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    以下の記事はコメント欄をまとめています。ご協力よろしくお願い致します(2014.09.07)
    【画像】スペインのガウディ建築の写真をひたすら紹介して行く

    イスラム教

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち
    part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
    part18 イギリスの三枚舌外交
    part19 イランと石油の世紀
    part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
    part21 イスラエルの独立宣言
    part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争
    part23 イラン革命とシーア派
    part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
    part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争
    part26 グローバル・テロリズムと対テロ戦争
    part27 イスラエルとパレスチナの対立と分離壁
    part28 アメリカのイスラーム世界への影響

    アラブ世界へ広がる民主化運動


    772:  2014/09/19(金)23:12:19 ID:OmedNzxHs
    発端は2010年12月17日、北アフリカの小国チュニジアで26歳の露天商が女役人に野菜と秤を奪われたことだった。

    チュニジアは石油が出ないアラブ諸国の中では比較的豊かな部類に入るが、それでも世界の大半の途上国と同様に若者が余って仕事が足りず。若年失業率が30パーセントに達していた。


    この露天商も定職にありつけないまま、大勢の家族の生活を支えるために道端で野菜を売っていたのだ。

    ところが、あいにく彼は営業許可証を取っていなかった。

    何故かと言えば、許可証を取るための賄賂を払えなかったからだ。


    この日、通りかかった女役人が営業許可を取っていないことを理由に彼の店の野菜と秤を押収し、平手打ちを食らわせ、「貧乏人乙wwww」とプゲラして去っていった。

    「売り物返しておくれよう、秤も友達に借りたんだよう!」

    彼は役所に行って必死に訴えるが、頭から無視される。何故かというと賄賂が出せなかったから。


    チュニジアでは20年以上もベンアリ大統領の独裁が続き、行政の末端まで腐敗が蔓延していた。

    賄賂が通れば道理が引っ込む。カネがなければ何もできない世情である。

    絶望した露天商は役所の前で頭からガソリンを被り、怒りの焼身自殺を敢行した。


    この事件がたちまちツイッターやフェイスブックやYouTubeでチュニジア全土に知れ渡った。動画音声つきで。


    そもそもイスラームは自殺を禁じているし、火葬の習慣もない。

    死者は最後の審判の日に墓から呼び起こされて神の御前に召集されるので、土葬以外はあり得ない。

    生きている人間が自らの身体に火を点けて悶えながら死んでいく姿は計り知れない衝撃を読んだ。

    「これは他人事じゃない。俺たちはこんなイカレタ社会をぶっ壊す!!」

    チュニジア全土の若者たちは怒りを爆発させ、その怒りは20年以上にわたって独裁を続ける政権そのものに及んだ。


    ベンアリ大統領はビビった。

    なまじチュニジアはそこそこ豊かで、テロや内戦が日常のような国ではない。

    だからこそ、軍を投入して市民を虐殺するような強硬手段を取る決心がつかなかった。

    腰が引けたベンアリは譲歩に譲歩を重ねて政権延命を図ったが、最後は治安部隊の長官に「あんたはもうオシマイ」だと宣告され、政権を捨てて国外へ去った。


    チュニジアを代表する花であるジャスミンにちなみ、これは「ジャスミン革命」と命名された。

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    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part29 【アラブの春とISIS】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち
    part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
    part18 イギリスの三枚舌外交
    part19 イランと石油の世紀
    part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
    part21 イスラエルの独立宣言
    part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争
    part23 イラン革命とシーア派
    part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
    part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争
    part26 グローバル・テロリズムと対テロ戦争
    part27 イスラエルとパレスチナの対立と分離壁

    イスラーム世界とアメリカ


    742:  2014/09/16(火)23:04:45 ID:WTmLNEJkR
    1970年代の末に突然始まった「第二次イスラーム復興」は、過激なテロリズムだけを生み出したわけではない。

