part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀
part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
part21 イスラエルの独立宣言
part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争

ホメイニとイラン革命


631: 2014/09/02(火)23:26:29 ID:NM7Gn0UA0
第二次世界大戦の終結から1970年代まで、イスラーム世界中央部の歴史は、エジプトを盟主とするアラブ諸国とイスラエルとの抗争を軸に動いていたといえる。

まあ、それ以外にも北アフリカから東南アジアまで広大な地域にムスリムたちは存在するのだけど。

が、エジプトとイスラエルの講和によってこの構造が解体するのと同じ頃、東のかたイランで新たな炎が上がる。

その前史として、イランの20世紀をもういちど振り返ってみる。

632: 2014/09/02(火)23:34:57 ID:NM7Gn0UA0
19世紀初頭に成立したガージャール朝は当初から王権が弱く、20世紀に入ると英露列強の介入とタバコ・ボイコット運動や立憲革命などの民衆蜂起で動揺し、やがてパフラヴィー朝イランに取って代わられる。

パフラヴィー朝イランの建国者レザー・シャーは、トルコの初代大統領ケマル・アタテュルクに倣って
西洋的近代を目指す改革に着手し、ある程度は列強の干渉を廃することにも成功するが、

第二次世界大戦でドイツ寄りの姿勢を見せたため、英露両国の進駐を受け、玉座から放り出される。


その後、第2代国王モハンマド・レザーが権力を確立できないうちに文治官僚たちが台頭し、その筆頭である首相モサデクが民意を追い風に石油国有化に踏み切る。


ところが、これに反発した英米が政変を煽ってモサデクを失脚させ、国王モハンマド・レザーの後ろ盾となる見返りに元の通り石油の利権を確保した。

ここまで>>533

 

633: 2014/09/02(火)23:54:43 ID:NM7Gn0UA0
大正義アメリカというバックを手にした国王は、やりたい放題ができるようになった。

といっても後宮の佳麗三千人といったたぐいの古臭い施策には興味がない。

彼もまた、無期限バカンスのためモーリシャス島に旅立った父親にならって、西洋文明の導入による国家の富強化と、イラン民族主義の発揚に努めた。

大地主の土地を買い上げて貧しい農民に分け与え、荒野の開拓に努めた。

が、残念ながら灌漑設備を整えるのを度忘れしていたので、農民たちは食っていけずに都市に流れ込んでスラムの民となった。

富裕な階層の青年たちに西洋諸国への留学を勧めた。

が、残念ながら彼らの半分ぐらいは民主主義か共産主義のシンパになり、帰国してから王制打倒を目論むようになった。

女性と非ムスリムに参政権を与えた。

が、残念ながらシーア派法学者たちに猛反発され、撤回を余儀なくされた。

相変わらずイランは何をやっても空回りしてしまう。何かに取りつかれているのかね。


これらの改革をスムーズに進めるべく、国王は秘密警察を組織して反対派を容赦なく弾圧した。

なにしろ大正義アメリカが背後にいるので誰にも遠慮する必要はない。

シーア派法学者たちのなかでもとくにうるさい連中は国外追放にした。

哀れむべき民衆はギャアギャア騒いでいるが、長い目で見れば近代化こそが善政なのだから気にすることはない。

モハンマド・レザーは「アーリア人の栄光」なる称号を自称し、アケメネス朝ペルシア建国2500年祭を開催し、ついでにアケメネス朝建国を紀元とする「帝国暦」なるものも作ってみた。

