part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀
part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
part21 イスラエルの独立宣言
part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争
part23 イラン革命とシーア派
part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑

イラン・イラク戦争の終結


690:  2014/09/07(日)22:41:17 ID:jJBkNqp3v
イランとイラクの動向に話を戻してみる。

ホメイニ率いるイラン・イスラーム共和国は、当初は東西冷戦のどちらの陣営にも与せず、イラン国内で「法学者の統治」を貫徹していくことだけを目指していたらしい。

ホメイニによれば「アメリカ逝ってよし、ソ連も逝ってよし」とのこと。

しかし、アメリカ大使館占拠事件やイラン・イラク戦争など、激動する政治状況のなかでイランはむしろ、積極的にイスラーム革命の理念を「輸出」していくことにした。


ホメイニによれば、そもそもナショナリズムなんていうのは西欧の異教徒どもがイスラーム世界を分断するために捏ね上げたもので、ムスリムは国境なんぞにとらわれず、

全イスラーム世界でイスラーム法が施行される理想の社会を実現すべきだというのである。

要するに「万国のムスリムよ、団結せよ!」ということか。

イラン政府は「革命委員会」なるものを組織して各国のイスラーム復興運動を煽り立てたり、諸外国の大使館を拠点にイスラーム革命の宣伝を行ったりした。


その結果として、イラン革命から1年も経たないうちにサウジアラビアでアル・ハラム・モスク占拠事件が起こり、カディーフの町ではシーア派の大暴動が発生した。


イラクでは第二次世界大戦以来、スンナ派に抑圧されてきたシーア派信徒がナジャフの最高位法学者バーキル・サドルのもとで「ダアワ党」として纏まりはじめていたが、

ダアワ党とイランの結びつきを恐れたイラク大統領サダム・フセインは、バーキル・サドルを処刑し、ダアワ党を弾圧した。

聖地ナジャフの最高位法学者が処刑されたことはイスラーム世界に激甚な衝撃を与えた。

ダアワ党の残党はテヘランに逃れ、イラン政府に協力してイラク軍と戦うことになる。


1981年にはペルシア湾岸の小国バーレーンでシーア派組織による政府転覆計画が発覚。

1983年にはクウェートでダアワ党の煽動による爆破テロが頻発。

さらに、レバノンでイスラエルの侵入に対抗して生まれたシーア派民兵組織、ヒズブラもイランの影響下に入る。


そんな風にイランはスンナ派諸国に揺さぶりをかけるとともに、イスラーム革命を連鎖発生させようと頑張ったのだが、

当然ながら周辺のスンナ派諸国、そして欧米諸国もイランを重大な脅威と見なして袋叩きにした。

 
691: 2014/09/07(日)22:42:59 ID:jJBkNqp3v
イラクのサダム・フセインが開始したイラン・イラク戦争は何年も続いた。

フセインは最初、イラン西部のアラブ系民族が味方に付くと思っていたらしい。

ところがどっこい、彼らは民族よりも国家を選び、イラク軍に激しく抵抗。

さらにイランの一般民衆が続々と義勇兵として参戦し、目算が狂う。

両国は地上で空で激しく戦い、互いにミサイルを撃ち込みあった。

イランがイラク北部のクルド人を煽って蜂起させると、フセインは容赦なく爆弾を投げ落とし、主敵のイラン軍にも化学兵器を乱射した。

イランを押さえる番犬としてフセインを支援してきた欧米諸国もさすがに引いた。

「おまえら、そろそろいい加減にせいや」


1988年。
とうとう米軍がペルシア湾に乗り込み、イランを直接攻撃。ここにいたって、フセインとホメイニは停戦を受諾した。

「苦い。実に苦い。真っ黒な泥を呑むよりも苦い・・・」

ぶつぶつ愚痴を零しながら停戦を受け入れたホメイニは、翌1989年6月にこの世を去る。86歳だった。

ホメイニは国葬となったが、その最中にうっかり棺が転落し、遺体が道路に落っこちた。

それを見た群衆は卒倒するものもあり、ここぞとばかりに駆け寄って衣服や遺体をもぎ取って聖遺物にしようとする者あり、まことにグロテスクな大騒動になったという。

692: 2014/09/07(日)22:53:16 ID:jJBkNqp3v
ホメイニという絶大なカリスマを失ったイランでは、次の「最高指導者」が誰になるのかという問題が起こった。