    むしろ原理主義の跳梁は復興のひとつの側面でしかない。

    かつて、近代化とともに社会は脱宗教化するのが当然と考えられていた。

    実際、第二次世界大戦が終わってからしばらくのあいだは、おおむねどこの地域でも社会は世俗化の一途をたどり、イスラームは時代遅れの文化と見なされるようになっていった。

    ところが何故か、20世紀後半になるとイスラームに限らず世界各国で諸宗教の復興が生じたのである。


    近代化が進めば、どうしても貧富の差が広がり、都市と農村や世代間や職業間での価値観の断絶も生まれる。

    まして中東アラブ諸国は総じて軍事独裁政権だったから、抑圧を感じる人々は膨大である。

    彼らがイスラームを自分たちの拠り所とした、というのがまずある。


    近代化の恩恵を受けた都市の中流層にしても、政治的に抑圧されていることには変わりない。

    イスラームの価値観を見直した中流層は、宗教に立脚する福祉活動や教育活動を通じて貧困層に富を分かち与えた。

    これが草の根のイスラーム復興を後押しした。

    各地でモスクと礼拝者が増加し、スーフィー教団が再び活性化した。

    また、交通革命によるメッカ巡礼の激増や、通信革命によるイスラーム世界の情報交流の活発化、ソ連の崩壊による中央アジア諸国の再イスラーム化、湾岸諸国の繁栄なども復興の背景として見逃せない。


    豊富な油田を抱えるペルシア湾岸の小国群は、二度のオイルショックを通じて世界の石油相場の支配を確立した。

    有り余る富を手にした湾岸諸国は、それをさらに増殖させるべく、金融分野に食指を動かした。

    だが、重大な問題がある。イスラーム法では利子を取ることが禁止されているのだ。

    地域によっては法網を潜って利子を導入しているところもあるが、湾岸諸国は一世代前までは砂漠の遊牧民だった。

    なんだかんだいって伝統的な宗教法を軽視することは許されない。

    西洋の銀行は金を貸して利子を取り立てることで儲けているが、利子を取らずにカネを増やす方法はないものか。

    そこで彼らは頭をひねり、いろいろと技を考え出した。

    たとえば、銀行がこれはと見込んだ有望な商人にカネを出資し、利益が出たら一部を配分してもらう。

    株式会社のパクリっぽい。

    あるいは、誰かが何かを買いたいときに、銀行が購入の仲立ちをして手数料を取る。

    これは商社のパクリか。

    さらに、銀行自体が貿易事業や慈善事業を運営して収益を得るなんてのもある。


    こういういろいろな技を駆使して利子に頼らず利殖をするのを「イスラーム金融」というのだけど、こういう創意工夫はまさにイスラーム法の再解釈、「イジュティハード」そのものなのだ。

    石油に加えて金融の大発展。
    湾岸諸国の繁栄はとどまるところを知らない。

    ことにアラブ首長国連邦のドバイは砂漠のなかに摩天楼を連ねた幻想的な国際経済都市として、世界に名を馳せている。

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    ドバイ (phoo credit)

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part28 【アメリカのイスラーム世界への影響】】の続きを読む

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    一日目 チャイナタウン/マリーナベイサンズ等
    二日目 チャイナタウン/マーライオン/ブギス/F1決勝


    70: 名無しさん@おーぷん 2014/09/27(土)22:55:07 ID:O43Icjdnp
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    たっぷりの果物屋と日本の家。

    71: 名無しさん@おーぷん 2014/09/27(土)22:56:44 ID:O43Icjdnp
    no title

    no title


    スルタンモスクへ向かう。
    立ち寄ったマッサージ屋は内装がビンテージ感民家感たっぷりで好みの内装。

      【シンガポールでF1見てきたから写真うpする 【三日目 前編】【モスク巡り 編】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち
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    part19 イランと石油の世紀
    part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
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    part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
    part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争
    part26 グローバル・テロリズムと対テロ戦争

    ナショナリズムとイスラーム世界


    726:  2014/09/14(日)22:33:52 ID:xI78ipou2
    アメリカはアルカーイダの黒幕がアフガニスタンのタリバン政権やイラクのサダム・フセインだと思い込んでいたようだが、