これらもろもろに2億ドル以上が吹っ飛んでいったけど、大正義アメリカが(ry


1970年代に入ると石油相場の変化によって急激に経済が悪化し、貧富の差が広がった。

大半の民衆はますます国王にぶうぶうと不満を漏らし始めた。

そんな彼らが期待の目を向けたのは、いつも民衆とともに暴君と戦ってきたシーア派法学者たちだった。

634: 2014/09/03(水)00:06:52 ID:uYQZfoo6M
あらためて「シーア派」とは何ぞやということを振り返ってみる。

シーア派は当初、単なる政治的な路線対立のなかで生まれた。

イスラームの草創期、預言者ムハンマドの娘婿にして第4代正統カリフとなったアリーと、アリーのカリフ位に疑問を呈したシリア総督ムアーウィヤが対立した。

やがて過激派によってアリーが殺害され、ムアーウィヤがイスラーム世界の支配者となった。

それに反発し、あくまでもアリーとその一族の権威を擁護する一派がシーア派の起源である。

しかし、ムアーウィヤの血を引くウマイヤ朝の支配者たちは、アリーの子孫たちを危険視し、幾度も弾圧した。

アリーの子、すなわち預言者ムハンマドの嫡孫であるフサインも、ウマイヤ朝の軍兵に虐殺された。

そのなかで、シーア派は独特の信条を確立する。

「イスラーム世界の統治を担う資格を持つのは、預言者ムハンマドとアリーの血を引く嫡流男子のみ」

シーア派は、アリー嫡流の子孫たちを「イマーム」と呼んだ。


しかし歴代イマームはウマイヤ朝、さらにアッバース朝からも政権の支配を脅かす存在として迫害され続ける。

12代目に至ってイマームの血統は断絶した。

シーア派の信徒たちは、第12代イマームは一時的に「お隠れ」になっているのであり、いつの日か世界を再生するために再臨すると信じた。

だが、イマーム以外に信徒を正しく導く能力を持つ者はいない。

それゆえ、次善の策としてイマーム再臨の日までは、イスラーム法に精通した法学者たちが協議してイスラーム世界を導き、

そのうち最も学識ある法学者が「イマーム代行」として法解釈に最終責任を負うこととされた。

636: 2014/09/03(水)00:31:05 ID:uYQZfoo6M
北アフリカのファーティマ朝など多少の例外はあったにせよ、イスラーム世界の歴史を通じて多くの地域、多くの時代にシーア派は少数派であり、反体制派であり続けた。

ところが、16世紀初頭にイラン高原を統一したサファヴィー朝のイスマーイール1世は自国をシーア派の国家とすることを宣言した。

もともとイランは比較的シーア派に親和性が高い地域だった。

ウマイヤ朝に虐殺された第2代イマーム、フサインの妻はササン朝ペルシアの皇女であったという伝説がある。

くーるにいえばとっても胡散臭い伝説なのだが、アラブの遊牧民を「砂漠の蛮族」と見下すイラン人たちにとって

歴代イマームがササン朝ペルシアの血脈に連なるという可能性は胸躍るものだっただろう。

イスマーイール1世は、シーア派の拠点である南イラクのナジャフから多くの法学者を招き、イラン高原をシーア派に染め上げた。

以来、西南ユーラシアに広がるスンナ派の大海のなかで、ひとりイランだけがシーア派の孤島として佇立することとなった。


近代に入り、失政が続くガージャール朝に対して民衆が立ち上がった時、シーア派法学者たちは民衆に団結を呼びかけ、その蜂起の法的正当性を保証し、常に彼らとともに闘った。

それにまた。
イスラームに聖職者という階層は存在しないが、イラン高原の庶民にとって揺り籠から墓場まで人生の大事に常に立ち合い、

折々に生活の指針を示してくれる村の法学者たちは、キリスト教徒にとっての司祭や仏教徒にとってのお坊さんと同じくらい身近で信頼に値する存在だった。


パフラヴィー朝の抑圧と独りよがりな統治、経済混乱と生活苦。背後でドヤ顔をするウザいアメリカ。

不満を抱く民衆たちは、イランのシーア派法学者たちの最高権威者に希望を見出した。

その人は預言者ムハンマドの血を引く高貴な家柄に生まれ、若き日よりコムの町でシーア派神学と法学の奥義を究めた。

モハンマド・レザーの統治を激烈に批判したかどでイランを追放された。

国王の暗殺者によって息子を殺害され、フランスへ逃れて「ヴェラーヤテ・ファキーフ」、すなわち「法学者による統治」という理想を説き、イラン国民に国王モハンマド・レザーへの抵抗を呼びかけ続けていた。

