たびそく!

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    以下の記事はコメント欄をまとめています。ご協力よろしくお願い致します(2014.09.07)
    【画像】スペインのガウディ建築の写真をひたすら紹介して行く

    宗教

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    part1   イスラム教の始まり〜正統カリフ時代
    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
    part8  ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教
    part9  アジアを狙う欧州諸国
    part10 ナポレオンの東方遠征
    part11 エジプトのムハンマド・アリー
    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機
    part13 中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり

    東トルキスタンの混乱


    338: 2014/08/03(日)23:04:59 ID:GIzkFpnK8
    次にグレートゲームの盤面が大きく動くのは1860年代。

    この時期、内陸アジアで二つの大事件が発生した。

    一つはロシア帝国のトランスオクシアナ征服、そしてもう一つは清朝治下にあった東トルキスタンでの「回民蜂起」である。


    長らく東ユーラシアに君臨してきた大清帝国は、歴代中華帝国の完成態というべきものだった。

    偉大なる康熙帝、雍正帝、乾隆帝という稀代の名君たちのもと、この帝国は古来中華世界の宿敵であった
    北方の遊牧民をも同じ国家のもとに取り込み、

    中央アジア・東南アジア諸国をも緩やかに従属させ、多数の民族・宗教・言語を緩やかに統合し、繁栄を極めていた。


    だが、19世紀に入るとともに帝国は徐々に老衰症状を呈し始める。

    そして1840年、貿易をめぐる対立から南シナ海に四隻の英国艦隊が姿を現し、アヘン戦争が勃発。

    地大物博にして強大無比な大清は、この新しい夷狄にあっけなく敗れた。

    こうして大混乱が始まる。

    太平天国の乱が勃発し、捻軍が蜂起し、アロー戦争では列強の帝都進駐を許す。

    雲南の大理では回族の杜文秀が「スルタン・スレイマン」を称して独立国を築く。

    そして陝西省で勃発した中国系ムスリムと漢人との争いがたちまち東トルキスタンに拡大し、ウイグル人のムスリムもこれに呼応し、中央アジアのオアシス諸都市が次々に離反したのである。

    この東トルキスタンのムスリム反乱もまた、同時期のロシア南進とともにグレートゲームの重要ファクターとなる。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part14 【ロシアの南進と東トルキスタンの混乱で激動するグレートゲーム】】の続きを読む

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    part2  ウマイヤ朝〜アッバース朝
    part3  各地で生まれる地方政権
    part4  モンゴル帝国の侵攻とマムルーク朝
    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
    part7  北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退
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    part12 オスマン帝国の改革とイスラームの危機

    ロシアのペルシアへの侵攻


    315: 2014/08/03(日)00:58:23 ID:bhCxUjweB
    時系列がややこしくなるけど、北方の巨人ロシアの視点に立って19世紀の初頭まで戻ってみたい。

    18世紀の末、ロシアはオスマン帝国からクリミア半島とルーマニアを奪い、キュチュク・カイナルジ条約でオスマン領内の正教徒に対する保護権までも獲得した。

    その勢いのまま再度の戦端を開いたところでフランス革命が勃発。

    ロシアはオスマン帝国との対決を一時中断して西に備える。


    が。


    ロシアはもう一個の異教帝国、ペルシアに対してはオスマン帝国よりもはるかに舐めていた。


    >>130以来放置していたガージャール朝ペルシアにおいては、1797年に残虐非道な建国者
    アーガー・モハンマド・シャーが召使に刺殺されてみんなが胸を撫で下ろしたわけだが、

    そもそもごく少数の遊牧民ガージャール族がイラン全土を支配するという体制に無理があったわけで、アーガー・モハンマドが生きていようが死んでいようが、国制はやたらと抑圧的なままだった。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part13 【中央アジアを巡る英露のクレートゲームのはじまり】】の続きを読む

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    part5  オスマン帝国のはじまり
    part6  ヨーロッパの反撃
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    part10 ナポレオンの東方遠征
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    オスマン帝国の改革


    MahmutII
    マフムト2世
    photo credit 

    269: 2014/07/29(火)22:40:50 ID:OFl5C8ll0
    マムルークたちが姿を消したので、イェニチェリたちにもそろそろご退場願おう。


