「ひとまず宗教対立は脇に置いて手を組もう」と両派に呼びかけた。


ムスリムたちが英国に愛想を尽かす決定打となったのはベンガル分割令の撤回、そして全イスラーム世界の「カリフ」を擁するオスマン帝国と英国が開戦したことだった。

こうして1916年、デリー南方のラクナウで、国民会議と連盟のあいだに「ラクナウ協定」が締結される。

立役者となったのは、インド人には「インドのリーダー」、英国人には「揉め事の父」と言われたヒンドゥー教徒の「ティラク」、

そして後に自国の民から「最も偉大な指導者」、英国からは「邪悪な天才」と呼ばれたムスリムの「ジンナー」である。

インド民族主義の新しい世代が台頭し、英国支配からの独立が視野に入る。

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ジンナー
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573: 1 2014/08/23(土)23:16:37 ID:7qL0sT86I
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、英領インド帝国のインド兵たちは世界各地に出征し、西部戦線でもガリポリでもメソポタミアでも東アフリカでも、世界のどこであれ最前線で戦った。

インドの民族主義者たちは「これほどまでに帝国のために貢献したのだから、当然インドの自治拡大、かなうことならば独立付与も期待して当然」と考えた。

しかし戦後の英国は、大切な王冠の真珠であるインドを独立させる考えなど全く持っていない。

前から対英自立を目指している知識人たちはもちろん、英国支配のなかで貧窮の度を増していった普通のインド人たちも、いい加減イギリスの支配にうんざりし始めていた。


大英帝国もまた大戦を経て変質した。

第一次世界大戦の死者は全世界を合わせて1千万。「一世代の若者を飲み込んだ戦争」といわれる。

帝国を支えるべき、もっとも有能で野心的な若者たちが真っ先に戦場で命を落とし、戦後の帝国は深く消耗。

イギリス人は世界支配への意欲を失いはじめ、各地の植民地の人々も、縁もゆかりもない戦場で必ずしも優秀ならざる英国人士官たちに一方的にこき使われて散々犠牲を出した結果、宗主国に幻滅しはじめた。

インドの文官や軍人になりたい若者は減り、本国から来るのは二流の人材ばかりになった。


インド人の恨みと英国人の倦怠。それが交わるところで惨劇が起きた。


1919年、金ぴかの黄金寺院で有名なシーク教徒の聖都アムリットサルで民族主義者が主導する暴動とデモが発生。

英国の現地指揮官は図に乗った連中に教訓を与えることにして、グルカ兵に命じて広場に集まった群衆に無差別銃撃をしたのだ。

これが当時にあっても「帝国の歴史上最大の汚点」といわれた「アムリットサルの虐殺」である。

大反乱の終息以来、英領インド帝国において平時に英国人が被支配者を虐殺したのはこれが最初だった。


もはやインド帝国の平穏は望めない。

英国は民族主義者たちを押さえこむべく、社会秩序を乱す者に対しては逮捕状なしに無制限の拘禁ができるという新法を制定した。


この世情のなかで、インドに魔術師が登場した。

敵と味方を問わず、あらゆる人々を魅惑し、一挙一動で大衆の心を自在に操る世界史上屈指のカリスマ。

彼の名は「モハーンダース・カラムチャンド・カンディー」。

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ガンディー
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574: 1 2014/08/23(土)23:27:37 ID:7qL0sT86I
ガンディーはインドの大衆に非暴力抵抗運動を説き、まあしょっちゅう逸脱して流血沙汰になったにせよ
インド全土の人々は支配者英国人に対して徹底的な非暴力のサボタージュを敢行した。


