part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀
part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
part21 イスラエルの独立宣言

第一次世界大戦後のエジプト



596:  2014/08/25(月)23:29:01 ID:okU1q1yBa
世界大戦が終わった後、しばらくのあいだエジプトが中東における台風の眼になる。
というわけで、エジプトの状況について少し遡ってみる。なお、最新情報は>>369

関連:part15 アフガーニーの説くイスラーム復興


第一次世界大戦の終了後、パリで講和会議が開催される。

このとき、会議には旧オスマン帝国本国のトルコはもとより、英国の肝いりで作られたヒジャーズ王国からも第三王子ファイサルが出席したし、ほとんど戦争に関係なさそうなエチオピアなんぞも招請された。

ところが、エジプトには全く音沙汰なし。


いちおうこの時点でエジプトは独立した国家である。

限りなく英国に従属しているとはいえ、財布も軍隊も英国に握られているとはいえ、それでもムハンマド・アリー朝はまだ存続している。

そのエジプトの存在が列強に完全無視されたことは、エジプト人の誇りをいたく傷つけた。


あのアフガーニーの弟子にしてアブドゥフの同志、ウラービー革命にも参加した筋金入りの愛国政治家サアド・ザグルールが英国高等弁務官のところに乗り込んだ。

「エジプトは独立国家なので、講和会議に代表団を送りたい」

「その代表団とやらはどこにいるのかね。聞いたこともない」

「私が代表になる!」


英国はザグルールたちの出国を許して船に乗せた。

ところが船は何故かあらぬ方向へ進みだし、パリには行かず、英領マルタ島に到着。

着くなりザグルールたちは島の牢獄に放り込まれた。


これを知るやエジプト人たちは大暴動を起こし、全土で反英デモを繰り広げユニオンジャックを掲げた店を片っ端からぶち壊してまわった。


恐れをなしたイギリスは1922年に「わかったわかったエジプトは独立国でちゅねー」と宣言。

ちょうど旧宗主国のオスマン帝国も消えたこととて、これまで「総督」とか「副王」とか呼ばれていたムハンマド・アリー朝の君主は正式に王号を名乗れることになり、「エジプト王国」が成立する。