    00年代のグローバル・テロリズムの担い手たちは、もはや特定の国家の利害など眼中にない。

    どうもアメリカはそれがなかなか呑み込めなかったらしい。

    もしかすると呑み込みたくなかったのかもしれない。


    かつて、イスラーム世界に「国家」という概念はなかった。

    イスラーム世界の歴史を語るうえで様々な王国や帝国が登場してきたけど、それらは近現代の国家とは違い あくまでも特定の一族が世俗社会を統治する「王朝」でしかなかった。

    王朝の勢力範囲とは無関係に人は世界を浮遊し、普遍的なイスラーム法学を修めた法官はどこの王朝でも仕官できた。



    近代になると、西洋列強の政治的経済的圧力とともに「ナショナリズム」という新しい世界観がやってきた。

    イスラーム世界の一部の地域、たとえばトルコなどは「ナショナリズム」を取り入れることで西洋の支配を跳ね返し、そこそこ安定した政治とそこそこ豊かな社会を実現できた。

    しかし、中東のアラブ地域ではこれがうまくいかなかった。

    トルコがケマル・アタテュルクの救国戦争によって主体的に領土を画定できたのとは違い、

    中東地域は第一次世界大戦後に欧州列強によって現地事情にお構いなく好き勝手に分断され、その状況のまま第二次世界大戦後になし崩し的に独立していった。

    同じ国家のなかにも多種多様な部族や宗派が混在する一方で、同質の集団が国境で不自然に切り離される。


    1950年代、イスラエルというアラブ諸国共通の敵の出現を機として、エジプトを中心とするアラブ諸国の統一が模索された。

    もともと19世紀のジャマールディーン・アフガーニー以来、イスラーム世界が連帯して西洋に対抗するという理念が存在し続けていた。それがいよいよ現実へ向かうときが訪れたようだった。


    だが、すでに独立国家として歩み始めた各国の利害は噛み合わない。

    まもなくイラクで、汎アラブ主義に背を向けて一国の国益を優先するバアス党が成立する。

    当の盟主たるエジプト自体も、やがて自国の利益のためにイスラエルと単独和平を締結する。

    アラブ統一の挫折後、中東各国は単なる軍事独裁政権の群れと化した。

    人々の生活はなおざりにされ、官界には腐敗が広がった。

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    part24 イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑
    part25 イラン・イラク戦争の終結と湾岸戦争

    アルカーイダのオサマ・ビンラディン


    700: 2014/09/08(月)22:41:54 ID:s7Du8LXJf
    さて、湾岸戦争は多国籍軍の圧勝に終わり、悪者のイラクは追い返され、クウェートは解放され、ひとまずハッピーエンドで終わったかに見えた。

    だが、そうは思わなかった者たちもいる。


    多国籍軍のイラク侵攻の際、サウジアラビア王国が米軍の国内駐留を認めた。

    サウード王家は、クウェートの次には自国にフセインが手を伸ばすのではないかと恐れたのだ。

    実際、サウジアラビアはイラクと長い国境線を持つし、湾岸戦争の中でイラクは幾度はサウジアラビアにも攻撃を仕掛けている。

    だが、ワッハーブ主義を標榜するサウジアラビア国内の厳格なムスリムたちは、異教徒の軍勢が自国に駐留することを嫌悪した。

    そも、サウジアラビアはイスラーム世界の中枢、メッカとメディナの二聖都を擁する聖なる国家ではないか。

    それでなくても、中東戦争後半からやたらイスラエルの肩を持つアメリカの評判は悪い。


    アメリカ軍は湾岸戦争が終結した後も、イラクの監視とペルシア湾の安定化のためと称し、サウジに留まり続けた。

    その数、約3万4千。

    保守派ムスリムのなかでも特に過激な一派は、実力でアメリカ軍を追い出そうとし始めた。

    その中心になったのは、アフガニスタンでソ連と「聖戦」をやって来た若者たちである。

    彼らはソ連撤退直後、ジャララバードの戦いでアメリカが自分たちを見捨てた恨みも忘れていない。


    1983年頃、パキスタンのペシャワールでムスリム同胞団により、ソ連との戦いで戦死したムジャヒディンの遺族を支援する慈善団体が作られた。

    この団体があれよあれよという間に、新人ムジャヒディンに軍事訓練を施すキャンプに変貌し、やがて1988年にはアフガニスタンのみならず、世界各地に聖戦志願者を送り出す中継センターと化した。