非暴力で抵抗している人間に暴力をふるったら、誰が見てもこっちが悪者になる。

まったくとんでもない嫌がらせだった。

ガンディーは台風の眼になった。

彼が糸車をクルクル回せば、インド中の農民や金持ちや藩王たちも糸車をクルクル回した。

英国はこの新規な民族主義者をどうにも扱い兼ねた。

何より直に彼に面会したイギリス人たち自身が続々と魔術にかけられた。


ガンディーが逮捕されたとき、判決を下した英国人判事は「あなたの刑期が短縮されることを望みます」と言い、

1930年に有名な「塩の行進」でインド全土が騒擾に包まれると、副王アーウィンはインドに平和を回復するためにガンディーに倣って自分も断食をしようかと真剣に考えたという。

英国人は気弱になり、魔術師を戴くインド人たちは自信を強めていった。

大英帝国の支配の終焉


575: 1 2014/08/23(土)23:50:17 ID:7qL0sT86I
最終的に英国のインド支配の弔鐘となったのは1939年に勃発した第二次世界大戦だった。

この戦争はインド支配だけではない、七つの海を支配する大英帝国そのものの終わりの始まりになる。


イスラーム世界の歴史という観点からは、二度目の世界大戦は最初の世界大戦ほどのインパクトはなかったといえる。

確かに独ソ戦でソ連領内のムスリムたちも大戦に巻き込まれ、ドイツのロンメル将軍が北アフリカを東進し日本が東南アジアに南進し、英ソ領国がイランに進駐したけれど、

第一次のときのようにイスラーム世界心臓部の中東が直接戦火に晒されることはほとんどなかった。

しかし大英帝国にとって、第二次世界大戦は大いなる運命の分かれ道だった。


大戦初期には英国本土もドイツ空軍による猛烈な空爆にさらされた。

世界各地の植民地や従属国は援軍を送り出しこそしたものの、その態度は明らかに消極的だった。


ヨーロッパ大陸のドイツ軍は第一次世界大戦のときよりはるかに強大だった。

英国はついに独力でドイツを破ることができず、反撃に転じたソビエト連邦、そして何より大西洋の彼方からやって来たアメリカによってようやく危地を脱することができたのだった。

欧州を守ることができなかった英国はもはや戦後の世界を支配することができないだろう。

覇権を継承するものはこの大戦の決着をつけた二つの新興国家に他ならない。


そして大英帝国にとってもっとも予想外かつ最大の敗北は東洋におけるもの。

ドイツ・イタリアと組んだ大日本帝国は開戦早々、英国東洋艦隊を覆滅し、東洋支配の拠点である難攻不落の要塞都市シンガポールを陥落させた。

日本軍は東南アジアを席巻し、ビルマを制圧し、インド国境地帯にまで侵攻した。

日本軍に後押しされた独立運動家のチャンドラボースはインド人に英雄ともてはやされた。

英国の軍事的評価は致命的に失墜し、インド国民会議は「ゴートゥーホームっ!!」と怒号。


なによりもインド人を激怒させたのは、当のインド人に一言の相談もないままに副王が4億人のインド人の世界大戦参戦を宣言したことだった。

インドの広汎な地域で反乱が起こり、デリーとカルカッタの連絡も寸断された。

もう無理、ほんと無理・・・


世界大戦終結後、大英帝国はついにインドを諦めた。

576: 1 2014/08/24(日)00:26:40 ID:spwixjlkI
ところが独立が現実化しはじめた段階になると、インド側がバラバラになってしまった。

インド国民会議は自分たちこそ中央政府を引き継いで当然だと主張していたが、シーク教徒はシーク教徒だけの国を欲しがり、英国支配の恩恵を受けていた藩王たちは独立そのものに反対。


