part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀
part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
part21 イスラエルの独立宣言
part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争
part23 イラン革命とシーア派
part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争
part26 グローバル・テロリズムと対テロ戦争

ナショナリズムとイスラーム世界


726:  2014/09/14(日)22:33:52 ID:xI78ipou2
アメリカはアルカーイダの黒幕がアフガニスタンのタリバン政権やイラクのサダム・フセインだと思い込んでいたようだが、

00年代のグローバル・テロリズムの担い手たちは、もはや特定の国家の利害など眼中にない。

どうもアメリカはそれがなかなか呑み込めなかったらしい。

もしかすると呑み込みたくなかったのかもしれない。


かつて、イスラーム世界に「国家」という概念はなかった。

イスラーム世界の歴史を語るうえで様々な王国や帝国が登場してきたけど、それらは近現代の国家とは違い あくまでも特定の一族が世俗社会を統治する「王朝」でしかなかった。

王朝の勢力範囲とは無関係に人は世界を浮遊し、普遍的なイスラーム法学を修めた法官はどこの王朝でも仕官できた。



近代になると、西洋列強の政治的経済的圧力とともに「ナショナリズム」という新しい世界観がやってきた。

イスラーム世界の一部の地域、たとえばトルコなどは「ナショナリズム」を取り入れることで西洋の支配を跳ね返し、そこそこ安定した政治とそこそこ豊かな社会を実現できた。

しかし、中東のアラブ地域ではこれがうまくいかなかった。

トルコがケマル・アタテュルクの救国戦争によって主体的に領土を画定できたのとは違い、

中東地域は第一次世界大戦後に欧州列強によって現地事情にお構いなく好き勝手に分断され、その状況のまま第二次世界大戦後になし崩し的に独立していった。

同じ国家のなかにも多種多様な部族や宗派が混在する一方で、同質の集団が国境で不自然に切り離される。


1950年代、イスラエルというアラブ諸国共通の敵の出現を機として、エジプトを中心とするアラブ諸国の統一が模索された。

もともと19世紀のジャマールディーン・アフガーニー以来、イスラーム世界が連帯して西洋に対抗するという理念が存在し続けていた。それがいよいよ現実へ向かうときが訪れたようだった。


だが、すでに独立国家として歩み始めた各国の利害は噛み合わない。

まもなくイラクで、汎アラブ主義に背を向けて一国の国益を優先するバアス党が成立する。

当の盟主たるエジプト自体も、やがて自国の利益のためにイスラエルと単独和平を締結する。

アラブ統一の挫折後、中東各国は単なる軍事独裁政権の群れと化した。

人々の生活はなおざりにされ、官界には腐敗が広がった。

727:  2014/09/14(日)22:34:19 ID:xI78ipou2
この状況の中で第二次イスラーム復興運動が始まる。

運動に共鳴した者たちはナショナリズムを批判した。

「主権はアッラーのみに存する。主権在民を唱えて現世の一国家に服従するのは偶像崇拝である!」

彼らが見詰めていたのは唯一にして普遍的なるダール・アル・イスラーム(「イスラームの家」)のみ。

だからサウジアラビア出身のオサマ・ビンラディンがアフガニスタンでソ連と戦い、フィリピンのアブ・サヤフがビンラディンに追随してテロを起こしたのだ。


90年代のIT革命により、地球世界の情報ネットワークは飛躍的に発達した。

広大な「ダール・アル・イスラーム」のどこであれ、異教徒たる欧米の圧迫を蒙ればその報は直ちに世界各地の原理主義者たちに共有され、彼らの怒りと復讐の念を新たにさせた。

たとえばアフガニスタン。たとえばイラク。

そして常に思い起こされるのは、イスラーム原理主義者たちが中世の十字軍と同一視するイスラエルによって故郷を追われ、迫害を蒙り続けるパレスチナ難民たちの苦難である。

イスラエルのリクード党


729:  2014/09/14(日)23:09:47 ID:xI78ipou2
(イスラエルの最新情報は>>619
1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part22 【第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争】



