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    以下の記事はコメント欄をまとめています。ご協力よろしくお願い致します(2014.09.07)
    【画像】スペインのガウディ建築の写真をひたすら紹介して行く

    キリスト教

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    1001: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします  ID:tabisoku.blog.jp
    ■宣教師ザビエルのミイラ化遺体を公開 インド

    記事によると
    ・インド南部ゴア州オールドゴアで22日、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルの遺体が一般公開された。

    ・10年に1度の機会で、来年1月4日までの公開期間中、主催者側は約500万人の来訪を予測している。 

    ・あおむけの状態で衣装をまとったミイラ化した遺体が通り過ぎると、沿道の信者は合掌したり、胸の前で十字を切ったりして祈りをささげた。

    詳しくはソースで読んでね
    http://www.sankei.com/world/news/141122/wor1411220034-n1.html 

    1002: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします  ID:tabisoku.blog.jp
    ■フランシスコ・デ・ザビエル(1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
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    スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。


    ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。

    1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。

    ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。

    しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神心的にも消耗しており、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。


    遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。

    1553年2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。

    そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。

    この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度。
     wikipedia

    【宣教師ザビエルのミイラ化遺体が10年ぶりに公開される】の続きを読む

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    アギオス・ディミトリオス聖堂内部
    photo credit 

    1001: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします  ID:tabisoku.blog.jp
    「火葬希望者の葬儀は行わない」 ギリシャ正教会が方針
    http://www.afpbb.com/articles/-/3030635
     
    記事によると
    ・ギリシャ正教会は10月31日、火葬は人体を尊重しない弔い方だとして、火葬を希望する人の埋葬式(葬儀)は執り行わない方針を表明

    ・ギリシャ正教会は「人体の焼却は、文化人類学的・神学的な観点から、正教会の伝統や行動様式に沿ったものとは考えられない」と声明を発表

    ・2006年にギリシャでは火葬が合法化されたが、市民生活に宗教が根付いておりギリシャ国内に火葬場の建設された例は未だにない。
     
    ・正教会は、火葬の手順を定めた新法を「虚無主義」の象徴であり「宗教弾圧」と「人体に対する敬意の欠如」だと批判。 

    1002: 以下名無しさんに代わりまして管理人がお伝えします  ID:tabisoku.blog.jp
    ギリシャ正教会
    正教会における独立正教会のひとつ。アテネに大主教座を置き、主としてギリシャ共和国の信徒を管轄する。

    ただし、ギリシャ共和国領とは完全には一致せず、クレタ島はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。

    ギリシャの正教会はローマ帝国時代以来の由緒をもつが、ギリシャ人の居住していたペロポネソス半島からアナトリア半島にかけての地域を管轄する教会は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に座すコンスタンディヌーポリ総主教のもとにあり、中心地は現在のギリシャの領土内ではなかった。

    1453年にコンスタンディヌーポリはイスラム教徒のオスマン帝国の支配下に入り、前後してギリシャ人を含む正教徒の居住地域の多くがオスマン帝国領になったため、オスマン帝国はコンスタンディヌーポリ総主教を保護して国内の正教徒を統制する政策をとった。

     
    しかし、19世紀初頭にギリシャ人の民族意識が高まると、1821年にオスマン帝国の意を受けたコンスタンディヌーポリ総主教の慰撫を振り切る形で現在のギリシャの地で民族蜂起が起こり、ギリシャは王国として1830年にオスマン帝国から独立を果たした。

    これにともない、新生ギリシャ王国内の正教会は、アテネ大主教を首座として、旧宗主国オスマン帝国の影響下にあるコンスタンディヌーポリ総主教からの教会独立を宣言、1850年に至って総主教の側から承認を受け、相互に独立を承認した教会の関係になった。

    ただし、ギリシャ正教会の首座主教は「総主教」ではなく「アテネ大主教」のままである。
    wikiepdia
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