この時期、シーア派法学の最高権威者たちは、なんと全員ホメイニの唱えた「法学者の統治」理論に反対していた。

「わしらは政治に首突っ込む気ないから。今だから言えるけど、ホメイニの学説は何かおかしいよ」

イラン政府は困惑した。いまさら投げられても困るだろ。誰か都合のいい法学者はいないのか。

で、結局ホメイニの弟子兼側近だった「アリー・ハメネイ」が担ぎ出された。

ハメネイは実のところ法学者としては準一流程度のレベルでしかなかったのだが、他に人がいないんだから仕方ない。

603px-Grand_Ayatollah_Ali_Khamenei,
アリー・ハメネイ (photo credit

693: 名無しさん@おーぷん 2014/09/07(日)22:58:16 ID:UrC4hIwy0
やっぱマトモな法学者は政治に介入まではしたくないんだな
ホメイニが急進派すぎたのか

694: 2014/09/07(日)23:08:27 ID:jJBkNqp3v
第2代最高指導者となったハメネイだが、亡きホメイニに比べればカリスマ性の不足は隠しようもない。

一方、王制打倒時にイスラーム主義を熱狂的に支持したイランの国民も、長い戦争が終わって冷静になったところで

「よく考えてみると、ここまでガチガチに宗教一筋の世の中っていうのも不便なような」などと言い出したり。

以後、最高指導者ハメネイを中心にイスラーム主義の堅持を目指す「保守派」と、世俗化路線への修正、対外開放を目指す「改革派」が綱引きをしはじめる。


最高指導者ハメネイの下で大統領位についたラフサンジャニー、ハタミはいずれも改革を目指した。

とくに1997年に大統領となったハタミは「文明間の対話」という理念を掲げ、

ローマ法王をはじめ他宗教の指導者たちと積極的に交流し、スンナ派イスラーム諸国や西洋諸国との国交正常化に尽力し、

法の支配や表現の自由などといった目標を掲げて改革派の学生や知識人、女性たちに絶大な支持を受けた。

となれば当然、議会やハメネイ周辺の保守派はハタミを目の敵にする。

「ハタミはイスラーム的な価値観を蔑ろにし、道徳を退廃させ、国体を脅かしておる!」

彼らはイスラーム主義の牙城である「革命防衛隊」や、司法・治安関係の機関を使って改革派の新聞や雑誌を片っ端から発禁にし、左派の知識人たちを次々に投獄し、気に入らない法案はイスラーム法との抵触を理由に尽く却下した。


