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    以下の記事はコメント欄をまとめています。ご協力よろしくお願い致します(2014.09.07)
    【画像】スペインのガウディ建築の写真をひたすら紹介して行く

    イスラム教

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち

    第一次世界大戦のはじまり


    1024px-Sarajevo_Lateinerbrücke_1
    サラエボ事件が発生した「ラテン橋」
    photo credit 

    462: 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
    1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。

    この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

    つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。

    前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。

    それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。

    「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」


    「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。しかし、根本的な理由はシンプルだ。


    ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。

    しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。


    各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。

    ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。


    サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。

    するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。

    オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。

    ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。

    攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。

    かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

    そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。


    結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。


    「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国

    「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part17 【第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
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    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興

    ドイツ帝国の野望


    Kaiser_Guglielmo_II
    ヴィルヘルム2世
    photo credit 

    407: 2014/08/10(日)02:01:30 ID:6bwQqc9HF
    19世紀の終わりが近づくころ、世界を支配する列強のなかにドイツ、イタリア、日本といった新勢力が台頭し始めた。

    とくに1871年に成立したドイツ帝国はオーストリアとフランスという二大強国を破り、19世紀末ヨーロッパの政局を自在にコントロールしてみせた。

    新興のドイツ帝国は海外植民地をほとんど持たず、帝国主義の戦場では後発だった。

    イスラーム世界では、この新興勢力が旧来の列強を押さえ、新しい時代を開いてくれるのではないかという期待が広まった。

    オスマン帝国からは多くの青年がドイツに留学して政治や軍事を学び、ドイツの軍人や政治家たちと人脈を築いた。

    ドイツもまた野心を育んでいる。

    1888年、29歳でこの新興国の帝位を継承したヴィルヘルム2世は辣腕の宰相ビスマルクを疎んじ、対外膨張論者を集めだした。

    「ドイツ、世界に冠たるドイツ!」


    ヴィルヘルム2世は1898年、イスタンブルに来訪。

    皇帝アブデュルハミト2世や陸相エンヴェル・パシャをはじめ、上下の人士に熱烈な歓迎を受けた。

    オスマン帝国と誼を通じたヴィルヘルム2世は遠大な東方計画を実現に移す。

    それは目の上の瘤、大英帝国が抑えるアジアの富を奪うべく、ベルリンからペルシアに至る鉄道を敷設することだった。

    このときベルリンからイスタンブルまでの鉄道路線はすでに完成していた。いわゆるオリエント鉄道である。

    ドイツはオスマン帝国の認可を受けて鉄路をさらに東へ延伸し、アナトリアの山間を越えてメソポタミアに抜け、イラクのバグダードを経てペルシア湾頭のバスラとクウェートまでを結ぶことを画策した。


    これによって英国が握るスエズ運河を経由することなく、直接東洋へのアクセスが可能となる。

    一朝事あらば大軍を直ちにオリエントへ展開することもできよう。

    アブデュルハミト2世はこの申し出を快諾した。

    もちろんアブデュルハミトにも思惑はある。鉄道が完成したら適当な口実を設けてすぐに国有化するつもりだった。

    加えてドイツ諜報部は中近東一帯に「カイザー・ヴィルヘルムはイスラームに改宗した」という奇妙な噂を流す。

    イスラーム世界にドイツへの好感を広めれば、いずれ大英帝国統治下のムスリムたちを一斉蜂起させられるのではないか。

    ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らない。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part16 【存在感を増す新興国たち】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
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    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
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    part10 ナポレオンの東方遠征
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    借金地獄に陥るイスラーム世界中央部


    364: 2014/08/06(水)22:57:25 ID:kwtYBggtr
    19世紀後半、中央アジアで熾烈なグレートゲームが展開されている頃。

    イスラーム世界中央部ではオスマン帝国・エジプト・ペルシアが揃って借金地獄に落ちつつあった。


    オスマン帝国がクリミア戦争とタンジマート改革の経費がかさんで外債を乱発したことは既に軽く触れたけど、

    マクロな経済のレベルで見れば、産業革命を達成した西洋諸国の生産力に太刀打ちできなかったことが経済危機の根本原因。

    これはオスマン帝国に限らない。


    近代まで周知のようにトルコやイランは華麗な絨毯をはじめ毛織物生産が盛んだったし、インドは世界一の木綿産地で、インド洋交易でもっとも盛んに取引されたのはインド産綿布だった。