そしてラクナウ協定を実現したジンナーも、全国選挙でヒンドゥーよりは少数のムスリム勢力が惨敗を喫して以降、ムスリムだけの独立国家が必要だと主張するようになった。

「9千万人のムスリムは少数民族ではない。亜大陸のヒンドゥーとムスリムは異なる国民となるべきだ」


独立主義者たちの論争をよそに、大英帝国による現実のインド統治機構は急速に崩壊しはじめた。

中央政府は弱る一方で、文官の多くを占めるインド人は怠業し、全土に暴動とストライキが広がった。

海軍が反乱を起こし、アフガン人の侵入やシーク教徒の蜂起が噂された。

カルカッタではとうとうヒンドゥー教徒とムスリムの宗教戦争が顕在化する。

1946年8月に2つの宗教の信徒が激突し、5000人もの死者が出たのだ。


ジンナーはますます声高に「我々はインドを分割させるかインドを滅ぼすか」と叫び、ガンディーは何故か胸を張って「英国人に告ぐ。我らに混沌を与えよ」とドヤ顔でのたまった。


「くそ暑いなか国民会議派たちは公園で押し問答し、ジンナーもシーク教徒も思ったことをなんでも口に出し・・・」


この状況で健気に英本国と絶えず情報を交換し、インドの指導者ネルーやジンナーやガンディーと権限移譲プロセスの詳細について討議を続けていた副王ウェーヴェルはとうとう匙を投げてしまい、

「もう知らんわ。一州ずつ順番にイギリス人は民間人も軍隊も全員撤退していって、インド人は放っておくわ」と本国に打電した結果、副王をクビになった。

577: 1 2014/08/24(日)00:26:54 ID:spwixjlkI
最後のインド総督になったマウントバッテンは、歴代副王のなかで初めての本物の王族で、若くて意欲的だった。

彼は前任者よりも辛抱強くインドの指導者たちと討議を重ねた。

彼自身としてはヒンドゥー教徒とムスリムが融和する統一されたインドを残して円満に去りたかったのだが、それはどうやら非常に困難だった。

マウントバッテンは133回インドの指導者たちと会見した。


ガンディーはあらゆる会話を自分のペースに巻き込み、末期癌に冒されたジンナーは頑として主張を曲げない。

ジンナーによれば、たとえ国土がシンドの砂漠だけになってもヒンドゥー教徒の統治に国を委ねるよりマシだという。

それを英国仕込みの完璧な英語と完璧な法律知識で滔々と述べ立てるのだから実に面倒くさい。

やっぱり無理だよなあ。


マウントバッテンは1947年8月15日、大戦終結の2年後を英国のインド撤退の日付と決定した。

インドの分割はとうとう避けられない。

亜大陸でムスリムが多く暮らすのは西アジアに最も近い西北のインダス地方と、中世の海の交易路の要衝である南部沿岸および東ベンガル。

地図の上に新たな国境線がひかれ、国庫も軍隊も2つに分割された。

インダス地方と東ベンガルという飛び離れた2つの地域が共通のムスリム国家となることが決められた。

その国の指導者はもちろんジンナー、そしてその国の名前は「清浄なる国」を意味する「パキスタン」となった。



インド全土で人間の大移動がはじまった。

1100万もの人々が故郷を捨てて、自分の宗教に従って新たな国境の正しい側に身を置くために右往左往した。

いたるところで無情無慈悲な大暴動が発生し、わけのわからない混乱のなかで何十万もの人々が殺された。

さなかで魔術師ガンディーすらも暗殺者の銃弾に倒れた。


一つの帝国が滅び、二つの国が生まれる間隙のなかで警察機能は完全に麻痺していた。

最後のインド帝国文官たちは、たった2か月あまりで二つの新国家の行政組織を整備するのに忙殺されていたのだから仕方ない。


藩王国も次々に帰属先を決めていく。

最後まで帰属を決められなかった国は3つ。そのなかにカシミール藩王国がある。


1947年8月15日。

大英帝国はインド亜大陸より撤退し、ヒンドゥー教徒を多数派とするインドとムスリムを多数派とするパキスタンという2つの新しい国が成立した。

578: 1 2014/08/24(日)00:58:19 ID:spwixjlkI
こうして南アジアに誕生したイスラーム国家パキスタン。

といっても何千キロも離れたインダス地方と東ベンガルが一つの国になるというのは無理があり、

やがて東ベンガル、インダス地方の「西パキスタン」との格差に耐え切れなくなって独立戦争を開始し、「バングラデシュ」という、毎年大洪水み見舞われる可哀想な国として分離独立する。