ただし「独立国同士の対等な条約」により、相変わらずエジプトには英国軍が駐留し、外交も英国がコントロールし、

スエズ運河も英国が管理し、戦時にはエジプトの港湾も飛行場も通信設備も全部英国が自由に使えることになった。

どこが独立国なのかと小一時間。

 
597: 2014/08/25(月)23:47:33 ID:okU1q1yBa
エジプトに渦巻く反英感情のなか、「ムスリム同胞団」という政治結社が生まれた。

創設者は「ハサン・アルバンナー」。

彼はアフガーニーの弟子のアブドゥフの弟子のリダーの弟子ぐらいに位置する思想家で、職業としては学校教師をしていた。

古来、革命家の供給源は教師と医者と学生と軍人である。彼も伝統を踏まえて登場したわけだ。

バンナーは喫茶店でアッラーのありがたい教えを説くなど、現代日本ならば警察を呼ばれそうな活動を行っていた。

彼の説く教えに共感した6人の仲間(職業:大工・運転手・クリーニング屋・車輪工・床屋・庭師)が集まって1928年に結成したのが「ムスリム同胞団」だった。


コーランによれば、イスラームの信徒はみな同胞であるという。

しかるに現今はいたるところに西洋の思想が流入し、列強がイスラーム世界を支配し、世も末というありさま。

いまこそ信徒がみな同胞であるという原点に立ち返り、あるべきイスラームの社会を取り戻そう。

同胞団はこんな信条を掲げた。

といっても、目標は遠大で同胞団の力は弱い。彼らはまず身近なボランティア活動から出発した。

しかしバンナーの教えは誰にでも分かりやすく、あっという間に支持者が急増。

わずか数年で同胞団は数十万人規模に膨れ上がり、各地に学校や病院を建設するようになる。

ここまで規模が大きくなると、同胞団はひとつの政治組織としての影響力を持ち始める。

40年代には反英闘争も開始し、第一次中東戦争では戦場に義勇兵まで送り込んだ。

ムスリム同胞団は全イスラーム世界で知られ、尊敬を集めるようになる。各国に支部もできた。



ところが暗転。
50年代に入ると、組織が巨大化しすぎ、末端が暴走しはじめる。

政治的な弾圧に備えて守りのために作った「秘密機関」が指導部の手を離れて暴力行為をはじめ、

とうとう政府要人の暗殺まで試みるにいたり、可哀想にバンナーは政府の秘密警察に殺害され、54年には同胞団自体が非合法化されてしまう。


20世紀後半のイスラーム世界を揺るがす「ムスリム同胞団」の歴史は、だが、これからが本番となる。

同胞団についてはひとまずここでいったん区切り。

598: 2014/08/26(火)00:07:27 ID:Io9MM9CDj
さて、第二次世界大戦がはじまる。

いたるところに英国人の姿がありながら、挙国一致で反英のエジプト人たちは北アフリカを東進するドイツ軍、ロンメル元帥のカイロ入城をワクテカワクテカと待ち受けた。

エジプト国軍の幹部も英国の目をくぐってリビアのドイツ軍と接触しようと試みるが、乗った飛行機が離陸直後に高圧電柱に激突して墜落。

陰謀ばれーので逮捕となる。

英国はこの事件に衝撃を受けた。

チャーチル首相の特命により、身長192センチ、体重114キロという巨漢の英国大使ランプソンは戦車と装甲車で王宮を完全包囲し、夜更けに国王の部屋に乗り込んだ。

このとき、国王ファルークは22歳。

明るく自信に満ち、才能豊かで国民に人気のある王だった。

「邪魔立てするな!」

侍従を押しのけ、英国大使はファルーク王に吠えた。

「ただちに閣僚を全て罷免し、我が国の指名に基づく新内閣を組閣しろ。さもなければこれだ!」

退位勅書を突き付けて、直ちに署名するよう迫る。

国王はしばらく抵抗するも、結局は屈服し、親英派内閣の組閣を受け入れた。


1942年10月19日、エル・アラメインの戦いで英軍がドイツ軍に圧勝し、ロンメルのエジプト侵攻は挫折。

そして国王ファルークは、この夜を境に人格が一変した。

599: 2014/08/26(火)00:48:17 ID:Io9MM9CDj
その頃、カイロで「ガマル・アブデル・ナセル」と「アンワル・エル・サダト」という2人の青年将校が
対英蜂起を目指して秘密組織を作っていた。

ロンメル率いるドイツ軍のカイロ入城に合わせて一斉蜂起する予定だったが、ドイツの敗退によって計画は挫折。

しかし秘密組織は戦後も生き続け、1947年からは「自由将校団」と称する。

自由将校団の秘密保持は徹底していて、ほとんどの構成員は組織の最高指導者が誰なのかも知らなかったという。


1948年。第一次中東戦争が勃発すると、自由将校団の知られざる最高指導者、ナセル少佐も出征した。


戦争は散々だった。

英国大使に威迫されて以来すっかり萎縮した国王ファルークは、憂さを晴らすかのごとく快楽に溺れ、何千人もの女性をとっかえひっかえして弄び、国益など度外視して賄賂を貪っていた。

軍の装備も横流しされまくり、戦場に届く兵器はポンコツの不良品ばかり。大砲は暴発して敵より味方を殺傷した。

ファルーク王は、いやムハンマド・アリー朝自体がもはやエジプトにとって害悪でしかないとナセルは確信した。


1952年1月。
英国軍とエジプト警察の衝突がきっかけとなって大規模な反英暴動が起こり、全国が無政府状態となった。

7月22日。
混乱に乗じて自由将校団は王政打倒のクーデターを決行した。

その日、カイロの気温は47度。

耐えがたい酷熱のなか、わずか2人の死者を出したのみで政府と軍は陥落。

ファルーク王は退位と国外退去の要求を突き付けられ、悄然として自国を去った。

いわく、「この世で最後まで残るのはトランプの王か、あるいはイギリスの王か」。

クーデターがあまりに迅速で、運河地帯に撤収していた英国軍は手も足も出すタイミングがなかったようだ。

19世紀初頭より続いたムハンマド・アリー朝エジプト王国はこうして終わりを告げた。


今夜はここまで。(短い)