    ところがそこに蒸気仕掛けの自動織機で大量生産されるイギリス産の布だの糸だのが、

    丁寧に梱包されて安値で流入してくれば、西南アジアの何百万もの人々は飯の食い上げに追い込まれる。

    各国で近代化政策が進められ、港が整備され、鉄道が敷設されれば、その傾向はますます強まる。

    イスラーム世界の大部分の人々にとって近代化は財布と胃袋を擦り減らすものだった。

    税収も減るけど一度始まった近代化政策は止めるわけにはいかないし、何より軍を整備しなければ列強にいつ滅ぼされるか分からない。この危機感。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part15 【アフガーニーの説くイスラーム復興】】の続きを読む

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    東トルキスタンの混乱


    338: 2014/08/03(日)23:04:59 ID:GIzkFpnK8
    次にグレートゲームの盤面が大きく動くのは1860年代。

    この時期、内陸アジアで二つの大事件が発生した。

    一つはロシア帝国のトランスオクシアナ征服、そしてもう一つは清朝治下にあった東トルキスタンでの「回民蜂起」である。


    長らく東ユーラシアに君臨してきた大清帝国は、歴代中華帝国の完成態というべきものだった。

    偉大なる康熙帝、雍正帝、乾隆帝という稀代の名君たちのもと、この帝国は古来中華世界の宿敵であった
    北方の遊牧民をも同じ国家のもとに取り込み、

    中央アジア・東南アジア諸国をも緩やかに従属させ、多数の民族・宗教・言語を緩やかに統合し、繁栄を極めていた。


    だが、19世紀に入るとともに帝国は徐々に老衰症状を呈し始める。

    そして1840年、貿易をめぐる対立から南シナ海に四隻の英国艦隊が姿を現し、アヘン戦争が勃発。

    地大物博にして強大無比な大清は、この新しい夷狄にあっけなく敗れた。

    こうして大混乱が始まる。

    太平天国の乱が勃発し、捻軍が蜂起し、アロー戦争では列強の帝都進駐を許す。

    雲南の大理では回族の杜文秀が「スルタン・スレイマン」を称して独立国を築く。

    そして陝西省で勃発した中国系ムスリムと漢人との争いがたちまち東トルキスタンに拡大し、ウイグル人のムスリムもこれに呼応し、中央アジアのオアシス諸都市が次々に離反したのである。

    この東トルキスタンのムスリム反乱もまた、同時期のロシア南進とともにグレートゲームの重要ファクターとなる。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part14 【ロシアの南進と東トルキスタンの混乱で激動するグレートゲーム】】の続きを読む

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    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機

    ロシアのペルシアへの侵攻


    315: 2014/08/03(日)00:58:23 ID:bhCxUjweB
    時系列がややこしくなるけど、北方の巨人ロシアの視点に立って19世紀の初頭まで戻ってみたい。

    18世紀の末、ロシアはオスマン帝国からクリミア半島とルーマニアを奪い、キュチュク・カイナルジ条約でオスマン領内の正教徒に対する保護権までも獲得した。

    その勢いのまま再度の戦端を開いたところでフランス革命が勃発。

    ロシアはオスマン帝国との対決を一時中断して西に備える。


    が。


    ロシアはもう一個の異教帝国、ペルシアに対してはオスマン帝国よりもはるかに舐めていた。


    >>130以来放置していたガージャール朝ペルシアにおいては、1797年に残虐非道な建国者
    アーガー・モハンマド・シャーが召使に刺殺されてみんなが胸を撫で下ろしたわけだが、

    そもそもごく少数の遊牧民ガージャール族がイラン全土を支配するという体制に無理があったわけで、アーガー・モハンマドが生きていようが死んでいようが、国制はやたらと抑圧的なままだった。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part13 【中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり】】の続きを読む

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    オスマン帝国の改革


    MahmutII
    マフムト2世
    photo credit 

    269: 2014/07/29(火)22:40:50 ID:OFl5C8ll0
    マムルークたちが姿を消したので、イェニチェリたちにもそろそろご退場願おう。


    少し時代を巻き戻す。


    アレムダール・パシャに擁立されたオスマン帝国皇帝マフムト2世は、アレムダールが倒れた直後

    実の兄である廃帝ムスタファの命を絶った。

    非情で非道な措置だったが、これによってオスマン家の帝位継承権者は皇帝マフムトただ一人となる。

    オスマン帝国の存続を前提とする限り、誰もマフムトを殺せない。

    この手を打ったうえで、彼はひたすら雌伏した。



    マフムト2世は聡明だった。

    セリム3世は正しい。帝国は衰えつつあり、否応なしに西方の異教徒たちの流儀を取り入れる以外、もはやこの帝国を守る方法はない。


    巧妙に巧妙に、マフムトは一人思案をめぐらし人事を操り、宮廷の要職を徐々に改革派で固めていった。

    目立たないところから少しずつ、軍の近代化を進め始めた。

    そしてアーヤーンたちを討伐。

    地方で気ままに振る舞う領主たちの土地を没収し、再び国庫に組み込む。

    こうして機は次第に熟していく。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part12 【オスマン帝国の改革とイスラームの危機】】の続きを読む

