part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
part3  各地で生まれる地方政権
part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
part5  オスマン帝国のはじまり
part6  ヨーロッパの反撃
part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
part9  アジアを狙う欧州諸国
part10 ナポレオンの東方遠征
part11 エジプトのムハンマド・アリー
part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
part16 存在感を増す新興国たち
part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
part18 イギリスの三枚舌外交
part19 イランと石油の世紀
part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
part21 イスラエルの独立宣言
part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争
part23 イラン革命とシーア派
part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争
part26 グローバル・テロリズムと対テロ戦争
part27 イスラエルとパレスチナの対立と分離壁

イスラーム世界とアメリカ


742:  2014/09/16(火)23:04:45 ID:WTmLNEJkR
1970年代の末に突然始まった「第二次イスラーム復興」は、過激なテロリズムだけを生み出したわけではない。

むしろ原理主義の跳梁は復興のひとつの側面でしかない。

かつて、近代化とともに社会は脱宗教化するのが当然と考えられていた。

実際、第二次世界大戦が終わってからしばらくのあいだは、おおむねどこの地域でも社会は世俗化の一途をたどり、イスラームは時代遅れの文化と見なされるようになっていった。

ところが何故か、20世紀後半になるとイスラームに限らず世界各国で諸宗教の復興が生じたのである。


近代化が進めば、どうしても貧富の差が広がり、都市と農村や世代間や職業間での価値観の断絶も生まれる。

まして中東アラブ諸国は総じて軍事独裁政権だったから、抑圧を感じる人々は膨大である。

彼らがイスラームを自分たちの拠り所とした、というのがまずある。


近代化の恩恵を受けた都市の中流層にしても、政治的に抑圧されていることには変わりない。

イスラームの価値観を見直した中流層は、宗教に立脚する福祉活動や教育活動を通じて貧困層に富を分かち与えた。

これが草の根のイスラーム復興を後押しした。

各地でモスクと礼拝者が増加し、スーフィー教団が再び活性化した。

また、交通革命によるメッカ巡礼の激増や、通信革命によるイスラーム世界の情報交流の活発化、ソ連の崩壊による中央アジア諸国の再イスラーム化、湾岸諸国の繁栄なども復興の背景として見逃せない。


豊富な油田を抱えるペルシア湾岸の小国群は、二度のオイルショックを通じて世界の石油相場の支配を確立した。

有り余る富を手にした湾岸諸国は、それをさらに増殖させるべく、金融分野に食指を動かした。

だが、重大な問題がある。イスラーム法では利子を取ることが禁止されているのだ。

地域によっては法網を潜って利子を導入しているところもあるが、湾岸諸国は一世代前までは砂漠の遊牧民だった。

なんだかんだいって伝統的な宗教法を軽視することは許されない。

西洋の銀行は金を貸して利子を取り立てることで儲けているが、利子を取らずにカネを増やす方法はないものか。

そこで彼らは頭をひねり、いろいろと技を考え出した。

たとえば、銀行がこれはと見込んだ有望な商人にカネを出資し、利益が出たら一部を配分してもらう。

株式会社のパクリっぽい。

あるいは、誰かが何かを買いたいときに、銀行が購入の仲立ちをして手数料を取る。

これは商社のパクリか。

さらに、銀行自体が貿易事業や慈善事業を運営して収益を得るなんてのもある。


こういういろいろな技を駆使して利子に頼らず利殖をするのを「イスラーム金融」というのだけど、こういう創意工夫はまさにイスラーム法の再解釈、「イジュティハード」そのものなのだ。

石油に加えて金融の大発展。
湾岸諸国の繁栄はとどまるところを知らない。

ことにアラブ首長国連邦のドバイは砂漠のなかに摩天楼を連ねた幻想的な国際経済都市として、世界に名を馳せている。

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ドバイ (phoo credit)

743:  2014/09/16(火)23:25:34 ID:WTmLNEJkR
だが、それはそれとして2000年代のイスラーム世界が原理主義によって翻弄されたことも事実。

それに加えて波乱を呼ぶのはアメリカの存在である。



アメリカ合衆国はユーラシア大陸から大洋によって隔てられたアメリカ大陸で誕生した。

19世紀を通じて対外不干渉政策を貫き、二度の世界大戦を通じて欧州に帰還してからも、長らく大洋と沿岸を支配するだけで、広大なユーラシア大陸内部に直接手を出そうとはしなかった。