    少し時代を巻き戻す。


    アレムダール・パシャに擁立されたオスマン帝国皇帝マフムト2世は、アレムダールが倒れた直後

    実の兄である廃帝ムスタファの命を絶った。

    非情で非道な措置だったが、これによってオスマン家の帝位継承権者は皇帝マフムトただ一人となる。

    オスマン帝国の存続を前提とする限り、誰もマフムトを殺せない。

    この手を打ったうえで、彼はひたすら雌伏した。



    マフムト2世は聡明だった。

    セリム3世は正しい。帝国は衰えつつあり、否応なしに西方の異教徒たちの流儀を取り入れる以外、もはやこの帝国を守る方法はない。


    巧妙に巧妙に、マフムトは一人思案をめぐらし人事を操り、宮廷の要職を徐々に改革派で固めていった。

    目立たないところから少しずつ、軍の近代化を進め始めた。

    そしてアーヤーンたちを討伐。

    地方で気ままに振る舞う領主たちの土地を没収し、再び国庫に組み込む。

    こうして機は次第に熟していく。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part12 【オスマン帝国の改革とイスラームの危機】】の続きを読む

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    イェ二チェリの腐敗


    248: 2014/07/28(月)22:58:15 ID:iq5GEPu2z
    ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任したころ、オスマン帝国本国では、セリム3世の改革に対する不満がますます広がっていた。


    セリム3世が新設した西洋式軍隊は「ニザーム・ジェディード」と呼ばれる。

    トルコ語で「新制軍」。まあ芸のない命名ではある。

    1805年、セリム3世はニザーム・ジェディードを増員するため、バルカン半島各地で兵士を集めることを発表した。

    これを聞いて色めき立ったのはバルカン地方のアーヤーン、例の徴税請負人から進化した「ご領主様」たちである。


    貴重な領地の人手が訳のわからん新制軍とやらに持ってかれる。

    いや、よく考えてみれば皇帝直属の軍が強くなったら、自分たちが抱えている領地も取り上げられちまうんじゃね?

    というわけでアーヤーンたちは皇帝を脅迫した。

    「陛下、つまらん真似をなさったら我々みんなでイスタンブルに押しかけますぜ」

    というわけで、バルカン半島での兵士徴募は中止。皇帝は脅迫に屈した。


    この一件で、セリム3世もニザーム・ジェディットも舐められた。

    まもなくイスタンブルの郊外で、イェニチェリ兵士がニザーム・ジェディットの将校を殺害する事件が起きる。

    腰が引けた皇帝はニザーム・ジェディットに兵舎に引き上げるように命じたが、

    ビビるどころか勢いづいたイェニチェリはそのままイスタンブルに進撃開始。こりゃもう反乱である。

    セリム3世は完全降伏のていでニザーム・ジェディット解散を宣言したが、今更その程度で事は終わらない。

    ここで、イスラーム法学者たちの最高権威である「シェイヒュル・イスラーム」が登場する。

    要は最高裁長官みたいなものである。


    「皇帝セリムの改革はことごとくイスラーム法に違反する。皇帝は廃位されるべし」


    これで決着がついた。

    セリム3世は帝位から引きずりおろされ、改革はすべてご破算。

    ニザーム・ジェディットは解散し、各国の大使館も閉鎖される。

    セリム3世の支持者たちはブルガリアの改革派アーヤーン、「アレムダール・パシャ」のもとに集まり、
    皇帝救出のために出陣した。

    しかしイェニチェリたちはこれを知ると救出軍が到着する直前に、哀れ廃帝セリムを殺害してしまった。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part11 【エジプトのムハンマド・アリー】】の続きを読む

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    ロシアの野望


    230: 2014/07/27(日)21:42:42 ID:x0dRjz4tl
    墺土戦争とアフシャール戦役で連敗して以後、長らくヒキコモリ主義を優先してきたオスマン帝国は、
    1768年に久しぶりに本格戦争に巻き込まれる。

    運悪く、黒海北方のポーランド領ウクライナで起こった民衆反乱に巻き込まれたのであった。


    ピョートル大帝から半世紀以上を経て、ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代になっていた。

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    エカチェリーナ2世
    photo credit 