第四次中東戦争でエジプトの奇襲を受け、はじめて防衛側の立場を経験したイスラエルでは かつてなく危機意識が高まり、シオニスト右派のリクード党が台頭する。

シオニスト右派というのは、独立時に認められたイスラエル国家の領土だけでなく、かつての委任統治領パレスチナ全土がイスラエルに帰属するべきであり、

そこはユダヤ人の「約束の地」であるから、ユダヤ人以外の民族は全て追っ払うべきだと主張する派閥である。


建国時代からイスラエルの政界を牛耳っていた労働党は東欧系ユダヤ移民(アシュケナジーム)の牙城で、

「イディッシュ語(東欧ユダヤ語)を話せない者はイスラエル国民の資格なし」などと公言していた。

イスラエルに後からやって来た中東系のユダヤ教徒(ミズラーヒーム)たちは都市の周縁のスラムで暮らすか前線近くの不毛な入植地に送り込まれ、労働党への反感を募らせていた。

そういうわけで、労働党と対立するリクード党は中東系ユダヤ移民の圧倒的な支持を受けた。

リクード党は政権を握ると、大イスラエル主義の現実化と中東系ユダヤ移民の生活向上のため、大々的に辺境地域への入植を進めた。

ゴラン高原や東エルサレムに、要塞のようなユダヤ人の巨大な団地が次々に建設され、これらの地に残るパレスチナ人の居住地域は分断された。

730:  2014/09/14(日)23:31:49 ID:xI78ipou2
右傾化する一部のユダヤ人たちは一線を越えはじめた。

1980年5月。
ユダヤ人過激派がヨルダン川西岸のナブルスとラマッラのパレスチナ人指導者暗殺を企て、両名に重傷を負わせた。

さらにエルサレムに所在するイスラームの聖地、アル・アクサー・モスクの爆破計画も発覚。

二千年の歴史を通じて常に迫害される側で有り続け、なかんずく第二次世界大戦ではナチスのホロコーストによって言語に絶する悲哀をその身に受けたことをもって建国の名分とするイスラエル社会は、一連の事件に震撼した。

パレスチナ人のテロに対してテロで対抗するユダヤ人が出現した。

堂々たる戦争ならまだしも、これではユダヤ人の側が加害者になってしまうではないか!



さらに、リクード党の大イスラエル主義を廃棄絵に1982年から始まったレバノン介入ではアリエル・シャロン国防相の主導によって、パレスチナ人ゲリラ組織の苛烈な掃討作戦が展開されたが、