ところが、2001年の同時多発テロを機にアフガニスタン、ついでイラクに大兵を動員。

歴史上はじめてアメリカがユーラシア大陸中央部に本格的な介入を始めたのだ。


数千年の歴史を持つユーラシア大陸。

そこは砂漠や大山脈によっていくつかの区域に分断され、何世紀ものあいだ、おのおのに巨大な帝国が興亡を続けてきた。


その系譜の末に現存するのが、たとえば東ユーラシアの中華人民共和国であり、北ユーラシアのロシア連邦である。

同時多発テロを機にアメリカが中央アジアに軍事拠点を置き、ユーラシア内部に進出したことはこの両国を非常に刺激した。


ほどなく中露両国は「上海条約機構」を締結する。
名目は経済提携と対テロリズム。だが、真の意図が対米同盟であることは隠しようもない。

上海条約機構には中央アジアの諸国も加盟した。
中露両国はアメリカの影響を中央アジアから排除したうえで、この地域を自国の勢力圏に取り込みたいのだ。


それ以外の国々にもアメリカの存在はさまざまな波紋を投げかけた。

たとえば、二つの聖地の守護者であるとともに伝統的に親米政策をとるサウジアラビア王国は湾岸戦後よりはるかに規模を大にして中東に居座るアメリカを前に、更なる苦悩を味わう。


また西洋指向を続けてきたトルコも、存在感が強くなりすぎたアメリカに困惑した。

トルコ東部からイラク北部にかけての山岳地帯に少数民族クルド人が存在するが、イラク側のクルド人に対してアメリカがどのような態度で臨むのかに一喜一憂。

イラク国境から流れ込む膨大な難民への対処にも頭を抱える。


トルコには他にも悩みがある。

ケマル・アタテュルク以来百年も西洋化に努めて来たのにも関わらず、欧州諸国がトルコを異物扱いし、長年申請しているEUへの加盟をあくまでも認めないのだ。

トルコ国内でも農村部では伝統的なイスラームの文化や価値観が根強く残っており、地方住民は「もう西洋化なんて辞めたほうがいいだよ」と主張し、国論分裂。


対照的に反米一筋のイランに対しても、アメリカの中東進出は大きなインパクトを与えた。

745:  2014/09/16(火)23:58:21 ID:WTmLNEJkR
イランのハタミ大統領は保守派の抵抗による開放政策の挫折とアメリカによる「悪の枢軸」発言で挫折に追い込まれ正反対の政治姿勢をとる「マフムード・アフマディネジャド」が2005年にイランの大統領となった。


アフマディネジャドは貧しい家庭に生まれて頑張って勉強し、イスラーム革命の実行部隊「革命防衛隊」に加入した経歴の持ち主で、「私は原理主義者である」と堂々公言。

でもって選挙スローガンは「やればできる!」。

少し後にアメリカの某大統領が打ち出したスローガンとなんとなく似てる。

でもって、二言目には「アメリカは滅ぼされるべきである」と発言。

そんな経歴と思想信条と政治姿勢でもって、彼は保守派と貧困層の心をがっちり掴んだ。

革命の元闘士アフマディネジャドは最高指導者ハメネイを大いに尊敬し、二人はしばらくうまく協調した。

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マフムード・アフマディネジャド (photo credit)


だが、熱気が冷めるのは早かった。

アフマディネジャドはアメリカを罵倒し、貧困層にカネをやたらとばら撒くだけで国家経済の運営はいたってお粗末だったので、アフマディネジャドへの支持は急落。

そんななかで2009年に中間選挙が行われる。

アフマディネジャドの支持は急落しているはずなのに、なぜか選挙では圧勝。

「ごまかし発見!」

たちまち10万人ものデモが沸き起こり、再選挙要求を怒号した。

ところがここで最高指導者のハメネイが失策を犯す。

「アフマディネジャド君おめでとう。負けた方は去れ」

この発言がイランを揺るがすことになった。

デモに集まった大衆はたちまちハメネイ批判を連呼し始めたのだ。

「法学者の統治」を標榜するイラン・イスラーム国家において、イマーム代行である「最高指導者」が公然と批判されるなど、ホメイニ時代には考えられなかった。

747: 名無しさん@おーぷん 2014/09/17(水)00:16:35 ID:FT6Xggr0K
>>745 ブッシュはなんでハタミ政権を崩壊させたの?イランを混乱させたかっただけ?