    その名を「アルカーイダ」という。 

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    イラン・イラク戦争の終結


    690:  2014/09/07(日)22:41:17 ID:jJBkNqp3v
    イランとイラクの動向に話を戻してみる。

    ホメイニ率いるイラン・イスラーム共和国は、当初は東西冷戦のどちらの陣営にも与せず、イラン国内で「法学者の統治」を貫徹していくことだけを目指していたらしい。

    ホメイニによれば「アメリカ逝ってよし、ソ連も逝ってよし」とのこと。

    しかし、アメリカ大使館占拠事件やイラン・イラク戦争など、激動する政治状況のなかでイランはむしろ、積極的にイスラーム革命の理念を「輸出」していくことにした。


    ホメイニによれば、そもそもナショナリズムなんていうのは西欧の異教徒どもがイスラーム世界を分断するために捏ね上げたもので、ムスリムは国境なんぞにとらわれず、

    全イスラーム世界でイスラーム法が施行される理想の社会を実現すべきだというのである。

    要するに「万国のムスリムよ、団結せよ!」ということか。

    イラン政府は「革命委員会」なるものを組織して各国のイスラーム復興運動を煽り立てたり、諸外国の大使館を拠点にイスラーム革命の宣伝を行ったりした。


    その結果として、イラン革命から1年も経たないうちにサウジアラビアでアル・ハラム・モスク占拠事件が起こり、カディーフの町ではシーア派の大暴動が発生した。


    イラクでは第二次世界大戦以来、スンナ派に抑圧されてきたシーア派信徒がナジャフの最高位法学者バーキル・サドルのもとで「ダアワ党」として纏まりはじめていたが、

    ダアワ党とイランの結びつきを恐れたイラク大統領サダム・フセインは、バーキル・サドルを処刑し、ダアワ党を弾圧した。

    聖地ナジャフの最高位法学者が処刑されたことはイスラーム世界に激甚な衝撃を与えた。

    ダアワ党の残党はテヘランに逃れ、イラン政府に協力してイラク軍と戦うことになる。


    1981年にはペルシア湾岸の小国バーレーンでシーア派組織による政府転覆計画が発覚。

    1983年にはクウェートでダアワ党の煽動による爆破テロが頻発。

    さらに、レバノンでイスラエルの侵入に対抗して生まれたシーア派民兵組織、ヒズブラもイランの影響下に入る。


    そんな風にイランはスンナ派諸国に揺さぶりをかけるとともに、イスラーム革命を連鎖発生させようと頑張ったのだが、

    当然ながら周辺のスンナ派諸国、そして欧米諸国もイランを重大な脅威と見なして袋叩きにした。

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    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
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    part23 イラン革命とシーア派

    ソ連のアフガン侵攻


    658:  2014/09/04(木)22:15:48 ID:NvraU2rV4
    イラン革命をきっかけとして、にわかに始まった「第二次イスラーム復興運動」。
    これにもっとも脅えたのは意外にもソビエト連邦だった。


    なぜかというと、おおむねロマノフ朝ロシア帝国の版図を引き継いだソビエト連邦は、実は世界で最も多くのムスリムを擁する国家のひとつだったのだ。

    ロシアが19世紀に征服した中央アジア、カフカス、クリミア半島、そしてモスクワからも遠くないヴォルガ中流域。

    ロシア革命後、「宗教は人民の阿片なり」とのスローガンのもと、イスラームは徹底して貶められ抑圧され、スターリンの独裁時代にはクリミア・タタール人などの不穏分子が東方へ強制移住を強いられた。