驚異的なカリスマ性を備えた偉大なる導師。

彼の名は「アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニ」。

640: 2014/09/03(水)18:59:37 ID:qCeXD3kk9
1970年代後半、イラン国民の生活は窮乏の度を強めていた。

要はモハンマド・レザーが庶民の生活向上よりも見た目の近代化に闇雲に投資しまくったことと

その実行部隊である政府官僚たちが腐りきっていたことが理由である。

なんでも当時、平均的なテヘラン市民の収入の7割は家賃に消え、道路はがたがたで鉄道はマヒし、停電が毎日起こるような有様だったらしい。

そんななか、齢80歳になんなんとしながら国王への抵抗を説いてやまないホメイニに苛立った当局は、

とある新聞に「愚民どもが聖者扱いしているホメイニ師は実は!共産主義者だったのであーる」という与太を掲載させた。


なんだってガチガチ宗教家のホメイニが「宗教は人民の阿片なり」とのたまう共産主義者であるのか。

噴飯ものではあるが、ホメイニの故郷である聖地コムでは市民が激昂して抗議デモを行った。

これを鎮圧した警察や軍隊は無能だったので、手加減を知らずにデモ参加者から死傷者発生。

コムの人々は町をあげて40日間の喪に服したあと、再びデモを開催した。

で、また鎮圧くらって犠牲者が出る。

40日間の服喪をやり直して、もう一度デモ。

またまた死傷者(ry



デモと服喪の繰り返しがグルグル循環しながらどんどん規模拡大。

10回近く循環したところで、ついにテヘランで市民と軍隊が正面衝突して2000人の死者が発生し、シーア派大祭日の「アーシューラー」を機に事実上の内戦が開始される。

ホメイニは国外からラジオでアジ演説を繰り返した。

「暴君を打倒せよ!」「法学者の統治を実現せよ!」「真のイスラーム国家を再建せよ!」

怒号するイラン国民を眺めた大正義アメリカは、「パフラヴィー朝オワタ」と判定した。

ボスに見放された国王モハンマド・レザーは、1979年1月に「ちと疲れたから休暇取るわ」とのたまい、

趣味の飛行機操縦の腕を活かし、王室専用機で家族もろともエジプトへ去った。


こうしてイラン最後の王朝、パフラヴィー朝はわずかに2代54年にして終焉した。

2月に入ると亡命先のパリよりアーヤトッラー・ホメイニが帰国。

アメリカの後ろ盾を得た世俗的王制国家のイランは、一転してシーア派法学者によって統治される宗教国家となる。

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テヘランに到着したホメイニ
photo credit 

641: 2014/09/03(水)19:13:50 ID:qCeXD3kk9
1979年4月11日の国民投票の結果、ホメイニを最高指導者とする「イラン・イスラーム共和国」が正式に成立した。

従来の世俗法にかわってイスラーム法が国家法規となり、それに基づいて女性や異教徒の権利は著しく制限された。

婚姻や刑罰もすべて古来のイスラーム法をそのまま適用するので、幼女結婚も石打ち刑もどんとこい。


行政の長として大統領も置かれるが、「イマーム代行」である最高指導者のホメイニがさらにその上に立ち、宗教法に基づいて政府を指導する。

ホメイニと支持者たちの考えによれば、こうした国家体制をとることによって旧来の腐敗は一掃され、理想の社会が生まれるはずだった。


この1979年という年は、実はイスラーム暦の1399年から1400年にあたり、まさに世紀の変わり目であった。

このタイミングで出現した宗教国家イラン。

それはイスラーム世界の諸国に甚大な影響を及ぼした。

スンナ派国家でありながら少数のシーア派を国内に抱え込む西南アジアの国々は、イラン革命を強く警戒した。

その一方、各国の反体制派や世俗的な国家制度に飽き足らない保守派、原理主義者たちはスンナ派・シーア派を問わずイラン革命に強い刺激を受け、活動を先鋭化していくことになる。