600: 名無しさん@おーぷん 2014/08/26(火)01:41:38 ID:njy8KU0UN

確実に歴史的なその時のことを覚えてる人が生きてる

601: 2014/08/26(火)21:58:57 ID:dzQNK0kBX
この年に生まれた人はいま62歳。

70歳以上のエジプト人なら、物心ついて世の中の様子もわかる年齢になっていたはずだね。

いまのところまだ固有名詞で生存中の人は登場してないけど、それも秒読みか。誰が最初になるか分からないけど。

602: 名無しさん@おーぷん 2014/08/26(火)22:17:13 ID:YFQp78zJX
こうやって見てると世界大戦の前と後でのイギリスの衰退ぶりが凄いな

603: 名無しさん@おーぷん 2014/08/26(火)22:33:19 ID:WtGGmvx3E
>>602
イギリスは世界大戦に勝つたびに衰退してて草
第三次大戦に勝ったら無くなるかもしれん

ナセルの栄光と第二次中東戦争


604: 2014/08/26(火)22:34:58 ID:dzQNK0kBX
さて、こうして1952年7月のクーデターにより、自由将校団は「腐ったメロン」とあだ名される若年性メタボのファルーク王を追っ払い、アケメネス朝ペルシアの征服以来およそ25世紀ぶりに「エジプト人によるエジプト」を実現した。

といっても、自由将校団のトップであるナセル大佐は黒幕過ぎて、この期に及んでもほとんど誰も存在を知らない。

当座、軍の実力者のナギーブ将軍が大統領に担ぎ出され、34歳のナセルは副首相になった。

エジプト人もイギリス人も、ナギーブ将軍がクーデターの首謀者だったんだろうと納得した。

ところがそのうちに、ただの看板だったはずのナギーブが実権を握ろうと動き出す。

政争が起こり、1954年にナギーブが失脚し、空位の2年を経て、56年にナセルが第2代エジプト大統領となった。

この時期、ナセルは大地主たちの土地を接収し、貧しい農民たちに分配。

また、盛んに学校を建設し、識字率の向上に努めた。

19世紀エジプトでは、アラビア語は田舎者の言葉と思われていて、上流階級はみんなフランス語を喋っていたのだが、

ただの郵便局長の息子だったナセルは、気軽に街に出て人々とアラビア語で会話し、演説でも堂々とエジプト方言を使った。

「俺たちにできなかったことを平然とやってのける・・・そこに痺れる憧れるっ!!」

民衆はナセルに熱狂した。


ナセルは、国民に大いなる夢の実現を約束した。それはアスワン・ハイ・ダムの建設。

エジプトは太古の昔から、毎年繰り返されるナイルの洪水によって豊かな実りを得てきた。

しかし洪水はいつも想定した通りに訪れるとは限らない。水位が低すぎても高過ぎても民は飢える。

そこでナイル上流に巨大なダムを建設し、ナイル川の流れを人の手で支配しようというのだ。

それはエジプトにとって大いなる希望となるはずだった。


ところが思わぬ事態がナセルを襲う。

ダム建設への融資を約束していたアメリカ政府が、突然「気が変わったから降りるわ」と通告してきたのだ。

どうもナセルが土地の再分配とか微妙にソ連臭い政策を進めたり、アメリカ主導の国際秩序に素直に従わないで「非同盟主義」などと称し、東側とも西側ともつかない、アメリカ的に胡散臭い国々と交友を深めていたのが気に入らないようだった。

605: 2014/08/26(火)22:51:13 ID:dzQNK0kBX
カネの当てがなくなった・・・

窮したナセルは乾坤一擲の賭けに打って出た。

「諸君、我が国には、国の中を流れているのに我々は指一本触れることができない金の川があったな」

スエズ運河を、獲る!