    だが、そんな抑え込みをすればするほどに、南部や東部のムスリムたちのあいだにソビエト支配への反感が募っていることは想像に難くない。

    あるいは、あまりにイスラームを抑圧しすぎたがゆえに、かえってイスラームという宗教がソビエトに支配されるアジア系諸民族のあいだで独立の旗印として利用される恐れすらも芽生える。


    だからイラクのサダム・フセインがイランに侵攻すると、ソビエト連邦はどこよりも熱心にイラクを支援した。

    しかし、それでもまだ不安だ。
    西側だけではない。東側からもイランを封じ込めなければ。

    そこでソ連はアフガニスタンに目を向けた。

      【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part24 【イスラム革命後のアフガニスタンと諸国の思惑】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
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    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
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    part18 イギリスの三枚舌外交
    part19 イランと石油の世紀
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    part21 イスラエルの独立宣言
    part22 第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争

    ホメイニとイラン革命


    631: 2014/09/02(火)23:26:29 ID:NM7Gn0UA0
    第二次世界大戦の終結から1970年代まで、イスラーム世界中央部の歴史は、エジプトを盟主とするアラブ諸国とイスラエルとの抗争を軸に動いていたといえる。

    まあ、それ以外にも北アフリカから東南アジアまで広大な地域にムスリムたちは存在するのだけど。

    が、エジプトとイスラエルの講和によってこの構造が解体するのと同じ頃、東のかたイランで新たな炎が上がる。

    その前史として、イランの20世紀をもういちど振り返ってみる。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part23 【イラン革命とシーア派】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち
    part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
    part18 イギリスの三枚舌外交
    part19 イランと石油の世紀
    part20 英領インド帝国の誕生〜インドの独立
    part21 イスラエルの独立宣言

    第一次世界大戦後のエジプト



    596:  2014/08/25(月)23:29:01 ID:okU1q1yBa
    世界大戦が終わった後、しばらくのあいだエジプトが中東における台風の眼になる。
    というわけで、エジプトの状況について少し遡ってみる。なお、最新情報は>>369

    関連:part15 アフガーニーの説くイスラーム復興


    第一次世界大戦の終了後、パリで講和会議が開催される。

    このとき、会議には旧オスマン帝国本国のトルコはもとより、英国の肝いりで作られたヒジャーズ王国からも第三王子ファイサルが出席したし、ほとんど戦争に関係なさそうなエチオピアなんぞも招請された。

    ところが、エジプトには全く音沙汰なし。


    いちおうこの時点でエジプトは独立した国家である。

    限りなく英国に従属しているとはいえ、財布も軍隊も英国に握られているとはいえ、それでもムハンマド・アリー朝はまだ存続している。

    そのエジプトの存在が列強に完全無視されたことは、エジプト人の誇りをいたく傷つけた。


    あのアフガーニーの弟子にしてアブドゥフの同志、ウラービー革命にも参加した筋金入りの愛国政治家サアド・ザグルールが英国高等弁務官のところに乗り込んだ。

    「エジプトは独立国家なので、講和会議に代表団を送りたい」

    「その代表団とやらはどこにいるのかね。聞いたこともない」

    「私が代表になる!」


    英国はザグルールたちの出国を許して船に乗せた。

    ところが船は何故かあらぬ方向へ進みだし、パリには行かず、英領マルタ島に到着。

    着くなりザグルールたちは島の牢獄に放り込まれた。


    これを知るやエジプト人たちは大暴動を起こし、全土で反英デモを繰り広げユニオンジャックを掲げた店を片っ端からぶち壊してまわった。


    恐れをなしたイギリスは1922年に「わかったわかったエジプトは独立国でちゅねー」と宣言。

    ちょうど旧宗主国のオスマン帝国も消えたこととて、これまで「総督」とか「副王」とか呼ばれていたムハンマド・アリー朝の君主は正式に王号を名乗れることになり、「エジプト王国」が成立する。