欧米その他の国々にとって、イラン革命は理解不能だった。

「よくわからんけど石油の値段が上がるのは勘弁な」

ところがそんな欧米と革命イランは、間もなく真っ向から衝突する。

テヘラン事件とイラン・イラク戦争


642: 2014/09/03(水)19:30:13 ID:qCeXD3kk9
きっかけは亡命した元国王モハンマド・レザーの処遇だった。

最初エジプトへ逃れた国王はしばらく中東各国を転々とするが、まもなく癌の治療のためにアメリカ入国を申請した。

在位中に何度もホワイトハウスを訪問していたモハンマド・レザー。勝手知ったる他人の国である。

アメリカ大統領カーターは得体のしれないイランの宗教家たちが何を言い出すかと及び腰だったものの、

「こちとら病人なんだ。とっとと入国させろや人権屋!」とせっつかれた結果、元国王の入国を許可した。

が、予想通りイラン新政権はこれに反発した。

もともとイラン人はモサデクの油田国有化をひっくり返し、モハンマド・レザーを支援し続けたアメリカが好きくない。

ホメイニも「アメリカは大悪魔なり!」「不信仰者の国は滅び去るがよい!」などと盛んにぶちあげていた。

というところで、元国王の亡命をアメリカが受け入れた。

「やっぱりアメリカが暴君を操っていたのか! 知ってはいたけど今さら腹立つわ!」

イラン政府はアメリカに元国王の身柄と王室財産の引き渡しを要求するが、カーター大統領は拒否した。

「アメリカは国王の復権なんぞ支援する気はない。あくまでも人道的見地から病人の入国を認めたの。それ以外は知らん」

1979年11月4日、イスラーム法学校の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃した。

「何やってんのもう!」

政府穏健派は血相を変えるが、最高指導者は泰然としていた。

「よいのです」


テヘラン事件、勃発。

644: 2014/09/03(水)19:53:49 ID:qCeXD3kk9
大使館を襲撃した学生たちは外交官と警備員たちを人質にとり、アメリカ政府に元国王の身柄引き渡しを要求した。

アメリカは元国王を丁重にパナマへ送り出し、あの手この手で人質救出を試みるが、ことごとく失敗。

力づくで人質を奪い返す手も試したが、脱出用のヘリコプターがぶっ壊れて砂漠で炎上する始末だった。

学生たちの大使館占拠は1年を超え、肝心の元国王はエジプトで病死し、一向に人質を救出できないカーター大統領は選挙に落ちて退場した。

ところが、意外な方面から事態膠着が破れる。イラン・イラク戦争の勃発である。


余談だけど「イラン」と「イラク」は字面が似ているだけで、歴史的にも文化的にも全く別物なので要注意。

イラン地域とイラク地域は中世以来、だいたいいつもお互い敵視しあっている感がある。


メソポタミアことイラクでは、1958年にナセルにかぶれた軍部のクーデターでハーシム王家の支配が崩壊したあと、

今度は軍の内部で内輪もめが続き、最終的に「アラブ人の民族国家万歳、けどナセルなんてエジプト野郎は知らんわ」という一派、「バアス党」なる新興勢力が政権を掌握した。


バアス党は政権掌握後に軍を大粛清し、要所要所に党の幹部を配置。

さらに全国に治安部隊を張り巡らし、政敵あんど共産主義者だの王党派だのナセル信者だのシーア派だのクルド人だの

とにかく胡散臭い連中は片っぱしから叩き潰した。


そんな流れの中で徐々に頭角を現したのが「サダム・フセイン」という人物である。

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サダム・フセイン
photo credit 


バアス党の結成間もない頃に党に加入し、諜報活動や秘密警察の整備に従事。

バアス党が政権を奪取した際には、派手に戦車で大統領宮殿に乗り付けるといういいとこどり。

その後は内外の粛清に辣腕を振い、とうとう上司も追い落として大統領兼革命指導評議会議長に就任するのが79年。


独裁権力を握ったフセインは、難治の国イラクを手っ取り早くまとめるために「戦争」を欲した。

折しも隣国イランで時代遅れの狂信者どもがシーア派宗教国家なんぞをぶちあげる。

こんなわけのわからんもんが近所にできるとは大迷惑。

イラク国内のシーア派が勘違いして暴れだしたらどうしてくれる。


1980年9月22日。
シャットル・アラブ川の領有をめぐる対立を名分にイラク軍が隣国イランに一斉侵攻した。

 