ところで、大戦中に我が物顔でエジプトを利用しまくっていた大英帝国は、戦争が終わるとコスト削減もあり、軍をスエズに撤収していた。

といっても、当然ながら運河は相変わらずイギリスが押さえている。

だが、ナセルには切り札があった。

傲慢な大英帝国は忘れたフリをしているが、実はエジプト政府がスエズ運河会社に付与した特許が1968年に切れる。

予定より少し早いけど、遅かれ早かれ運河はエジプトの手に戻るのが確定しているのだ。

でもって、イギリス軍のスエズ駐留を認めた条約のほうは、まさに1956年に切れる。

いけるか。


ナセルは1956年6月にスエズ駐留英国軍を全面撤退させることに成功。

そのうえで同年7月26日、スエズ運河会社の国有化を宣言した。

Nasser
ガマル・アブデル・ナセル
photo credit 

606: 名無しさん@おーぷん 2014/08/26(火)22:54:10 ID:YFQp78zJX
黄河文明も結局北方民族に乗っ取られるし
インダス文明もアーリア人にやられるし
古代文明ってどれもそんな感じやね

607: 2014/08/26(火)23:10:48 ID:dzQNK0kBX
イギリスは激怒した。

ちょうど植民地アルジェリアの独立運動をナセルが煽っていると思い込んでいたフランスを口説き、共同戦線を張る。

しかし、すでに帝国主義の時代は黄昏を迎えている。

古き良き時代のように、気軽に英国艦隊をスエズに上陸させてドンパチやるわけにはいかないのだ。

そこで英仏はあの国に目をつけた。イスラエルである。


イスラエルでは第一次中東戦争後、一時ハト派の政治家シャレットが政権を握り、アラブ諸国との仲直りを模索していた。

これがうまくいけば、いまのパレスチナ問題はなかったかもしれない。

しかし1955年、ベングリオンの子飼いの軍人、モシェ・ダヤンが首相に報告もせずにいきなりガザに侵入。

これでアラブ諸国との融和路線は木端微塵になり、失脚していたタカ派の政治家ベングリオンが首相の座に返り咲いた。

ベングリオンは、前の戦争で一時占領しながらもエジプトに返還させられた、ガザとシナイ半島を再占領しようと画策していた。

とくにシナイ半島を押さえることはイスラエルの通商・国防上、不可欠と考えられた。

なぜかというに、イスラエルが紅海側に持つ唯一の港アカバは、シナイ半島とアラビア半島に挟まれた湾の奥にあり、西岸のシナイ半島をイスラエルが押さえない限り、エジプトがいつでもアカバを封鎖できるのだ。


英仏はイスラエルをけしかけて、エジプトに侵攻させる。

しかるのちに停戦のためという名目で英仏が運河地帯に駐留し、再びスエズを確保する。

これが食えない両国の算段だった。


10月29日、突如としてイスラエル軍がシナイ半島に侵攻開始。

「第二次中東戦争」の勃発である。

608: 2014/08/26(火)23:28:04 ID:dzQNK0kBX
英仏はイスラエルにふんだんに最新兵器を投げ与え、一刻も早く介入したくてうずうずしつつ、シナイ半島沖合で待機に入った。