同盟者であるレバノン国内のマロン派キリスト教徒たちが、難民キャンプのパレスチナ人を大虐殺したことが発覚。


「イスラエル国防軍の戦争は常に正義の戦いではなかったのか?!」

イスラエル社会は激しく動揺し、テルアビブでは40万人もの市民が反戦デモに参加した。

リクード党は明らかにやり過ぎた。

1980年代に入るとリクード党の独裁体制は崩れ、イスラエル政界は流動化する。

そんななかで、1987年12月に情勢が大きく動く。


ガザで発生したイスラエル軍とパレスチナ人の衝突が契機となり、ヨルダン川西岸でもパレスチナ人の
反イスラエル暴動が勃発。

傍若無人に入植地を拡大し続けるユダヤ人たちへの溜まりに溜まった不満が爆発したのか、これまでとは違って子供や女性までもが蜂起に加わり、大変な騒ぎとなった。

これは「インティファーダ」と呼ばれる。

パレスチナ人たちはイスラエル軍に石を投げて戦った。

イスラエル政府はパレスチナ人の騒擾を武力によって徹底鎮圧し、実弾も使用した。

大変悲惨なことになったが、それでもパレスチナ人は執拗にインティファーダを継続した。

732:  2014/09/14(日)23:50:41 ID:xI78ipou2
ここで東西冷戦が終結する。

平和の調停者を自任する大正義アメリカが、イスラエルとパレスチナの和平仲介に乗り込んできた。


1991年にスペインのマドリードでイスラエルとアラブ諸国、そしてヨルダン川西岸とガザのパレスチナ人代表団が和平会議を開催した。

だが、東エルサレムのパレスチナ人たちはイスラエルの圧力で会議に参加できなかったし、なによりパレスチナを語るうえで避けて通れないPLOの姿がなかった。

イスラエルに追われて中東各地に離散したパレスチナ人たちを代表できるのはPLOだけである。

イスラエル政府、とくに労働党には危機意識があった。

東西冷戦が続いているあいだ、イスラエルは中東諸国の共産化を阻止するための橋頭堡としてアメリカから絶大な支援を受け続けることができた。

しかし世界は変化した。

唯一の勝者となったアメリカにとって、イスラエルはもはや大した見返りを提供できない。

早いところパレスチナと手を打って周辺情勢を安定させておかないと。


1992年6月。
15年ぶりに労働党が政権の座に返り咲く。

首相イツハク・ラビンはさっそくPLOとの和平に乗り出し、翌1993年にアメリカのワシントンDCで
ついにPLOのアラファト議長と握手を交わした。

このときの合意により、イスラエル政府はPLOをパレスチナ全体の代表として承認した。

今後5年間にわたってPLOのアラファト議長がパレスチナを暫定的に統治し、そのなかで難民の帰還や
占領地の返還、入植地と国境の画定など具体的な和平プロセスを進めていく。そういう手筈になった。

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和平合意に調印後握手をするラビンとアラファト (photo credit)


だが、かつてのエジプト大統領サダトと同じ悲運がラビンを襲う。

「神に与えられたイスラエルの国土を異教徒に売り渡した罪人には死あるのみ」

1995年11月4日、熱狂的なユダヤ教過激派青年がラビン首相を暗殺したのだ。

パレスチナのハマス


733:  2014/09/15(月)00:06:12 ID:UKVucJMfO
パレスチナ側でも和平の行方には暗雲が垂れ込めていた。


PLOが留守にしているあいだに、パレスチナでは別個の対イスラエル抵抗組織が生まれていた。

1987年、イスラエル軍の車両が4人のパレスチナ人を轢き殺したことを契機にムスリム同胞団が設立した「イスラーム抵抗運動」、通称「ハマス」である。

それにしてもムスリム同胞団、本当にあちこちに顔を出すことよ。

ハマスはイスラエルに対する徹底抵抗を主張し、イスラエルとの和平に猛反対していた。

PLO政権の基盤となるのはかつてアラファトが設立した「ファタハ」だが、イスラエルへの果敢な抵抗と地道な慈善活動を通じて多くのパレスチナ人に支持されるハマスは、政界においてファタハと拮抗していた。

1996年になると、ハマスはアラファトの意向を無視してイスラエルへの自爆テロ攻撃を連発。

これを受けたイスラエルでは、またしてもリクード党が政権に復帰し、党首ネタニヤフが首相となった。


ハマスとリクード党が出てきたことで、和平プロセスは停止してしまった。

2000年7月にアメリカ大統領クリントンが再度イスラエルとパレスチナの和平仲介を試みるも、エルサレムの帰属とパレスチナ難民の帰還をめぐる問題に決着がつかず、交渉は決裂。


その2か月後、例のリクード党のアリエル・シャロンが余計な挑発をしたせいで、和平プロセスは完全にぶっ壊れた。

734:  2014/09/15(月)00:26:21 ID:UKVucJMfO
アメリカ同時多発テロから間もない2001年9月28日、シャロンは突然エルサレムのイスラーム聖域地区に乗り込んだ。