761:  2014/09/18(木)21:37:07 ID:9LH6jxA2C
>>747
アメリカがハタミ政権を積極的に潰したわけではないけど、そのきっかけは作ってるね。

いろいろ理由は考えられるけど、ようするに「ブッシュが馬鹿だったから」ではあるまいか・・・


ま、9.11以降アメリカ社会は明確な敵を求めていたし、ハタミ個人はとにかく国家単位では不穏な動きばかりするイランは敵性認定するのに相応しかったんじゃないかと。

結局のところテヘラン事件以来、西南アジアでアメリカがいちばん警戒していたのはイランだしね。

762:  2014/09/18(木)21:52:07 ID:9LH6jxA2C
>>745の続き。

革命集団が最も恐怖するのは、自分たち自身が革命によって倒されることである。

「ハメネイに死を!」と怒号する市民たちを前にして、アフマディネジャドとハメネイは革命防衛隊をはじめとする治安部隊を投入し、「緑の波」と呼ばれるデモを力ずくで抑え込んだ。

イラクには巨大なアメリカ軍が駐留し、中東諸国に自由化と民主化の圧力を突き付けている。

それをもって、アフマディネジャドとハメネイはデモをアメリカの陰謀だと決めつけ、多数の民主派知識人を投獄した。
(間違ってないような)


2003年に「民主主義と人権の擁護」を理由にノーベル平和賞を受賞していた女性弁護士のシーリーン・エバディも、デモの鎮圧に反対したというので平和賞の賞金を押収された。

アフマディネジャドによるとノーベル平和賞も、イランの国政を動揺させようとするノルウェーの陰謀らしい。
(間違ってないような)


再任されたアフマディネジャドは一層強硬に核開発を進め、国連総会で「ナチスのホロコーストは捏造」とか

「イスラエルは世界地図から抹消すべき」などと演説をして欧米諸国の代表団に全員退席されたり、元気に活躍した。

しかしイラン政府内では、蜜月だったアフマディネジャドとハメネイが対立しはじめる。

763:  2014/09/18(木)22:17:43 ID:9LH6jxA2C
革命権力も時とともに腐敗する。

イランのシーア派法学者たちも政治に深く関わるにつれて、さまざまな利権に染まり、国庫の収入を私物化しつつあった。

世俗の統治者たるアフマディネジャドは法学者たちの権益を解体し、国家財政を再建しようとした。

「最高指導者」ハメネイは、もとよりシーア派法学者としては二線級に過ぎない。

くわえて2009年の選挙でアフマディネジャドに肩入れしすぎたために、中立的な最高権威としての威信も失った。

権力を確保するため、彼は利権を追求し、カネを支持者にばら撒いていた。

ところがアフマディネジャドは軍の力を背景にハメネイの息子が経営する不動産企業を閉鎖させ、自動車企業や鉄道の利権を奪い、銀行から大金を借りっぱなしの法学者たちに即時返済を迫った。

石油産業の管理権も法学者たちから政府に移管させようとした。


2010年、最高指導者ハメネイは大統領一派に「逸脱傾向」が見られると批判しはじめた。

ハメネイは最高指導者としてアフマディネジャドの命令や指示に拒否権を行使しまくり、宗教系の新聞には連日のように「異端へ向かうアフマディネジャド」など煽情的な見出しが躍った。