イスラエル軍は今回も圧倒的に強い。4日でスエズ運河から15キロの地点まで進出し、ガザを降伏させた。

沖合の英仏軍は大喜びで戦争介入をスタートし、11月5日に空からエジプト軍を急襲した。

同時に3ヶ国から攻撃を受けるなんて、ナセルの想定を超えていた。

英仏軍は運河の要衝、ポートサイドを制圧。

カイロの町には市民蜂起を呼びかける、単語も文法も間違いだらけのビラが大量に降り注いだ。

ところが、ここで事態が急転する。


「年寄りども、何を遊んでるんだ!」

新世界の神とでもいうべきか。

普段は鉄のカーテン越しに激しく冷戦中の米ソ両国が口を揃えて旧世代の二大列強を猛烈に非難したのだ。

だれがどう見ても英仏の横暴。国際世論は完全にエジプトの味方についた。


呆然とした英仏はすごすごと撤退し、後ろ盾をなくしたイスラエルもやむなく停戦した。

介入を主導した英国首相イーデンは病に倒れ、まもなく精神を病んで政治の舞台を去った。

英国が誇ってきたフェアプレイの精神はどこに消えたのやら。

1956年のスエズの冒険を持って、大英帝国の時代は本当の本当に終わったのである。

610: 2014/08/26(火)23:48:18 ID:dzQNK0kBX
ナセルは戦場で負けて戦争に勝った。

イスラエルの撤収を見たエジプト国民はナセルを英雄と歓呼し、スエズ運河の国有化も公式に承認された。

なお、イスラエルは怒ったアメリカに経済制裁食らう直前までいった模様。

アラブ諸国はエジプト大統領ナセルを中東の盟主と見なすようになった。

この波に乗り、1958年にナセルはシリアとエジプトを合邦して「アラブ連合」という新国家を打ち立てた。

ハーシム王家が支配するヨルダン王国とイラク王国は、さすがにナセルの築いた大国に不安を感じて「アラブ連邦」なる対抗馬をぶちあげるも、半年もしないうちに当のイラクでナセルに共感した軍人たちが蜂起。

ガートルード・ベルが懸命に作り上げたハーシム王家のイラク王国は、ファイサル1世の即位より僅か37年で滅亡したのだった。

ハーシム家の片割れであるヨルダン王国はイラクの王制崩壊に激しく動揺し、生き残るために徐々にアメリカやイスラエルに接近しはじめる。

この時期、中東はまさにナセルの天下であった。


しかし栄光は長くは続かない。

合邦したシリアとエジプトだが、国力でも威信でもエジプトの方が上だったので、シリアには多数のエジプト官吏や軍人が入り、

我が物顔に振る舞ったので、ナセルに憧れたシリア人たちも次第にエジプトに嫌気がさしてきた。

でもって1962年にはシリアが「やっぱ連合やめるわ」と宣言。まあ、はかないものだった。

613: 2014/08/27(水)00:30:47 ID:lnRC6LJnP
1967年の6月に「第三次中東戦争」が勃発し、この戦争でもってナセルの栄光は終わる。


この戦争の直接のきっかけはイスラエルとシリアの国境紛争だが、背景にはパレスチナ難民の存在がある。

イスラエル建国の際に故郷を追われたパレスチナ難民たちは、ナセルが英仏とイスラエルに対して勝利を勝ち得たのを見て、「自分たちもやればできるんだ!」と奮起。

1964年にアラブ諸国の肝いりで、パレスチナ人の国土回復を目指す「パレスチナ解放機構」(略称PLO)を設立した。

スローガンは「ユダヤ人を海に突き落とせ!」である。

1967年、シリアでパレスチナ解放機構を支持する新政権が成立し、「よっしゃやったるぜ!」とイスラエル領内に砲撃を始めた。

またしても国家の危機!

常に周囲を包囲されているという強迫観念(事実だけど)を持つイスラエル国軍は迅速に反応し、シリア国境に大軍を展開した。

狼狽したシリアは、なんだかんだ言って中東最強と思われるナセルに応援を頼んだ。

やるか。

さっそくナセルは総動員令を発し、イスラエルのアキレス腱であるアカバ港を封鎖。これがきっかけで全面戦争がはじまった。


だが、例のごとくイスラエル軍は異様に強い。

今回は開戦の瞬間イスラエル空軍がエジプトに殺到し、エジプト空軍が離陸もしないうちに爆撃の雨を降らせて制空権を確保。

シリア、ヨルダン、イラクの空軍も同様に壊滅させたので、イスラエルは全方面で事実上無敵となった。

思い知らせてくれるわ。

イスラエル軍はわずか6日でシナイ半島、ガザ、東エルサレム、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を制圧。