ハタミは何をやっても保守派に足を引っ張られまくった挙句、2002年に思わぬところから止めをさされた。

アメリカのブッシュ大統領が、イランを「悪の枢軸」と名指しで非難したのだ。

「やっぱりアメリカは敵だ。妥協の余地はない」

保守派はここぞとばかりに騒ぎ立て、ハタミに期待を寄せてきた若者たちも幻滅した。

失意のうちにハタミは退任し、代わって「革命防衛隊」出身のアフマディネジャドが大統領となる。

イラクと湾岸戦争


695: 2014/09/07(日)23:24:32 ID:jJBkNqp3v
イランについてはここまでとして、次にイラクの動向について。


1989年にイラン・イラク戦争が終わったところで、イラクのサダム・フセインは、はたと困った。

イラクはまことに難治の国である。

フセインは権力掌握とほぼ同時に対イラン戦争を開始することでイラクを一つに纏めてきたのだが、戦争の勝利という共通目標が消えればイラク国家はたちまち分裂しかねない。

おまけに戦費がかさんでイラクは大借金を抱え込んだ。

油田とか港とか、カネになるものをどうにかして増やせないかなあ。

そこで彼は、南隣のちっぽけな国家に目をつけた。

「うほっ、いい国」

1990年8月2日午前2時。

イラク軍10万がクウェートに侵攻し、わずか6時間でクウェート全土を占領した。「湾岸戦争」の始まりである。

696: 2014/09/08(月)00:02:55 ID:dxlXrg04W
アラビア半島とイランのあいだに、ペルシア湾が斜めに入り込んでいる。

ペルシア湾の南西側、アラビア半島東岸には17世紀頃からいくつもの首長国が連なっていた。

このあたりの海域はメソポタミアとインドを結ぶ要衝である。

それゆえ、イギリス東インド会社が「海賊討伐」を名分として、早くからこの一帯に進出した。

イギリスは「海賊」と認定した首長国に次々に砲火を浴びせたうえで、「もう海賊はするなよ」と言い渡して休戦条約を締結した。

なお、これら首長国が実際に海賊行為をやっていたのかどうかは不明である。察するべし。

首長国の側としても、オスマン帝国だのアフシャール朝だのに頭は下げたくなかったので、これはこれでメリットはあった。

イギリスもインドも遠いし、この異教徒たちは、多少の税金を払えばうるさいことを言ってこない。



時は流れ、内陸から新たな民族移動の波があり、いくつかの首長国が入れ替わり、20世紀へ。

第二次世界大戦後、ペルシア湾岸では続々と油田が発見された。

まもなく、世界帝国を維持する気力を失ったイギリスはこの地域からも撤退していき、あとには油田とアラブ人が残された。


湾岸の首長たちはなんだかんだかくかくしかじかな経緯を経て、油田の権益を手中にした。

でもって、彼らはこの地域に4つの国家を作り出した。

「アラブ首長国連邦」、「カタール」、「バーレーン」、「クウェート」である。

これらの国々では、何もしなくても石油会社が莫大なカネを政府に払ってくれる。

ゆえに国民に納税の義務はない。

政府はただそこにいるだけ、国民もまたそこにいるだけ。


この国々は政治学上の用語として、「レンティア国家」、つまり「地代で生活する国」と呼ばれている。


そのうち最も北に位置するのがクウェートである。

砂漠の女王ガートルード・ベルの計らいにより、イラクの海への出口に蓋をするかのような立地で、汲めども尽きぬ油田を抱えて栄えている。

フセインはここを狙ったのだ。

698: 2014/09/08(月)21:39:19 ID:s7Du8LXJf
クウェート陥落の報に世界中が驚愕した。

ときは東西冷戦終結直後。

半世紀にわたる二大強国の対峙が終わり、全人類の恒久平和も遠い先のことではないかと夢見ることすらできた時期。

そんな幻想をいきなり吹っ飛ばしたサダム・フセインの快挙、じゃなくて暴挙である。


直ちに国連安保理がイラク非難決議を採択し、イラク軍の即時撤退と国連全加盟国による対イラク制裁を要求した。

欧米諸国ばかりかアラブ諸国までもがイラクを非難した。フセインにとっては全く予想外だった。

「何故だ! 我が国はイランからアラブ諸国を守った功労者ではないか!」

とりあえずそこらにいた外国人たちをかき集めて人質にしてみたが、これは諸外国の怒りを更に煽るだけだった。

数年前には考えられなかったことだが、この十年というものイラクに大量の兵器を供与してきたソ連、じゃなくてロシアまで大正義アメリカに「うちがイラクに与えた兵器はかくかくしかじか」と情報提供する始末。