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    イェ二チェリの腐敗


    248: 2014/07/28(月)22:58:15 ID:iq5GEPu2z
    ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任したころ、オスマン帝国本国では、セリム3世の改革に対する不満がますます広がっていた。


    セリム3世が新設した西洋式軍隊は「ニザーム・ジェディード」と呼ばれる。

    トルコ語で「新制軍」。まあ芸のない命名ではある。

    1805年、セリム3世はニザーム・ジェディードを増員するため、バルカン半島各地で兵士を集めることを発表した。

    これを聞いて色めき立ったのはバルカン地方のアーヤーン、例の徴税請負人から進化した「ご領主様」たちである。


    貴重な領地の人手が訳のわからん新制軍とやらに持ってかれる。

    いや、よく考えてみれば皇帝直属の軍が強くなったら、自分たちが抱えている領地も取り上げられちまうんじゃね?

    というわけでアーヤーンたちは皇帝を脅迫した。

    「陛下、つまらん真似をなさったら我々みんなでイスタンブルに押しかけますぜ」

    というわけで、バルカン半島での兵士徴募は中止。皇帝は脅迫に屈した。


    この一件で、セリム3世もニザーム・ジェディットも舐められた。

    まもなくイスタンブルの郊外で、イェニチェリ兵士がニザーム・ジェディットの将校を殺害する事件が起きる。

    腰が引けた皇帝はニザーム・ジェディットに兵舎に引き上げるように命じたが、

    ビビるどころか勢いづいたイェニチェリはそのままイスタンブルに進撃開始。こりゃもう反乱である。

    セリム3世は完全降伏のていでニザーム・ジェディット解散を宣言したが、今更その程度で事は終わらない。

    ここで、イスラーム法学者たちの最高権威である「シェイヒュル・イスラーム」が登場する。

    要は最高裁長官みたいなものである。


    「皇帝セリムの改革はことごとくイスラーム法に違反する。皇帝は廃位されるべし」


    これで決着がついた。

    セリム3世は帝位から引きずりおろされ、改革はすべてご破算。

    ニザーム・ジェディットは解散し、各国の大使館も閉鎖される。

    セリム3世の支持者たちはブルガリアの改革派アーヤーン、「アレムダール・パシャ」のもとに集まり、
    皇帝救出のために出陣した。

    しかしイェニチェリたちはこれを知ると救出軍が到着する直前に、哀れ廃帝セリムを殺害してしまった。

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    ロシアの野望


    230: 2014/07/27(日)21:42:42 ID:x0dRjz4tl
    墺土戦争とアフシャール戦役で連敗して以後、長らくヒキコモリ主義を優先してきたオスマン帝国は、
    1768年に久しぶりに本格戦争に巻き込まれる。

    運悪く、黒海北方のポーランド領ウクライナで起こった民衆反乱に巻き込まれたのであった。


    ピョートル大帝から半世紀以上を経て、ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代になっていた。

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    エカチェリーナ2世
    photo credit 


    衰亡期に入ったオスマン帝国軍は黒海西岸を順当に敗走し続けた。


    1768年に「キュチュク・カイナルジ条約」という例のごとく発音困難な条約が締結された。

    その結果、長らくオスマンの従属国だった黒海北岸のイスラーム国家、クリミア・ハン国が独立もといロシアの属国化。

    そしてワラキア・モルダビア二国もロシアの保護領となった結果、オスマン帝国は現在のルーマニア全土を喪失し、ドナウ川以北がすべてロシアの影響圏となった。



    ちなみにクリミア・ハン国というのは、14世紀に分裂解体したジュチ・ウルスの最後の名残にあたる。

    首都はクリミア半島南部のバフチサライ。

    狭隘な地峡で本土ウクライナと隔てられたクリミア半島は、守るに易く攻めるに難い。

    イヴァン雷帝の頃までは、クリミア・ハン国の騎兵はしばしば北上してロシアの町々を急襲し、
    時に首都モスクワをすら焼き払ったものだった。

    その後もクリミア・ハン国は南の海の向こうにあるオスマン帝国による無言の支援を受けて北のかたロシアに降ることなく、ロシアはクリミア騎兵の脅威を恐れて、長らく「ハンへの貢納」をすら続けていた。