まさに電撃戦である。あまりに短期間に圧倒的勝利を収めたイスラエルでは、この戦争を「6日間戦争」と呼ぶ。


先に手を出したのはアラブじゃねーかい。

今回、国際世論は正反対となり、世界がイスラエルの味方になった。

とくにアメリカは第三次中東戦争によってイスラエルの軍事能力を再認識し、この国を中東の橋頭堡として大いに目をかけることになる。


大敗北を喫したナセルは大統領辞任を宣言。

いまだにナセル大好き継続中のエジプト国民は大騒ぎになり、カイロでは20万人の市民が「ナセル辞めるなー見捨てないでー」と泣き叫んだ。

そういうわけでナセルはこの後もエジプト大統領を務め続けるのだけど、中東における国際的威信は失ってしまった。


敗戦の衝撃と糖尿病と心臓病が積み重なってナセルが世を去るのは3年後の1970年9月。52歳の若さだった。


今夜はここまで。

615: 名無しさん@おーぷん 2014/08/27(水)00:46:14 ID:281ZZMIHR
もう現代か

第四次中東戦争と対イスラエル和平


618: 2014/08/27(水)23:01:27 ID:UjOk6VNcK
アラブの巨星堕つ。

1970年9月28日、ナセルの死が公表されるとダマスカスでもベイルートでもカイロでも無数のアラブが、あるいは呆然自失、あるいは激情のあまり小銃を空に向かって乱射しながら英雄の死を悼んだ。

10月1日の国葬では200万人のカイロ市民が霊柩車に殺到して大混乱になった。

といえばナセルの人気がどれほどのものだったか分かろうというものだが、一方でこんな話がある。

ナセルがとある精神病院を視察した。

入院患者が玄関前に整列して彼を出迎えたが、一人だけ挨拶をしない男がいた。

「なんで彼だけ挨拶をしないのかね?」とナセルが尋ねると、院長は答えた。

「ああ、彼は今日は正気なんですよ」


フセインだってジョンイルだってカダフィだって、表面的には同じくらい熱狂的に民衆に支持されているように見えたゆえ、実際のところ当時の民衆の本音は分からぬ。


ただひとつ確かなのは、後期のナセルがイスラエルとの対決にのめり込んで経済を後回しにした結果、エジプトの国家財政も民生もガタガタになっていたことだった。


第3代大統領となったナセルの盟友、アンワール・エル・サダトは、どこかでイスラエルと手を打たない限り国家基盤はじり貧になる一方だと見極めをつけた。

イスラエルと手打ちをする。

といっても、第三次中東戦争でぼろ負けし、ガザもシナイも占領されたままの状態で対決を終えるわけにはいかない。

万全の態勢で再戦を挑み、失地を回復してから勝者として手を差し伸べる以外に講和はあり得ない。


第三次中東戦争以来、イスラエルのバックにははっきりとアメリカがついた。ならばその敵を頼るまで。

サダトはソ連からひそかに大量の兵器を輸入し、シリアの大統領ハーフィズ・アル・アサド、リビアの独裁者ムアンマル・カダフィと密接に連携した。


兵は詭道なり。

1973年10月6日、ユダヤ教徒が一切の労働を停止し、1年のすべての罪を悔い改める大祭日、「ヨム・キプールの日」にアラブ連合軍100万が突如イスラエルを奇襲した。