    衰亡期に入ったオスマン帝国軍は黒海西岸を順当に敗走し続けた。


    1768年に「キュチュク・カイナルジ条約」という例のごとく発音困難な条約が締結された。

    その結果、長らくオスマンの従属国だった黒海北岸のイスラーム国家、クリミア・ハン国が独立もといロシアの属国化。

    そしてワラキア・モルダビア二国もロシアの保護領となった結果、オスマン帝国は現在のルーマニア全土を喪失し、ドナウ川以北がすべてロシアの影響圏となった。



    ちなみにクリミア・ハン国というのは、14世紀に分裂解体したジュチ・ウルスの最後の名残にあたる。

    首都はクリミア半島南部のバフチサライ。

    狭隘な地峡で本土ウクライナと隔てられたクリミア半島は、守るに易く攻めるに難い。

    イヴァン雷帝の頃までは、クリミア・ハン国の騎兵はしばしば北上してロシアの町々を急襲し、
    時に首都モスクワをすら焼き払ったものだった。

    その後もクリミア・ハン国は南の海の向こうにあるオスマン帝国による無言の支援を受けて北のかたロシアに降ることなく、ロシアはクリミア騎兵の脅威を恐れて、長らく「ハンへの貢納」をすら続けていた。


    オスマン帝国の庇護を失ったクリミア・ハン国はわずか9年後、ロシアに強制的に併合される。

    自国を奪われたクリミア最後のハンは遠くエーゲ海の岸辺で生涯を終え、チンギス・ハン直系子孫の王国は地上から永遠に消滅することとなる。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part10 【ナポレオンの東方遠征】】の続きを読む

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    オランダ東インド会社



    204: 2014/07/25(金)23:35:48 ID:utULEuDmC
    1596年、ジャワ島のバンテン港に突然オランダ艦隊が入港した。


    当時、オランダはハプスブルク朝スペイン帝国からの延々続く独立戦争の真っ最中であった。

    ポルトガルもスペインも似たようなものであるし、東洋には富が唸っていた。

    オランダ政府は「オランダ東インド会社」なるものを設立し、東南アジア横取り作戦を開始したのだ。


    さっそくオランダはそこらじゅうのポルトガル商館を襲撃してまわった。

    願わくば喧嘩は身内でだけ片づけてほしいものである。

    ポルトガルの海上帝国なんてものは所詮見かけ倒しなので、オランダの横取り作戦はサクサク進行。


    1618年、オランダ東インド会社の第4代東インド総督として、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが着任。

    なにゆえ単なる一会社が「総督」だの「艦隊」だのを抱えているのかというツッコミは気にしない。

    ヤン・ピーテル(以下略)はポルトガルにとってのアルブケルケと同様、オランダ海上帝国の父ともいうべき人物だった。

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    ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
    photo credit 


    彼はそれまでのように海上をうろうろしてポルトガルにせこせこと嫌がらせをする戦略を改め、

    各地に要塞を建設して確実に交易を支配することにした。


    というわけで着任の翌1619年、彼はさっそく艦隊を率いてジャワ島西部のジャカルタを占領し、
    ここにバタヴィア城を建設した。

    これ以後、このバタヴィアがオランダによる東南アジア支配の中枢となる。


    1629年にはジャワ島最強のマタラム王国を破り、同年スマトラ西北端のアチェ王国にも圧勝。

    1639年には北の大国日本がポルトガル船の来航を禁止したうえでオランダに独占交易を認めたので、
    バタヴィア総督府では大宴会が開かれた。

    そして1641年には長らくポルトガルの拠点だったマラッカをついに陥落させ、東南アジア海域の経済覇権を確立。

    東南アジア横取り作戦、大成功であった。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part9 【アジアを狙う欧州諸国】】の続きを読む

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    ムガル帝国の衰退



    173: 2014/07/24(木)01:19:41 ID:HTne1Yfsr
    18世紀後半、オスマン帝国は緩やかに衰退し続け、その東ではイラン高原が動乱のさなかにあった。