狼狽したフセインは唐突に「イスラエルが全部悪い!」と主張し、ミサイルを撃ち込んでみた。

イスラエルを挑発してユダヤとアラブの戦争に持ち込めば、アラブ諸国が味方に回ると考えたらしい。

しかし、これはアメリカが全力でイスラエルを宥め、イスラエルが歯を食いしばって耐えたので不発に終わった。


11月29日に国連安保理が対イラク武力行使を決議し、アメリカを中心とする多国籍軍84万5千がペルシア湾一帯に展開。

翌1991年1月17日、満を持して「砂漠の嵐作戦」が開始される。

多国籍軍による猛烈な空爆によってイラクの軍事能力はズタズタに破壊される。

そのうえで地上軍が投入され、イラク軍はクウェートから全力で逃げ始めた。

敗走するイラク軍の上に次々と爆撃が加えられ、クウェートから北上する幹線道路は「死のハイウェイ」と化した。

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死のハイウェイ (photo credit)


2月27日、クウェート解放。

アメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(親父)は戦争目的の達成を宣言した。

イラク本土への追撃を進言する軍人たちもいたが、アメリカ軍参謀総長コリン・パウエルが断固として反対した。

「イラク本土に侵攻すれば部族対立と宗派対立の嵐に巻き込まれ、収拾がつかなくなるだろう・・・」

サダム・フセインは屈服し、湾岸戦争はイラクの完全敗北で幕を閉じた。

699: 2014/09/08(月)22:07:20 ID:s7Du8LXJf
パウエルの危惧が正しかったことは12年後に実証される。

しかしこの時多国籍軍がフセイン政権を崩壊にまで追い込まなかったことにより、イラク国内では秘密警察を駆使するサダム・フセインによる独裁が続き、

欧米諸国はフセインが、イラン・イラク戦争期に開発した化学兵器を本当に廃棄したのか、リベンジを狙って密かに核兵器を開発しているのではないかといった疑惑を抱き続けることになる。


イラクは湾岸戦争により5万人から12万人といわれる人命を喪った。

敗戦直後、南部のシーア派住民と北部のクルド人がフセイン政権打倒を目指して暴動を起こし、一時は国土の過半を掌握した。

彼らは数か月前までフセインと戦っていた多国籍軍の介入を期待したのだ。

しかし、いまなおアメリカはイランの影響でシーア派革命が中東に連鎖発生することを非常に警戒していたから南部シーア派の蜂起に対する支援は一切与えられなかった。

フセインは手元に温存していた最精鋭部隊「共和国防衛隊」を投入し、シーア派の蜂起を徹底的に鎮圧。


クルド人の蜂起に対しても、欧米は冷たかった。

クルド人はイラン・トルコ・アゼルバイジャンにまたがる山岳地域に居住しており、うかつにイラクのクルド人の独立を支援すれば、他の三国も不安定化する恐れがあったのだ。


とはいえフセインはイラン・イラク戦争のさなか、反乱を起こしたクルド人たちに化学兵器を投下した前科がある。

最低限の措置として、アメリカはクルディスタン上空を監視し、イラクの戦闘機の飛来を阻止し続けた。

イラク北部のクルド人地域はイラク国内でありながら、フセイン政権の力が及びにくい状況になる。


イラクは厳しい経済制裁を科され、国民生活は窮乏化した。

さすがのフセインも、これ以上戦争によって求心力を維持する手は取れない。

フセインはちまちまとアメリカにせこい喧嘩を売って「強い指導者」を演出し、秘密警察による国民の監視を強化し、そこらじゅうに自分の銅像を建てて個人崇拝を強化した。


湾岸戦争からイラク戦争まで、イラクの失われた12年間。

この時期のイラクは「恐怖の共和国」と呼ばれることもある。

とはいえ、フセインはただの暴虐な独裁者だったわけではない。

湾岸戦争以前には石油を国有化してイラクの経済力を飛躍的に向上させ、国中に電力網を整備し、学校教育を振興して識字率を爆上げし、女性の社会進出を強く支援した。

フセイン政権は中東アラブ諸国のなかで、おそらくもっとも多くの女性公務員を雇用していた。



なによりも、恐怖と懐柔を自在に使い分けたこの独裁者は、難治の国イラクをとにかくにも数十年間にわたってひとつに纏め続けた。

それがどれほどの偉業だったかは、フセインがいなくなった後に誰もが理解することになる。

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説


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