「第四次中東戦争」の勃発である。

619: 2014/08/27(水)23:21:30 ID:UjOk6VNcK
イスラエル国防軍は完全に不意を突かれた。

アラブ諸国はソ連の戦車と装甲車を駆ってイスラエルの防御網を突破し、大量の対空砲でイスラエルの戦闘機を撃墜した。

わずかのうちにエジプトはシナイ半島、シリアはゴラン高原を奪還し、イスラエル本国に迫る。


しかし態勢を整えたイスラエル軍が反撃に転じると、戦況はいつものパターンに戻る。

イスラエル軍はシリアとエジプトの戦車部隊を撃破し、ダマスカス前面とスエズ運河まで逆侵攻。

だが、ここでアラブ諸国が凄まじいしっぺ返しを食らわせる。

中東全土の産油国がイスラエル側の諸国に対して石油価格の大幅な釣り上げないし禁輸を宣言したのだ。

たちまち世界経済は大混乱に陥った。いわゆる第一次オイルショックである。

慌てたアメリカがソ連とともに仲裁に入り、10月22日に停戦が成立。

この戦争では双方が勝利を宣言したが、大局的に見れば奇襲を食らって常勝神話が崩壊したイスラエルの戦略的大敗だといえるだろう。

イスラエルでは首相ゴルダ・メイアと国防相モシェ・ダヤンが失脚。

替わって反攻作戦を成功させた指揮官「アリエル・シャロン」が一挙に名声を高めるとともに、右派のリクード党が躍進することになる。

一方、エジプトでは緒戦を指揮した「ホスニ・ムバラク」が人気を博した。

彼はサダトの死後にエジプトの支配を受け継ぐことになる。




最初に登場した生存人物がムバラクというのは書き手も予想外でした。

620: 2014/08/27(水)23:43:21 ID:UjOk6VNcK
戦後、サダトは思い描いたプランの通りイスラエルとの和平に向けて邁進する。

まずは、ナセル以来の親ソ連的な外交方針を改め、アメリカに接近。

その力を借りてイスラエルとの兵力引き離しを成功させ、シナイ半島返還への道筋をつくる。

そして1977年11月、エルサレムを訪問しイスラエル国会に立って和解を訴えるのである。


第四次中東戦争で彼とともに戦ったアラブ諸国は愕然とした。

サダトはとんでもない変節漢、パレスチナとアラブの大義への裏切者だという怒号が沸き起こる。

しかしサダトは平然と自分の道を行く。

イスラエルとの緊張緩和によって軍事費も削減でき、スエズ運河も再開できた。この路線は間違っていないのだと。


1978年。
アメリカの仲介でエジプト大統領サダトとイスラエル首相ペギンが会談し、ついに平和条約を締結した。

なお、写真によるとペギンは明らかに嫌そうな顔をしている模様。

これによってアラブ諸国は完全にエジプトを見限り、相次いで国交を断絶。

アラブ諸国の国際機構も次々にエジプトを除名した。優等生はイジメられるのが世の定めなのであった。

国内経済にも次第に暗雲がかかる。

国としては確かに豊かになったが、あまりにも急速な経済成長によって格差と腐敗が広がり、むしろ国民の生活は苦しくなったのだ。



1981年、第四次中東戦争の戦勝記念パレードのさなかにサダトは暗殺された。

いずれ誰かに殺されるであろうことは、本人がいちばんよく知っていた。

防弾チョッキはカッコ悪いと主張して無防備で式典に臨んだ結果の惨事だった。


「ムハンマド・アンワール・サダト 戦争と平和に殉ず」

これが彼の墓碑銘である。

アラファトとパレスチナ解放機構


622: 2014/08/28(木)00:09:01 ID:Fgu5asoed
一方、サダトの興亡と同じ時期にもう一人の時代の雄が中東に登場した。

その名は「ヤセル・アラファト」。パレスチナの梟雄である。

アラファトは英国統治時代のエルサレムで生まれた。

(ということになっているが、カイロで生まれたという説もあり、パレスチナ人なのかどうかはっきりしない)


なお、「ヤセル・アラファト」というのは生まれた時に親から貰った名前ではない。

もともとは「ムハンマド・なんたらかんたら・フサイニー」というどこにでもあるような名前だったのだが、とある知り合いのパレスチナ人が死んだときに、彼の名前である「ヤセル」を頂戴したらしい。

DQNネームというわけでもあるまいに、やや謎である。

「ヤセル」というのは「静寂なる」というような意味で、「アラファト」は聖地メッカの丘の名前なので
通称を意訳すれば「静かなる聖地」というような含みになる。理想を名前に託したのかも知れぬ。


アラファトはエジプトで青年時代を過ごした。

どうもその頃、あのムスリム同胞団の一員になったらしい。

ムスリム同胞団はナセル登場と同時期に非合法化されて地下に潜っていたのだが、弾圧されるうちに思想が過激化し、イスラーム世界の解放のためには武力の行使も辞さないと説くメンバーも現れた。