朝の礼拝に集まっていたパレスチナ人ムスリムたちは、憎きシャロンを罵声で迎えた。

直後にパレスチナ人たちがシャロンを警備する警官たちに投石を開始し、警官側は発砲。

たちまち騒擾は東エルサレム全体へ、さらにパレスチナ暫定自治区全土へ拡大し、
「第二次インティファーダ」が始まってしまったのだ。

これはシャロンの思う壺だった。

彼は激化するパレスチナ人の「テロ」に対する徹底報復を唱えて国民の支持を集め、

労働党を政権から追い落とすと、突如パレスチナ暫定自治区に侵攻し、ラマッラの暫定自治政府を包囲し、アラファト議長を軟禁状態とした。

もはやPLOを対等な交渉相手として認める気はない。

これは「テロとの戦い」なのだ。ファタハはタリバン、ハマスはアルカーイダみたいなもんだ。

大正義アメリカはこの論法に納得してイスラエルを応援した。

以後、シャロンの独壇場である。

彼はPLOとハマスを潰し、残るパレスチナ人たちをイスラエルの領域外に追い払うつもりだった。

アラファト軟禁に続き、2004年にはガザを拠点とするハマスの指導者アフマド・ヤーシーンを爆殺。

2005年にはガザの入植地からユダヤ人入植者を撤退させて世界を驚かすが、別に転向したわけではない。

ガザ撤退と並行してヨルダン川西岸の入植地を拡大し、パレスチナ人テロリストの侵入を阻止するためと称して高さ8メートル、全長700キロに及ぶ「分離壁」の建設を開始。

これは「ベルリンの壁」の再現みたいなものだった。

分離壁は過去の協定で決められたラインよりも東へ食い込む形で建設され、パレスチナ人の居住地は分断された。

イスラエルは分離壁を既成事実化して、入植地を拡大しようと目論んでいるようだった。

だが、ノリノリだったシャロンは2005年12月、突然脳卒中で倒れて人事不省となる。

その後2014年1月11日に死亡するまで、シャロンは二度と意識を回復しなかった。

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イスラエル西岸地区の分離壁 (photo credit)

735:  2014/09/15(月)00:51:42 ID:UKVucJMfO
シャロンが強制退場となったあと、求心力を失った右派政権は闇雲に戦争を始める。

まず、レバノンのシーア派組織ヒズボラが2名のイスラエル兵を拉致したことを理由にレバノン空爆を開始。

「対テロ戦争って呪文唱えてればなんでも許されると思ってるんじゃないだろうな?」

たった2名の兵士を取り戻すために隣国に無差別空爆をして地上軍を投入したイスラエルは世界中に批判され、国連に停戦命令を出された。

そこで今度は、シャロンが撤退したはずのガザを標的にした。



パレスチナ自治区ではアラファトが軟禁されたあと、ファタハ党のマフムード・アッバースが暫定自治政府の大統領となってハマスと協調しようとしたが、2007年にハマスが独断でガザ地区を占領したことで
ファタハとハマスの対立が決定的となった。

PLOと直結し、比較的「穏健」なファタハはヨルダン川西岸でなんとかイスラエル政府と外交交渉を続けたが、

「過激」なハマスはガザからロケット弾をイスラエル領内に打ち込みまくった。

もともと2つの領域に分かれていたパレスチナ自治区は、政治的にも2つに分裂してしまったのだ。


これ以後、イスラエルは現在に至るまでガザ攻撃を何度も繰り返している。

イスラエルはガザのハマスをテロリストと位置づけ、ガザ攻撃をテロから善良な市民を守るためのものとしている。

一方ガザの内部は経済的に困窮を極め、ハマスが辛うじて住民の生活を支えている。

ガザのパレスチナ人たちの多くは10代や20代の若者で、明日への希望などとうてい持ちえぬまま次々にハマスに加わってイスラエルと戦っている。


2014年夏、イスラエル軍の大攻勢でガザは崩壊寸前に追い込まれた。

ガザへのイスラエルの攻撃があまりにも容赦なく非人道的だとして、イスラエルは世界各地から強く批判されているが、イスラエル人にはこれはとても心外であるらしい。


「善良な市民にロケット弾を撃ち込むテロリストを掃討するのが悪いのか!」

「そのためにガザの何千人という一般市民を虐殺して恥じるところがないのか!」


たぶん本音を言えば、壁の向こうの得体の知れない連中と、リアルに思い描ける同胞とでは生命の価値づけが全く違うのだろう。

もっとも、そんな思考はイスラエル人に限ったことではないのだけど。



今夜はここまで。

738: 名無しさん@おーぷん 2014/09/15(月)08:09:15 ID:kuTQcoBYj
パレスチナもイラクも、過激か穏健か問わずまとめ上げるスキルのある人間を片っ端からぶっ殺してカオス化したって印象だったけど実際どうなの?

741:  2014/09/16(火)22:24:16 ID:WTmLNEJkR
>>738
おおむね間違ってないと思う。
イラクにいたっては従来のイラク国家の枠組みを維持しようとする限り、サダム・フセイン以外に纏められる人間はいなかったかと。

地政学的にもっと無理のない国境に改変しようとするならば、ISISに任せとくという選択になってしまう。

739: 名無しさん@おーぷん 2014/09/15(月)16:18:38 ID:vsEHMhrya
先のことはわからんが日本人で日本に産まれてよかった・・・