    ただし「独立国同士の対等な条約」により、相変わらずエジプトには英国軍が駐留し、外交も英国がコントロールし、

    スエズ運河も英国が管理し、戦時にはエジプトの港湾も飛行場も通信設備も全部英国が自由に使えることになった。

    どこが独立国なのかと小一時間。

      【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part22 【第一次世界大戦後のエジプトと中東戦争】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち
    part17 第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡
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    イスラエルの独立宣言


    584: 1 2014/08/24(日)22:30:45 ID:YzYH5XegZ
    二度目の世界大戦が決着し、大英帝国は衰退する。

    帝国は世界各地のいくつもの駐屯地を相次いで放棄し、元の小さな島国へと帰っていく。

    インド撤退と同じ1947年、大英帝国は第一次大戦以来信託統治を続けていた地中海東岸、パレスチナからも撤退した。



    地中海東岸。

    その沿岸部全体を広い意味で「シリア」と呼ぶ。現在のシリア国家と混同しないために「歴史的シリア」と呼ぶこともある。

    そのおよそ南半分、ヨルダン川と死海の西側に、三千年前に古代イスラエル王国が成立した。

    伝承によればちょうど紀元前1000年、半ば遊牧の民だったユダヤ人を若き戦士ダヴィデが統合し、エルサレムに都して、唯一なる世界の主神ヤハウェを崇拝する神殿を建設したという。


    イスラエルの王国はほどなく南北に分裂。北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国もバビロニアに滅ぼされ、民はバビロンへ連行された。

    『エレミヤの哀歌』はうたう。

    「ああ悲しいかな、昔は人の満ちみちたりしこの都、今は凄しき様にて坐し、寡婦のごとくなれり」

    「ユダは艱難の故にまた大いなる苦役のゆえに囚われゆき、もろもろの国に住まいて安息を得ず」

    「エルサレムは甚だしく罪を犯したれば汚れた者のごとくなれり」


    バビロンに連れ去られたヘブライ人は異教の地にあって切にヤハウェに祈りを捧げ、いつの日か救済と故国への帰還を希った。

    やがてアケメネス朝ペルシアが勃興。バビロンに入城したペルシア王キュロスは囚われのユダヤ人にイスラエルへの帰還を許す。

    イスラエル人はキュロスを救世主と讃え、主神ヤハウェの偉大さと、自らが聖なる民であることを確信した。


    しかし、再興されたイスラエル王国もやがてセレウコス朝シリアに滅ぼされ、のちにローマ帝国の属国となる。

    ローマの支配を嫌ったユダヤ人は幾度も反乱を起こす。

    紀元131年。救世主にしてユダヤの大公、星の子を名乗る「シモン・バル・コクバ」がローマ帝国からの独立を宣言。

    4年後、反乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、すべてのユダヤ人をイスラエルの地より放逐し、この地を「パレスチナ」と改名した。

    こうして再び故国を喪失したユダヤ人は世界中に離散する。


    故国なき民は何処にあっても少数派であり、しばしば偏見や迫害に苦しんだ。

    しかし不思議なことにこの民族は歴史の闇に溶け去ることなく、二千年の歳月を乗り越えた。

    彼らは苦しみに遇うたびに、「ハティクヴァ」、すなわち「希望」という歌を歌って互いを慰め支えあった。

    「ユダヤの民の望みは、はるか古よりシオンの地へと帰ること。いざ東へ向かわん。希望は未だ尽きず・・・」

    かつて、神ヤハウェの恩寵により失われた故国はひとたび取り戻された。であれば、此度の苦しみも永遠ではない・・・


    いま、二千年にわたる「ハティクヴァ」が現実となる時が近づこうとしていた。

    しかしながら、ユダヤ人がシオンの地を留守にした二千年の間に、この地に新たに住まうようになった民もおり、これが甚だ厄介な問題を引き起こす。

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