    オスマン帝国の庇護を失ったクリミア・ハン国はわずか9年後、ロシアに強制的に併合される。

    自国を奪われたクリミア最後のハンは遠くエーゲ海の岸辺で生涯を終え、チンギス・ハン直系子孫の王国は地上から永遠に消滅することとなる。

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    オランダ東インド会社



    204: 2014/07/25(金)23:35:48 ID:utULEuDmC
    1596年、ジャワ島のバンテン港に突然オランダ艦隊が入港した。


    当時、オランダはハプスブルク朝スペイン帝国からの延々続く独立戦争の真っ最中であった。

    ポルトガルもスペインも似たようなものであるし、東洋には富が唸っていた。

    オランダ政府は「オランダ東インド会社」なるものを設立し、東南アジア横取り作戦を開始したのだ。


    さっそくオランダはそこらじゅうのポルトガル商館を襲撃してまわった。

    願わくば喧嘩は身内でだけ片づけてほしいものである。

    ポルトガルの海上帝国なんてものは所詮見かけ倒しなので、オランダの横取り作戦はサクサク進行。


    1618年、オランダ東インド会社の第4代東インド総督として、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが着任。

    なにゆえ単なる一会社が「総督」だの「艦隊」だのを抱えているのかというツッコミは気にしない。

    ヤン・ピーテル(以下略)はポルトガルにとってのアルブケルケと同様、オランダ海上帝国の父ともいうべき人物だった。

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    ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
    photo credit 


    彼はそれまでのように海上をうろうろしてポルトガルにせこせこと嫌がらせをする戦略を改め、

    各地に要塞を建設して確実に交易を支配することにした。


    というわけで着任の翌1619年、彼はさっそく艦隊を率いてジャワ島西部のジャカルタを占領し、
    ここにバタヴィア城を建設した。

    これ以後、このバタヴィアがオランダによる東南アジア支配の中枢となる。


    1629年にはジャワ島最強のマタラム王国を破り、同年スマトラ西北端のアチェ王国にも圧勝。

    1639年には北の大国日本がポルトガル船の来航を禁止したうえでオランダに独占交易を認めたので、
    バタヴィア総督府では大宴会が開かれた。

    そして1641年には長らくポルトガルの拠点だったマラッカをついに陥落させ、東南アジア海域の経済覇権を確立。

    東南アジア横取り作戦、大成功であった。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part9 【アジアを狙う欧州諸国】】の続きを読む

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    part7 北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退

    ムガル帝国の衰退



    173: 2014/07/24(木)01:19:41 ID:HTne1Yfsr
    18世紀後半、オスマン帝国は緩やかに衰退し続け、その東ではイラン高原が動乱のさなかにあった。

    ところで、1707年にムガル帝国のアウラングゼーブが没した後のインド亜大陸の情勢はどうであったか。



    アウラングゼーブの負の遺産はあまりにも巨大だった。

    そもそも、彼はあまりにも長生きし過ぎていた。なにしろ享年88歳である。

    その死後帝位を継いだバハードゥル・シャー1世は、その時点で65歳である。

    寿命尽きるまでにどれほどのことができるやら、暗澹たるものだった。


    西北インドのシーク教徒が反乱を起こした。

    国庫が破産した。

    二つの宜しからぬ治績を残して老皇帝が崩御したあと、
    ムガル帝国の実質的な支配権は
    皇帝の手を離れ、宮廷の高官たちの手に渡った。

    宮廷内では高官たちの権力争いが常態化した。

    以後の歴代皇帝は有象無象なので固有名詞を出す必要もないと思われる。

    何人か、それなりに目端が利いて有能な政治家も出たのだが、前向きなことは何もしない皇帝たちも有能な大臣の足を引っ張ることだけは積極的だった。

    内政は麻痺した。
    賄賂と陰謀が横行した。

    閲兵式では同じ兵士が何度も同じ場所を行進し、
    軍馬はその筋の業者から自称騎兵にその都度貸し出された。

    1724年、ときの帝国宰相ニザームが覚醒した。

    「こんなところでグダグダ過ごしているのは人生の無駄遣いやな」

    宰相は一族郎党を引き連れて職場を放棄し、はるか南のハイデラバードに去っていった。

    「今日からここで新しい国作るわ」

    たちまち真似する者が続出した結果、ベンガル、アワド、パンジャーブなどに相次いで太守領が成立。

    自称ムガル皇帝の忠実な臣下にして地方長官、実質は独立国家の君主である。



    いたるところで領主たち、ヒンドゥー諸侯が反旗を翻した。

    南インドのマラータ族が北進を開始した。

    そしてそんな中、1738年にあの男、ナーディル・シャーが来襲した。

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