    ところで、1707年にムガル帝国のアウラングゼーブが没した後のインド亜大陸の情勢はどうであったか。



    アウラングゼーブの負の遺産はあまりにも巨大だった。

    そもそも、彼はあまりにも長生きし過ぎていた。なにしろ享年88歳である。

    その死後帝位を継いだバハードゥル・シャー1世は、その時点で65歳である。

    寿命尽きるまでにどれほどのことができるやら、暗澹たるものだった。


    西北インドのシーク教徒が反乱を起こした。

    国庫が破産した。

    二つの宜しからぬ治績を残して老皇帝が崩御したあと、
    ムガル帝国の実質的な支配権は
    皇帝の手を離れ、宮廷の高官たちの手に渡った。

    宮廷内では高官たちの権力争いが常態化した。

    以後の歴代皇帝は有象無象なので固有名詞を出す必要もないと思われる。

    何人か、それなりに目端が利いて有能な政治家も出たのだが、前向きなことは何もしない皇帝たちも有能な大臣の足を引っ張ることだけは積極的だった。

    内政は麻痺した。
    賄賂と陰謀が横行した。

    閲兵式では同じ兵士が何度も同じ場所を行進し、
    軍馬はその筋の業者から自称騎兵にその都度貸し出された。

    1724年、ときの帝国宰相ニザームが覚醒した。

    「こんなところでグダグダ過ごしているのは人生の無駄遣いやな」

    宰相は一族郎党を引き連れて職場を放棄し、はるか南のハイデラバードに去っていった。

    「今日からここで新しい国作るわ」

    たちまち真似する者が続出した結果、ベンガル、アワド、パンジャーブなどに相次いで太守領が成立。

    自称ムガル皇帝の忠実な臣下にして地方長官、実質は独立国家の君主である。



    いたるところで領主たち、ヒンドゥー諸侯が反旗を翻した。

    南インドのマラータ族が北進を開始した。

    そしてそんな中、1738年にあの男、ナーディル・シャーが来襲した。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part8 【ムガル帝国の衰退と東南アジアでのイスラム教】】の続きを読む

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     北方の巨人、ロシア



    148: 2014/07/22(火)22:34:25 ID:l6OgZMbRm
    イスラーム世界の三代帝国が斜陽を迎えるころ、広大なユーラシア大陸の北半に巨大な帝国が誕生しつつあった。

    北方の巨人、ロシア。

    この帝国の動向は、これより以降のイスラーム世界を語るうえで不可欠となる。


    ことの起こりは13世紀中葉、中央ユーラシアをモンゴル帝国の覇権が覆ったこと。


    「魔王」チンギス・ハンの孫バトゥはアラル海よりカスピ海、
    そして黒海北方に続くカザフステップとウクライナの草原を征服し、
    その北に広がる暗い森林に兵を進めた。

    そこには当時、ビザンツ帝国の影響のもとでキリスト教の東方正教を奉じ、
    「ルーシ」と総称される国々があった。

    ルーシ諸国はバトゥの猛襲の前に相次いで屈服し、その後長らくバトゥの子孫たちに従属する。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part7 【北方で生まれる大国とオスマン帝国の衰退】】の続きを読む

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    ヨーロッパの反撃


    ImperioOtomano1683
    オスマン帝国の最大領土(1683年)
    photo credit 


    95: 2014/07/20(日)20:00:59 ID:dkU8dQkVy
    最初に細かく書きすぎると、途中で濃度を薄められないのが問題で、
    実は近代はそこまで詳しくないという


    さて、オスマン帝国の続き。


    セリム1世の後を継いだのはスレイマン1世。後の世では大帝と讃えられる。
    といって、彼が何をしたかというのはちょっと難しい。

    法典を整備して、十数回遠征したけど、ハンガリー征服以外はセリム以上に目立って領土を広げたわけではない。

    地図上では彼の時代にオスマン帝国領は北アフリカをアルジェリアまで大拡大しているんだけど、
    これは、このあたりの豪族や海賊が自分から帰順してきただけであり。


    スレイマン大帝の事業でいちばん有名なのは第一次ウィーン遠征。

    オスマン帝国はハンガリー征服後、中央ヨーロッパの大国ハプスブルク帝国と接触した。

    その首都であり、西ヨーロッパの入り口というべき要衝、オーストリアのウィーンは
    オスマン帝国の人々にとって「赤い林檎の国」といわれる憧れの場所だった。


    なんで赤い林檎なのかは知らん。


    スレイマンはウィーンを包囲するも、イスタンブルからここまで来るのに時間がかかりすぎ、
    冬が迫ったので雪が降る前に撤退。

    オスマン帝国の拡大の限界となった。


    それとは別にスレイマンは艦隊をフランスのマルセイユや東南アジアのスマトラまで派遣したり、
    中央アジアのブハラに援軍を送ったり、ドイツの宗教改革運動に介入したりしている。