645: 名無しさん@おーぷん 2014/09/03(水)19:56:31 ID:RWTOns9nU
イライラ来たか

646: 2014/09/03(水)20:03:24 ID:qCeXD3kk9
突然はじまった戦争にイラン政府は狼狽し、大使館占拠どころではなくなった。


サダム・フセインには勝算があった。

自国の後ろに連なるアラブ諸国はすべてシーア派宗教国家イランを警戒している。

アラブの最東端に位置するイラクは狂信者どもから中近東を守る防壁である。

これを支援せずしてなんとする。

実際、アラブ諸国は相次いでイラクに資金や物資をどさどさ供与した。

さらには地球の主人公たる米国とソビエトすらも、不気味なイランを抑える番犬としてフセインを援助し、イランに経済制裁を行った。

こんななかで、アメリカ政府はイラン政府を上から操る法学者たちのうち、若手のホープである「アリー・ハメネイ」なる人物に接触し、こんなことを囁いた。


「イランの王室財産は我が国の銀行に保管されているわけですが、あとは言わなくても分かりますよね」

という次第で、ついに人質は解放されたのだった。


今夜はとりあえずここまで。

647: 名無しさん@おーぷん 2014/09/03(水)20:09:52 ID:HudQwy6yn
この頃のイラクは日露戦争の頃の日本と同じ立場だったわけね
その後アメにフルボッコされるのもそういう運命だったのか

649: 名無しさん@おーぷん 2014/09/03(水)23:09:28 ID:WWi7cAGVT
>>647
そうかなー
不凍港を持つまで侵略するぜって明確な意思を持つ大国ロシアと単に不気味なイランとは同一視できないと思う

652: 2014/09/04(木)18:46:50 ID:FwfDZZ4tf
第二次世界大戦後、次々に独立したイスラーム世界の国々は、その実ほとんどが「イスラーム国家」ではなかった。

徹底して世俗化・西洋化したトルコはいうまでもなく、シリアにせよエジプトにせよイラクにせよ、

どれも「アラブの民族国家」ではあれど、イスラーム法を施行していたわけでも支配者が敬虔なムスリムだったわけでもない。

一世を風靡したナセル主義はあくまでもアラブ民族の団結を唱えるもので、宗教性とは無縁だった。

フランスから独立した北アフリカ諸国も、アフガニスタンやパキスタンも、東南アジアのマレーシアやインドネシアも少なくとも政府は揃って世俗的な政策をとり、政教分離を国是とした。