ムスリムの国として独立したパキスタンから、ベンガル人の国として再独立したバングラデシュ。

そんな経緯もあって、この国は一貫して世俗主義の路線を歩んでいる。


ところで独立したパキスタンはインドとのあいだに懸案を抱えていた。

両国の国境地帯に位置するカシミール藩王国が、どっちの国に入るか期日までウダウダ迷って決められていなかったのだ。

カシミールはインド亜大陸北西のどん詰まり、ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原とヒマラヤ山脈がぶつかるあたりの風光明媚な高原の国で、ムガル帝国時代には「現世の楽園」と讃えられ、歴代皇帝がたびたび避暑に訪れたものだった。


当時、カシミールは藩王がヒンドゥー教徒で、住民のほとんどがムスリム。

迷った藩王は「いっそカシミールだけで独立するか」と思いつくが、パキスタンに入りたい民衆は暴動を起こす。

そこにパキスタン軍まで侵入してきたので、恐怖に駆られた藩王はインド政府に支援を要請した。


ってわけで、カシミールがインドとパキスタンのどっちに入るのか、長い長い紛争が始まった。


1947年、第一次印パ戦争。
1965年、第二次印パ戦争
1971年、第三次印パ戦争。


東西冷戦だの中国の干渉だの核開発だのも絡み、現世の楽園カシミールは南アジアの火薬庫になってしまった。

1987年にはインド政府がカシミール州議会の選挙に不正干渉したっぽいことから大規模な暴動が発生し、
「ジャンム・カシミール解放戦線」が成立。


同時期のソ連によるアフガニスタン侵攻とも関係しながらみるみる過激派し、テロに走りはじめた。

カシミールの紛争は今にいたるもいっかな終息の気配を見せていない。


新生パキスタン自体では、新国家の姿としてムスリム主流なだけの「普通の国」を目指すのか、イスラーム法を施行する「正しいイスラーム国家」を目指すのかで内部対立が延々続いた。


ジンナー自身はあくまでも多数のヒンドゥー教徒のなかでムスリムの立場を守るために独立国家を作ったらしいが

ムスリム国家という旗印を掲げる国ができた以上、「もっと徹底してイスラーム化しよう」という勢力が出るのも一理はある。


1970年代になると、カシミールと同じくソ連のアフガニスタン侵攻がパキスタンの国情を変える。

西側諸国はパキスタンをソ連に対抗する拠点とし、イスラーム世界各地から「ソ連への聖戦」を誓う武装戦士たちをパキスタンに呼び集めた。

少し後の時代に「ムジャヒディン」と呼ばれる連中である。

その影響でパキスタン国家自体がイスラーム主義に傾くことになるのだが、詳細はまた後日。


今夜はここまで。

579: 名無しさん@おーぷん 2014/08/24(日)01:03:22 ID:g7N65UNAu
おつ

インドも混沌としてますな

580: 名無しさん@おーぷん 2014/08/24(日)01:05:18 ID:c3MaDUdy6

印パのカシミール紛争が、これで何となくでも分かった

581: 名無しさん@おーぷん 2014/08/24(日)01:23:52 ID:VeK6zY7RU
<国歌>英国愛国歌「ルール・ブリタニア!(Rule, Britannia!)」
https://www.youtube.com/watch?v=dGnbSyMsq2Y


582: 1 2014/08/24(日)01:31:30 ID:spwixjlkI
>>581に便乗して

「Lord Louis Mountbatten Leaves India AKA Mountbatten Leaves India (1948)」
(ルイス・マウントバッテン卿、インドに別れを告げる)
https://www.youtube.com/watch?v=C4U1LDFBKsQ


引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説

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