    スレイマンが何をしたのかというのは難しいけど、彼の時代のオスマンがまさに全盛期で、その影響力がユーラシア大陸の多くの地域まで及んだのは間違いない。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part6 【ヨーロッパの反撃】】の続きを読む

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    ティムールの中央アジアでの台頭



    77: 2014/07/20(日)16:27:22 ID:dkU8dQkVy
    14世紀になるとモンゴル帝国は分裂を重ね、イラン高原なんぞ群小豪族と宗教団体が入り乱れる戦国乱世となった。

    そんななか、中央アジアで突然、歴史の流れを力づくで逆行させる一大英雄が出現した。



    彼の名はティムール。

    モンゴル系の小貴族の子で、子供のころは羊泥棒なんぞをやっていたらしい。

    捕まって足を散々殴られたせいで生涯片足が使えなくなったともいう。


    だがしかし、青年になったティムールは中央アジアに東西から様々な野心家たちが攻め込む中で、
    次第に頭角を現し、1360年には中央アジア最大の都市、サマルカンドに入城した。

    ティムールは全人類の歴史上で、戦場での指揮能力だけで見れば最強の軍人だったと思われる。

    彼はこれから東西南北に息つく間もなく遠征し、たった一人でモンゴル帝国の西半分、ユーラシアの三分の一を再統一してしまう。

    峻険な山岳地帯も、灼熱の砂漠も、氷雪の荒野も、荒波の蒼海も彼を阻むことはできなかった。

    ティムールは、北はシベリア、南はインド、西は地中海までを征服し、抵抗するすべての都市を破壊し、
    抵抗したすべての人間を殺し、至る所で頭蓋骨のピラミッドを建設し、そしてあらゆる職人をサマルカンドに連れ帰った。


    世界中の美しいものを破壊し、美しいものを作る人間をサマルカンドに集めて、サマルカンドにその美を再現させた。

    そういうわけで、現在のウズベキスタンに位置する古都サマルカンドは「中央アジアの真珠」と言われる美都となった。


    ちなみにティムールにはいろいろな逸話がある。


    たとえば、彼はチェスの達人だった。戦いの前夜には深夜までひとりチェス盤に向き合って、駒を動かしながら作戦を練ったという。

    息子が生まれたときにチェスの勝負をしていて、王と城の駒を取ったところだったので、
    「シャー・ルフ」(王・城)なんていうDQNネームをつけている。

    文字は読めなかったけど何か国語をも理解し、歴史物語を語らせるのが好きだった。

    シリアのダマスカスを包囲したとき、ちょうど城内にいた北アフリカの大歴史家イブン・ハルドゥーンを呼び出し、
    延々北アフリカの地理について説明させたあと、古代バビロニアのネブカドネザル王が
    どの民族だったかという無意味にアカデミックな議論を吹っかけたらしい。


    敵に対しては血も涙もない人物だったけれど、部下はとても大切にしたらしい。

    毎回サマルカンドを出陣するときに、城門の脇に兵士一人ひとりに石を投げさせた。

    兵士たちが次々に出陣するにつれて、城門の脇には石の山ができた。

    軍が凱旋すると、今度は兵士たちに石をひとつひとつ拾わせる。

    それでも、戦いで死んでいった者たちの数だけの小さな石の山が最後に残る。
    ティムールはそれを見て慟哭したと伝えられている。


    そんなティムールはえらく年寄になるまで飽きもせず征服戦争を続け、70歳も過ぎてから「次は中国遠征」と号令。

    何十万もの馬や羊や山羊を駆り集め、何年もの遠征の準備を整えて真冬に出陣したは良いものの、

    寒さのあまり酒を飲みすぎて心臓発作を起こし、行軍中に急死。


    ティムールの死とともに一代で築かれた大帝国は崩壊し、歴史の流れはもとに戻る。

    元通り、モンゴル帝国の崩壊と分裂というプロセスが再開する。

    【1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説 part5 【オスマン帝国のはじまり】】の続きを読む

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