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    【画像】スペインのガウディ建築の写真をひたすら紹介して行く

    オスマン帝国

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興
    part16 存在感を増す新興国たち

    第一次世界大戦のはじまり


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    サラエボ事件が発生した「ラテン橋」
    photo credit 

    462: 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
    1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。

    この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

    つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。

    前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。

    それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。

    「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」


    「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。しかし、根本的な理由はシンプルだ。


    ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。

    しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。


    各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。

    ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。


    サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。

    するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。

    オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。

    ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。

    攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。

    かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

    そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。


    結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。


    「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国

    「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part17 【第一次世界大戦とオスマン帝国の滅亡】】の続きを読む

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり
    part15 アフガーニーの説くイスラーム復興

    ドイツ帝国の野望


    Kaiser_Guglielmo_II
    ヴィルヘルム2世
    photo credit 

    407: 2014/08/10(日)02:01:30 ID:6bwQqc9HF
    19世紀の終わりが近づくころ、世界を支配する列強のなかにドイツ、イタリア、日本といった新勢力が台頭し始めた。

    とくに1871年に成立したドイツ帝国はオーストリアとフランスという二大強国を破り、19世紀末ヨーロッパの政局を自在にコントロールしてみせた。

    新興のドイツ帝国は海外植民地をほとんど持たず、帝国主義の戦場では後発だった。

    イスラーム世界では、この新興勢力が旧来の列強を押さえ、新しい時代を開いてくれるのではないかという期待が広まった。

    オスマン帝国からは多くの青年がドイツに留学して政治や軍事を学び、ドイツの軍人や政治家たちと人脈を築いた。

    ドイツもまた野心を育んでいる。

    1888年、29歳でこの新興国の帝位を継承したヴィルヘルム2世は辣腕の宰相ビスマルクを疎んじ、対外膨張論者を集めだした。

    「ドイツ、世界に冠たるドイツ!」


    ヴィルヘルム2世は1898年、イスタンブルに来訪。

    皇帝アブデュルハミト2世や陸相エンヴェル・パシャをはじめ、上下の人士に熱烈な歓迎を受けた。

    オスマン帝国と誼を通じたヴィルヘルム2世は遠大な東方計画を実現に移す。

    それは目の上の瘤、大英帝国が抑えるアジアの富を奪うべく、ベルリンからペルシアに至る鉄道を敷設することだった。

    このときベルリンからイスタンブルまでの鉄道路線はすでに完成していた。いわゆるオリエント鉄道である。

    ドイツはオスマン帝国の認可を受けて鉄路をさらに東へ延伸し、アナトリアの山間を越えてメソポタミアに抜け、イラクのバグダードを経てペルシア湾頭のバスラとクウェートまでを結ぶことを画策した。


    これによって英国が握るスエズ運河を経由することなく、直接東洋へのアクセスが可能となる。

    一朝事あらば大軍を直ちにオリエントへ展開することもできよう。

    アブデュルハミト2世はこの申し出を快諾した。

    もちろんアブデュルハミトにも思惑はある。鉄道が完成したら適当な口実を設けてすぐに国有化するつもりだった。

    加えてドイツ諜報部は中近東一帯に「カイザー・ヴィルヘルムはイスラームに改宗した」という奇妙な噂を流す。

    イスラーム世界にドイツへの好感を広めれば、いずれ大英帝国統治下のムスリムたちを一斉蜂起させられるのではないか。

    ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らない。

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