それに共感したのか、やがてアラファトはパレスチナ難民の国土回復運動に参加し、武力によるイスラエル打倒を構想する。

ムスリム同胞団弾圧を進めるエジプト政府によってクウェートに追放されると、その地でパレスチナ難民を集め、「ファタハ」という武力組織を結成した。

アラファトは天才的なゲリラ指揮官で、第三次中東戦争の頃からイスラエル国境地帯を繰り返し襲撃した。

この頃、イスラエルによるガザとヨルダン川西岸の占領によって完全に拠るべき地を失ったパレスチナ難民はゲリラ戦士アラファトを英雄と讃え、続々とファタハに加入。

その結果、アラファトは先行のパレスチナ解放機構(PLO)を事実上乗っ取り、1969年に議長に就任。

こうしてアラファトはパレスチナ難民の指導者となったのだった。
640px-ArafatEconomicForum
ヤセル・アラファト
photo credit 

623: 名無しさん@おーぷん 2014/08/28(木)00:20:12 ID:Tu0oGLRlR
知ってる名前が出てくるとますます面白いな

624: 2014/08/28(木)00:30:18 ID:Fgu5asoed
しかし、アラファト率いるPLOの勢力があまりに巨大化し過ぎたため、パレスチナ難民に宿を貸していたヨルダン王国がその存在を危険視し始めた。

アラブの同胞としての同情から難民に住処を提供したら、その難民たちが勝手に武装して隣国と武力紛争をはじめたのである。

そりゃ、ヨルダンの気持ちも分かる。イスラエルが本格反撃してきたら被害を受けるのはヨルダンなんだから。

1970年9月、ヨルダン国王フサインはヨルダン正規軍を動員し、「国家の中の国家」と化したPLOの掃討に乗り出した。

PLO贔屓のシリア軍がヨルダン国境に向かって南下し、一触即発の事態となる。

第三次中東戦争以来の責任を感じたのか、余命数日のナセルが関係各国の首脳をカイロに集めて調停したのでどうにか事なきを得たが

ヨルダンにいられなくなったPLOは、結局近くのレバノンに移動して対イスラエル攻撃を続けることにした。

なお、ナセルは首脳たちを見送るために空港に行ったところで昏倒し、その日のうちに死亡した模様。


レバノンは小国だが、シーア派、ドルーズ派などのイスラーム少数派や、マロン派、ヤコブ派などの「東方キリスト教」諸派がモザイクのように錯綜するややこしい国だった。


そこに突然大量のパレスチナ人が押し寄せたことからムスリムとキリスト教徒の力のバランスが崩れ、泥沼の内戦が始まってしまった。

パレスチナ難民の立場は可哀想だけど、ヨルダンやレバノンにしてみれば迷惑極まりないわ。



1982年。
エジプトとの和平によって南の脅威が消えたイスラエル軍がレバノンに侵攻し、PLOを駆逐。

またしても拠点を失ったアラファトとPLOは今度は遠くアルジェリアに移動した。ご苦労である。


エジプトの離脱によってアラブの大連合とイスラエルが戦うという構図は消滅したので、このレバノン侵攻はふつう「中東戦争」には数えられていない。

これ以後、イスラエルとパレスチナの係争は国家間戦争というより、正規軍とゲリラやテロリストが対峙する非対称戦争に変質していくようになる。


今夜はここまで。


明日と明後日は旅行に行くので、たぶん休みます。

625: 名無しさん@おーぷん 2014/08/28(木)00:36:53 ID:vUfoUlUGB
ナセルは最後は壮絶だな

626: 2014/08/28(木)00:47:00 ID:Fgu5asoed
>>625
今から見れば良くも悪くも評価できる政治家だけど、何事にも私心なく献身的に取り組む人だったのは間違いない。

ちなみに最期の日の朝、ナセルは側近に電話で「疲れ果てた。24時間寝続けたい」と言ってたらしい。

体力の限界超えてたんだね。
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