イエメンのザイド派国家やオマーンのイバード派国家の系譜は断絶し、あのサウジアラビアですら国父アブドゥルアズィーズの時代からすでに世俗化への道を歩み始めていた。


とはいっても懐旧の情、あるいは政治や日々の生活への不満から世俗路線に飽き足らず、イスラーム復興を目指す勢力も存在はした。

エジプトを中心に中近東一帯に拡大したムスリム同胞団然り。

サウジアラビアのワッハーブ主義保守派法学者、弾圧されたイフワーンの生き残り然り。

アルジェリアの「ウラマー協会」、パキスタンの「ジャマーアテ・イスラーミー」、東南アジアの「マレーシア・イスラーム青年党」然り。


ムスリム同胞団の非合法化に見られるように、長く後者は日陰の存在で、時代遅れのイスラームは衰退する一方かに見えた。

ところがイスラーム暦15世紀が始まった1979年、イラン・イスラーム革命がそんな状況を吹っ飛ばした。

これに刺激を受けたのか、突如として至るところでイスラーム復興運動が始まった。

火の手が最初に上がったのはサウジアラビアである。

654: 2014/09/04(木)19:13:45 ID:FwfDZZ4tf
イランで革命が起こってから1年も経たない1979年11月20日。

全イスラーム世界の中枢、メッカのカアバ神殿を取り囲むアル・ハラム・モスクが突如、200名あまりの武装集団に占拠された。

彼らの首領は、19世紀末にスーダンで登場したムハンマド・アフマドと同様に、世界終末の救世主「マフディー」を自称していた。

サウジアラビア政府はワッハーブ派法学者たちから武力による鎮圧のお墨付きを得ると、直ちに全力でモスク奪還にかかった。

対戦車ロケット弾で鉄の門扉をぶっ壊し、装甲車で中庭に入り、激しい銃撃戦を展開。

武装勢力が地下に逃げ込むと、パキスタンから特殊部隊の応援を得て、放水と催涙ガスを利用しながら徐々に制圧。

結局、モスクの完全な奪還が達成されたのは12月4日だった。

双方の死者は約150名に及んだ。


武装勢力を訊問したところ、彼らは初代国王に粛清されたイフワーン軍団の生き残りで、

王国が徐々に進める世俗化・西洋化路線に強い不満を持ち、真のワッハーブ主義国家を再建するためにこの挙に及んだと供述した。

だが、彼らの一部がイランのホメイニの写真を懐に大事にしまっていたことは、アラブ諸国を震撼させた。


なんにせよ「二つの聖都の守護者」を自認するサウジアラビアにとって、これは王国始まって以来の不祥事だった。

この事件のために、記念すべきイスラーム暦15世紀の始まりでありながらカアバ神殿への大巡礼は中止となった。

大巡礼が中止になるなど、それこそ前例がない事態だった。


サウジアラビアは初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの時代に油田が発見されて以来、

大英帝国に代わって中近東に進出し始めたアメリカ合衆国と親交を深め、経済力を増しつつあった。

あからさまに教義に反する行為は厳しく取り締まるにせよ、いつまでもワッハーブ主義一筋では時代に取り残される。

賢明なイブン・サウードの息子たちは現実をよく認識していた。


ところが、この惨事である。

王国の根幹を脅かされたサウード王家は、暴力に訴えてでもイスラーム復興を遂げようとする過激派に恐れおののき、王国の近代化に一気に慎重になった。

うかつに近代化し過ぎれば、いつなんどき似たような事件が再発するか分からない。サウジアラビアの苦悩の始まりである。


イスラーム復興の炎は暴力性を帯びながら各地に飛び火していった。


イラクでは、サダム・フセインが危惧した通り、シーア派の若い法学者「バーキル・サドル」が「ダアワ党」を設立し、世俗主義を取るバアス党と激しく対立した。


エジプトでは1981年にイスラエルと講和したサダト大統領が暗殺された。

その下手人も、異教徒との和平を拒否するイスラーム原理主義者だった。


一気にきな臭くなる西アジア。

そこに突然、ソ連が突っ込んでくる。


しばらく休憩。(もしかしたら今夜はここまでかも。短すぎる)

655: 名無しさん@おーぷん 2014/09/04(木)19:34:43 ID:FKgNoHVmq

むむむ、宗教で自分を縛るという感覚が自分にはないので原理主義は理解できん

656: 2014/09/04(木)19:43:33 ID:MUS3lf8Nu
縛るというより、「腐敗した独裁者を神の名において粛清せん!」という正義感やヒロイズムとか

「飢えに苦しむ家族を助けるために聖戦に赴いて神の国を創ろう!」という素朴な使命感に端を発してるんじゃないかなあ。

少なくともこの頃の原理主義者は。


日本や欧米なら政治改革や社会改革と宗教復興は結び付きにくいけど、当時の中近東の庶民の文化や教育、価値観や生活実感からすれば、わりとナチュラルにそういう発想が出てきたんじゃないかと思う。


ムスリム同胞団から今のハマスに至るまで、イスラーム原理主義組織ってのは平時には治安の維持とか慈善事業とか学校運営とか、本来政府がやるべきでありながら、汚職役人たちがサボっている仕事をやっているんだ。

子供の頃からそれを見て育てばね…。

657: 名無しさん@おーぷん 2014/09/04(木)20:14:17 ID:FKgNoHVmq
ああ、確かにそうかも

日本のくそ坊主(もちろんひとまとめには出来ないけど)見てたら信心もわかないけど、本当の聖職者らしい聖職者を見て育つと違うかもねえ

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説


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