最終的にハメネイは「大統領制を廃止せよ」とまで主張するようになる。


こんな状況のなかで、アフマディネジャドの頼みの綱の軍部が反旗を翻した。

といってもハメネイの画策が功を奏したわけではない。

アフマディネジャドが軍の利権にまで手を入れ始めたのが理由だった。


加えてアフマディネジャドの強硬な言動や、レバノン・シリア・バーレーンなどへの介入が祟って諸外国の締め付けは厳しくなる一方で、市民生活は年ごとに窮乏。

2012年にイラン北西部で大地震が起こるが、政府の対応が後手後手にまわったことで

「アフマディネジャドはレバノンのヒズボラは助けてもイラン国民は助けねーのか!」と庶民の怒り爆発。


そんな次第で追い込まれていったアフマディネジャドは、ついに白旗をあげた。

「次の選挙で政界引退して大学教授になるわ」


というわけで2013年夏に総選挙が行われ、とうとうアフマディネジャドは退場した。

ところが、最高指導者ハメネイはアフマディネジャドとの対立に気を取られ過ぎて、思わぬ失策をする。


てっきりハメネイの息のかかった政治家が大統領になるのかと思いきや、しばらく存在を忘れられていた改革派が地滑り的に大勝利。

イラン国民は革命原理主義者アフマディネジャドと腐敗宗教家ハメネイに飽き飽きしていたのだろう。


予想外に大統領となった改革派の法学者ロウハニは、さっそく自由化路線に舵を切り、アメリカとの国交回復にも動き出した。

イラン情勢は複雑怪奇である。

764:  2014/09/18(木)22:48:09 ID:9LH6jxA2C
一方、アメリカ軍が駐留を続けるイラクではどうしようもない混乱が続いていた。

予言か呪詛か、サダム・フセインは処刑される直前に「アッラーは偉大なり。イラクは勝利に満ちる」と言い残したという。


米軍進駐後、旧イラク国軍が地下に潜って武装蜂起を繰り返した。

拙劣な占領統治に対して民衆は暴動を起こした。

スンナ派はフセイン時代の優遇政策が終わることを恐れ、クルド人は独立国家の建設を目指した。


シーア派はフセインに処刑されたバーキル・サドルの遺児、「ムクタダ・サドル」のもとに民兵を組織し、イラクを自派の国家に塗りかえようとした。

イラクはアフガニスタンに代わって「帝国主義からイスラームを守護するための聖戦」の主戦場となり、
イスラーム世界全土から聖戦志願者が殺到し、

米国が「狂犬」と呼んだ「アブー・ムスアブ・ザルカウィ」の指導のもとで「イラクのアルカーイダ」として対米ゲリラ戦と自爆テロを繰り広げた。


2004年にはファルージャで武装ゲリラと米軍の大規模戦闘が起こり、何千人もの民間人が巻き添えで殺された。

アメリカ軍の兵士たちは恐怖と怒りに駆られてイラク軍捕虜への虐待を繰り返した。

これが明るみに出ると反米蜂起とテロはさらに激化した。


2006年には米国がイラク暫定自治政府を発足させるが、内乱は収まる気配もない。

スンナ派とシーア派の抗争、地元住民とアルカーイダの抗争も広がり、アルカーイダは「聖戦」に反対するイラクの民衆をもテロの対象としはじめた。

2008年、シーア派指導者ムクタダ・サドルは軍を組織して暫定政府と交戦し、占領地を拡大。

北部では独立を求めるクルド人民兵の「ペシュメルガ」が、これまで散々フセインに虐められてきた仕返しとばかりアラブ系住民の虐殺を開始した。

このクルド人とトルコ軍が衝突し、トルコ軍が国境を越えてイラク北部に進駐する事態に発展する。


アメリカも、今となっては一日も早くイラクを捨てて逃げ帰りたい。

だが、パンドラの箱を開けたのはアメリカなのだ。放り出せるわけがない。

766:  2014/09/18(木)23:11:20 ID:9LH6jxA2C
2009年に「テロとの戦い」を主導した共和党のアメリカ大統領ブッシュ(息子)の任期が終わり、民主党のバラク・オバマが次の大統領となった。

オバマは早期にイラク暫定政府に統治を移管し、イラクからアフガニスタンに戦力を振り替える戦略を発表した。

アメリカの関心がイラクに向いているあいだに、アフガニスタンでは別に根絶されていたわけではないタリバンが再び勢力を盛り返しつつあったのだ。


そんななか、2011年に驚きのニュースが世界に流れる。

あのオサマ・ビンラディンが9.11事件から10年を経て、ついに殺害されたのである。


ビンラディンはパキスタン北部の田舎町に要塞のような屋敷を構えて潜伏していた。

アメリカの公式発表によると寝室にはポルノ雑誌も備えていたとやら。


潜伏生活に入ってからのビンラディンがどの程度世界各地のテロリズムに関与していたのかは不明だが、イスラーム原理主義過激派の象徴だったビンラディンが殺害されたことは、ひとつの区切りにはなった。


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ホワイトハウス危機管理室でビンラディン殺害を見守る政権中枢の面々 (photo credit)


ビンラディン死後1か月半を経て、ビンラディンの「副官」と見なされていた「アイマン・ザワヒリ」が
アルカーイダの次期総司令官となることが発表された。

ザワヒリのもとでアルカーイダは相変わらずテロを繰り返し、米軍はなんだかんだいってイラクから撤退しきれないままに血と汗を流し続ける。



だが、貧困と政治的抑圧への不満から原理主義の主張に共感しがちだったアラブ諸国の民衆はもういい加減、過激なテロの連鎖に嫌気が差してきていた。


「いくら聖戦とやらをやったところで世の中は変わらない」

「聖戦とか言って、アルカーイダは何の罪もない普通の市民まで殺しているじゃないか」

「そもそもイスラームは、あんな血なまぐさい宗教じゃない。あいつらは頭がおかしい」


テロなんてただの逃避。政治に不満があるなら正面から立ち上がればいいじゃないか。

こんな当たり前のこと、なんで今まで気が付かなかった。

思えば、ちっとやそっとの不満があってもムスリム同胞団みたいな宗教団体が生活を助けてくれたからね。

だけど、いつまでもそれじゃ駄目だろうよ。

2011年1月。
「アラブの春」、開幕。

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説


次は最終回:part29 アラブの春とISIS